梨木神社 その7
梨木神社(なしきじんじゃ)その7 2010年1月17日訪問
梨木神社 その6は京都を舞台とした一橋派の裏面活動の前半である。これを表側の交渉と合わせてみると何を目的にしていたかが明らかになってくる。
正月17日に、主上は関白・九条尚忠に対して宸翰(「孝明天皇紀 第二」(平安神宮 1967年刊) 正月17日の条)を下している。この宸翰では、今回の条約は大変重大であるので関東からの贈賄を斥け、容易に関東の申し分を受け入れてはならないと注意を喚起している。やがて来る老中・堀田正睦が金品を使って条約勅許を得ようとすることを見越したものである。
正月25日には三公両役以外の大納言、中納言参議等の諸公卿にそれぞれの意見を上申させている。これが三公両役以外の特に中下級公卿の朝廷政治への介入の契機となった。26日にも関白は主上より宸翰(「孝明天皇紀 第二」 正月25日の条)を賜っている。ここで主上の思召しが以下のように示されている。
仍於二愚身一も、兼ての愚存申述、入二干賢耳一置候事、何分にも、国体不安之時と、恐縮無レ限事に候。依レ之開港開市之事、如何様にも閣老上京之上、演舌候共、固く許容無レ之様、況畿内近国は、無二申迄も一事と存候。
主上の決意は既に固く、堀田正睦の条約勅許を得て幕府内の意見を開国に統一するという見通しが最初から不可能なものであったことが明らかとなる。この宸翰の最後に太閤・鷹司政通が万一関東の意見を取り入れても関白は当局者として自らの所信を把持するようにと強く覚悟を促している。主上は鷹司太閤父子が幕府の申し出を受け入れようと行動することを危惧するとともに、頼りとする関白・九条尚忠にも踏ん張ることができるか心配していたことが伝わる。この安政5年(1858)正月現在、鷹司政通が関東寄り、九条尚忠が主上の思召を遂行する側にあった。つまり、「世の中は欲と忠との堺町 東はあずま西は九重」である。
川路聖謨の「都日記」によれば、入京した堀田正睦が本能寺に投宿したのが2月5日。6日には林田大学等と打ち合わせ、9日の参内に向けての準備を行っている。当日、参内したのは堀田正睦であり陪臣の川路と岩瀬は、「はしめは御勘定奉行御目付は御附添にて参内之積也し夫に不及して相済申候」と、参内が叶わなかった。川路と岩瀬が伝奏・議奏の両役に外国の事情を陳述したのは2月11日と13日であった。「孝明天皇紀 第二」の2月11日の条に堀田が提出した覚書が所収されている。当時より更に3~40年前に遡りペリーやプチャーチン等の来航に至った経緯とハリスの出府までが説明されている。そして和親交易を拒むことはアメリカ一国を敵とするのではなく、列国全てを敵にすることを、露土戦争で明らかにしている。つまり和親か戦争かの2つ以外に取るべき道はなく、自国だけで立ち行く国は世界に存在しないという論法になっている。堀田等は虚偽や誇張や威嚇等以ってではなく、自ら信じる所説への理解を京都に求めようとした。
2月23日、朝廷は議奏伝奏の両役を通じて、外難に付き国論統一の旨を諭させた。つまり衆論一和の上、改めて勅許を請うようにということであった。入京以来凡そ20日をかけた交渉の結果が、幕府にとって結論先延ばしに近いものであった。さらに兵庫開港は罷り成らぬということは、これまでのハリスとの交渉を一から見直さなければならないものであった。川路聖謨が青蓮院宮に対面した数日後に、このような回答が朝廷から下されることとなった。
再び橋本左内の活動を見て行く。青蓮院宮と川路聖謨の対面の様子を聞いた春日潜庵は「君も橋公も同穴狐狸ニて、至竟、橋君を立候て奇貨する意ならんと申説、且此等ハ水老公を圧縮候者ならんかと深疑候よし。」であった。これは2月23日頃の出来事であった。「橋本景岳全集」(「続日本史籍協会叢書 橋本景岳全集 二」(東京大学出版会 1939年発行 1977年覆刻))に所収されている 「三七〇 安政5年2月29日 先生より京都の形成等を報ずる江戸邸への密書」が記されたのが2月29日であるから、その一昨日前に左内は春日と大論戦を繰り広げ、遂には「却て橋ノ義死力を竭し周旋致し候様ニ相成申候。」と潜庵を一橋派へ取り込んでいる。
儒学者・三国大学は、その名からも分かるように越前国坂井郡三国の生まれである。元々中根雪江と旧知の仲であること利用して左内は三国に接近し、さらにその紹介を得て鷹司家の家臣・小林良典と相知る関係になっていた。左内は2月29日付けの密書に続き、3月14日にも長文の「先生より福井藩へ 藩より中根雪江」を記している。この書が江戸に着いたのは4月3日とされている。ここには左内の3月初旬の活動が記されている。
此頃太閤殿ハ殊之外不評判、貴賎共悪申居候処、関白殿ニも何やら関東へ被レ対候ては平穏を被レ仰、御所方へ被レ対候てハ、英烈を被レ吐、公卿方大ニ疑惑之よし
太閤・鷹司政通が幕府寄りで不評であったことと共に、関白・九条尚忠が幕府側に味方するようになってきた様子が記されている。左内には気が付かなかったことだろうが、井伊家家臣・長野主膳が正月24日に入京し、九条家家臣の島田左近の島田左近を通じて関白・九条尚忠の取り込み工作を行っていた。また堀田正睦もまた2月23日の御沙汰を軟化させるために関白に対して金品を以いて懐柔を図っていた。これ等の働き掛けの効果が表れてきた時分である。
再び表側の交渉の状況を確認する。2月23日の御沙汰及び尋問により、堀田正睦は関東に御沙汰書を伝達しその返答の到着を待たざるを得ない状況になった。要するに老中主席である堀田でも、この案件に関しては全権特使ではないと言い渡された訳であり、堀田個人にとっても不面目の至りであった。兎も角も堀田は勅答草案を認め江戸に送ったのが2月25日であった。その後、九条関白より「勅答に対する関東の答案は、余りに煩冗に渉らんこと然る可らず。」との助言というか指示を得て、修正した勅答草案を翌26日に再送している。江戸からの奉答書は3月5日に京に到着、すぐに伝奏に提出された。既に幕府側に付いていた九条関白の計らいにより、翌日にも条約勅許を賜れると堀田は信じていた。
3月5日夕、九条関白により青蓮院宮、三条内大臣、近衛左大臣