文書と写真・地図による「記憶」の再現

田中河内介の寓居 その2



田中河内介の寓居(たなかかわちのすけのぐうきょ)その2 2009年12月10日訪問

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田中河内介の寓居 豊田小八郎著「田中河内介伝」より

 田中河内介の寓居では、安政の大獄が始まるまでの河内介の暮らしぶりについて記してきた。特に梁川星巌、梅田雲浜そして頼三樹三郎に対する人物評を読むと、「性、狷介、自らに恃むところ頗る厚く」という言葉を思い浮かべざるを得ない。ここでは安政の大獄以降、寺田屋事件の勃発から大久保一蔵達が行った後始末までを眺めて行く。
 安政の大獄が執行された安政5年(1858)から文久元年(1861)にかけて、田中河内介は西国の各藩を廻り多くの志士と連絡を取っていた。豊田小八郎著の「田中河内介」(河州公顕頌臥龍会 1941年刊)に掲載されている年譜よりその動向が分かる。河内介が面会した人々には、真木和泉、小河一敏、是枝柳右衛門、有馬新七、清河八郎、宮部鼎造などの名が見える。
 文久2年(1862)2月15日、柴山愛次郎、橋口壮助が入京し、島津久光東上の報せが齎される。河内介は同17日に西国の志士達に檄文を発する。これをうけて3月中旬には岡藩や久留米藩が上京してくる。河内介一行11人も3月20日に京を発ち、25日に大阪薩摩藩邸28番長屋に入る。27日小河一行も28番長屋に入る。京で兵を挙げ、関白九条尚忠及び京都所司代酒井忠義邸の襲撃計画を立てた。

 4月10日、島津久光が大阪に到着し、土佐堀の屋敷に入る。先ず、妄りに浪人と相計り、年少の者を焚き付け、久光公の滞京を計り、そして断りも無く下関より大阪へ突出したことにより、西郷隆盛の二度目の流竄が決まる。森山新蔵、村田新八とともに11日、船で薩摩に戻される。こうして浪士の暴発を防ぐ役割を果たすはずだった西郷は、大阪を離れることとなる。森山は罪案に憤慨し船中で自刃、村田は鬼界ヶ島へ、そして西郷は徳之島に遠島となる。その後、徳之島から沖永良部島に移されていることからも、久光の西郷に対する怒りが知れる。
 4月12日平野国臣と伊牟田尚平は、京都挙兵計画から離脱する。江戸参勤の途上にあった福岡藩主・黒田斉溥は、島津久光東上を聞き、急遽伏見あたりで久光と会見するという話を黒田支藩秋月の志士・海賀宮門から聞かされたためである。元々斉溥は、薩摩から黒田藩に養子として入ったもので、実家に容易ならぬ難題が出来しないように、入京することなく関東に赴くことを進言するつもりであった。久光の入京がなければ挙兵の機会を逸することとなるため、平野等は大蔵谷で斉溥の到着を待ったが、平野達の行動を察知した黒田藩は、藩主急病と称して参府を見合わせ、駕籠を巡らし帰国の途に着いた。伊牟田尚平は薩摩の捕吏に捕えられ鬼界ヶ島に流竄、平野国臣も帰国の上、獄舎に投ぜられた。
 さらに清河八郎、藤本鉄石、安積五郎、飯居簡平、本間誠一郎は舟遊で狂態を晒し、幕吏に目を付けられるという失態を演ずる。田中河内介や小河一敏の老輩は清河達の不謹慎な行動に対し、橋口壮助と柴山愛次郎の薩摩藩士を通じて詰責し退邸を促している。自ら浪士の長を任じていた清河も、この場の雰囲気を察し本間精一郎に対する不興を言い訳にして、4月13日深夜に28番長屋を去っていった。

 このようにして離脱者が出たものの京都挙兵計画は進行してゆく。4月21日、兵庫警護の任にあった長州藩の浦靱負が入京する。表向きは挙兵計画より御所を守るためのものであったが、薩摩藩に加担している松下村塾派を後押しするためのものとなった。つまり長州は有志ではなく藩自体がこの計画に載ることとなった。つまり文久元年(1861)5月から始められた長井雅楽による公武合体周旋活動が行き詰まる中、大兵を率いた島津久光の東上は長州藩に大いなる刺激を与えた。この情勢の変化を知った長井は、4月14日に京を去り江戸に向かっている。そのため京阪での長州の藩論は松下村塾派の推進する反幕府・尊皇攘夷に固まることとなる。
 既に江戸より馳せ参じた橋口壮助と柴山愛次郎に加え、久光に率いられて上京した有馬新七や田中謙助は、田中河内介と小河一敏と計り、挙兵の期日を4月18日と定める。しかし京都薩摩藩留守居役の鵜木孫兵衛や久光東上のため江戸から上方に来た堀次郎の説得によって一旦は延期される。18日には奈良原喜左衛門と海江田武次が大阪に入り、有馬等の暴発を押し止めようとする。さらに20日には大久保一蔵(利通)も来阪し終日、有馬・田中・橋口・柴山そして田中河内介、小河一敏の諸士と議論している。もとより久光の公武合体策を手緩しとした有馬等は、自らが突出することで藩論を一変できると信じていたため、説得に応じることはなかった。

 遂に計画は実行に移されて行く。当初21日夜に計企したものの薩摩藩吏に察知され、やむなく延期している。長州藩は当初の計画を知らされたため上述のように21日夜の挙兵に準備を行っている。真木和泉も21日に着阪し、役者はほぼ揃う。22日の夕に河内介は青水頼母を京に上らせ、相国寺に幽閉されている前青蓮院宮に予め計画を伝えようとした。このことは小河一敏の「王政復古義挙録」(丸善 1886年刊)にも記されている。すなわち関白九条尚忠及び京都所司代酒井忠義邸の襲撃した後、青蓮院宮を奉り入朝し大義を天下に掲げる。そして主上と親王が議を決し、之を島津氏に委ねること、これを最終的な目標としていた。
 23日早朝大阪藩邸を脱した薩摩の有志達は4艘の舟に別れ伏見を目指し遡上し、七つ半時すなわち午後5時には伏見蓬莱橋の傍らにある寺田屋に入っている。それ以外の諸士も22日夜から23日朝にかけて長屋を出ていったため、六つ半(午前7時)には河内介・左馬介父子と岡藩の列が残るのみとなった。ここで浪士たちを監視する役にあった奈良原と海江田が大阪藩邸に到着する。河内介は医者に行くという口実でその場から脱したが、残った小河は挙兵計画の全貌を奈良原・海江田両士に打ち明けていた。小河等は23日午後に大阪を発ち、伏見の薩摩藩邸に到着したのは24日の丑(午前2時)の頃であった。 ここでは寺田屋事件自体には触れず、その後の薩摩藩が行った処置に注目する。事件直後の邸中は混乱を極めていた。有馬、田中、柴山、橋口等の薩摩藩士は差し押さえられ、田中河内介や真木和泉の列は既に京都の薩摩藩邸に身柄を移されていた。そして小河等は伏見の薩摩藩邸に留められた。

 有馬新七・柴山愛次郎・橋口壮介・西田直五郎・弟子丸龍助・橋口伝蔵の6名が即死、田中謙助・森山新五左衛門の2名が重傷、後に切腹。大阪藩邸で療養していたため寺田屋に参加できなかった山本四郎も藩命に背き抵抗した後、自害。このように寺田屋事件は、薩摩藩にとって9名の同志と討手側側の道島五郎兵衛、計10名を失う凄惨な事件となったが、さらなる悲劇は薩摩藩の手によって、この後に引き起こされている。

 「日本史籍協会叢書26 大久保利通日記1」(日本史籍協会編 東京大学出版会 1927年刊 1983年覆刻)には大久保一蔵によって寺田屋事件発生直後からの処置が記されている。これによると、上記8名以外の諸士は下記の通りであった。

一 右に組し候人数左之通
    大山弥助    是枝万助   柴山龍五郎
    吉田清右衛門  林正之進   深見休蔵
    有馬休八    岩元勇助   谷元兵右衛門
    岸良三之丞   橋口吉之進  篠原冬一郎
    吉原弥二郎   三島弥兵衛  西郷真吾
    河野四郎左衛門 森真兵衛  ○町田六郎左衛門
   ○伊集院直右衛門○永山万斎  ○木藤市之介
   ○坂本彦右衛門
右丸星之人数江戸より亡命之人数にて候 外は守衛方にて候
一 浪人人数左之通
    田中河内介   青木頼母   中村主計
 右京都
    海賀宮門
 右秋月
    真木和泉    同菊四郎   酒井伝次郎
    鶴田陶司    原道太    荒巻平太郎
 右筑後久留米
    古賀管次    中垣健太郎  吉武助左衛門
    渕上謙三
 右同
    宮地誼蔵
 右土州
    宮田猛十郎   池之上隼之介
 右佐土原
 右大阪より暴発之人数
    河内介倅左馬介、同人甥千葉郁太郎、土州重松縁太郎、僕一人
 右追て参候人数

 徳富蘇峰は「近代日本国民史 文久大勢一変 上篇」(時事通信社 1965年刊)で、小河一敏等の名がないのは、淀川の舟中に有り、未だ伏見に到着しなかったからとしている。
 大久保一蔵は翌日の4月24日より藩邸に泊まり込みで諸士への説諭を試みている。24日に大久保が田中河内介と引き合い、議論に及んだところ、河内介は真木和泉等と談合した後に返答するなどと記されている。また秋月藩の海賀宮門から面会の申し入れがあり、堀次郎と高崎友実がこれにあったとあるので薩摩藩の対応担当が見えてくる。25日にも海賀からの申し入れによって、大久保、堀、高崎と海賀、田中、真木との間で議論が成されている。

談合之趣有之云々承知
詳細曲折弁論ニ及ひ候所大抵安心之模様也

 翌26日には藩士と浪人に対する処置が決まり、藩士は2つに分け、浪士も田中河内介父子と海賀宮門等に分けたことが記されている。そして28日には下記のように記されている。

一 今日真木一列大坂え被差下候
凡て浪人引払当座静謐相成候 今晩は久々振退出

 これを以って大久保一蔵の寺田屋事件の後始末が終わっている。

 豊田小八郎著の「田中河内介」には同志の面々として、薩摩藩の関係者は江戸より脱藩上阪した大脇忠左衛門、美玉三平、指宿三次と医術修行のために上阪していた薩摩藩の松田棠園、京で治療されていた是枝柳右衛門を加えた36名としている。

薩摩  大脇忠左衛門 美玉三平   指宿三次
    松田棠園   是枝柳右衛門
土佐  吉村寅太郎
岡   小河弥右衛門 田近陽一郎  赤座弥太郎
    堀謙之助   夏目淳平   安野藤次郎
    井上金吾   樋口勝之助  堀田左一
    森玉彦    田部龍作   福原武三郎
    宇野関蔵   高野直右衛門 高崎善右衛門
    渡邊彦左衛門 廣瀬友之丞  矢野勘三郎
    野溝甚四郎
  右は後隊であった為め、事変には遇はなかった者。
肥後  松田重助   内田清    竹下熊雄
    堤松右衛門  湯浅五郎兵衛
  右は差支あつて、事変には遇はなかった者。
筑前  平野次郎
  右は事変前本国に護送されて、事に及ばなかつた者。
薩摩  伊牟田尚平
  右同断。
出羽  清河八郎
  右事変前脱去。
備前  藤本津之助
  右同断。
武蔵  安積五郎
  右同断。
京都  飯居簡平
  右同断。
越後  本間精一郎
  右同断。
長州  久坂玄瑞   福原乙之進  寺島忠三郎
    中谷正亮   佐世八十郎  入江九一
    久保清太郎  楢崎弥八郎  楢崎忠助
    天野清三郎  中谷茂十郎  中谷彪次郎
    小倉梅三郎  伊藤伝之助  品川弥次郎
    香川助蔵   山縣小輔   白井小助
    堀眞五郎   舟越清蔵
  右の他に款を納れてゐた者が、長藩に二百余人あつたといふ。

 一挙の当日、すなわち文久2年(1862)4月23日の田中河内介に関わった人々の行動を改めて見てみる。子息の左馬介は早駕籠で京都に向かったため午後2時頃には京に居た。甥の千葉郁太郎は中村主計と同舟、是枝柳右衛門は別舟で、いずれも同日早朝には八軒屋を船出した。是枝は綾小路東洞院の西村敬蔵方に入り、腫れ物の手当てを受け、夜に入り討ち入りの装束を整え竹杖にすがって河内介の寓居・臥龍窟に辿りついた。その時、臥龍窟には秋月藩の海賀宮門や吉田益太郎を始め、雲州や長州の諸浪士が多数集まり、訣別の宴をひろげていた。その宴半ばに久留米の原道太が伏見から飛んできて、一挙の失敗を告げている。是枝の記すところによると、翌24日河内介は錦にあった京都薩摩藩邸より書を寄せて、左馬介と郁太郎を錦邸に呼び寄せている。また真木の伝えによると海賀、青水(木)等は久光が志士の義挙に同意したと聞いて錦邸に入ったと謂われている。また小河の記すところによると、久坂玄瑞、堀眞五郎の列は臥龍窟に赴き、左馬介、郁太郎、柳右衛門等と一挙の報を待っていたところ、四更頃すなわち午前2時頃に、久留米の原道太と荒巻平太郎が一挙失敗の知らせを持ち込み、原と荒巻の言うがままに宮地と千葉が錦邸に入ったとしている。恐らく大混乱の中で諸説が生じたのであろう。
 4月26日になって是枝柳右衛門は薩摩藩邸に名乗り出ている。その後のことはまた別の項で記すこととする。美玉三平は島津久光の処置に納得せず藩邸を飛び出し、翌年の但馬生野の変に身を投じ戦死している。

 前述のように小河一敏を始めとする岡藩士一党は、三十石船の出発が遅れに遅れ、夕刻になって大阪を発っている。そのため伏見に到着した時には、既に寺田屋での上意討ちは終わり、その後始末に薩摩藩士達が駆け回っていた。伏見の薩摩藩邸に入った小河等を薩摩藩は厚遇している。暫く伏見で留まった後、京都の薩摩藩邸に移り、この年の8月には孝明天皇より島津久光を経て小河等に叡感状を賜る。9月には無事に岡藩に引き揚げる事ができたが、本国では守旧派が勢力を拡大していたため、尊皇攘夷派は弾圧され首領の小河は幽閉される。それでも中川宮朝彦親王及び近衛関白の執成しによって禁固を解かれ、同志を率いて同年12月13日に上京を果たしている。文久3年(1863)2月藩主に従い京を発ち帰藩するが、5月に姉小路公知卿が暗殺され政情が混乱を極めると、7月に幕府は一敏に上京を命じている。これを受けて8月24日再び上京している。ほぼ1ヶ月京に留まった後10月27日に京を発ち、10月16日に帰国、再び城内で幽閉される。明治維新が成ってから新政府に登用されるものの、文久3年10月以降は全く維新回天に関わることができなかったと言ってもよいだろう。そのため小河一敏の志士としての生命は寺田屋事件で潰えたともいえる。しかしそのことが彼を明治の時代まで生き永らえさせ、多くの草莽の志士達の功績を後世に伝えることを彼に成さしめたとも考えられる。

「田中河内介の寓居 その2」 の地図


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田中河内介の寓居 その2 のMarker List

No. 名称 緯度 経度
赤●  田中河内介寓居跡 臥龍窟 35.0195 135.7724
01  梁川星巌寓居跡 鴨沂小隠 35.0181 135.7724
02  山紫水明処 35.0181 135.7709

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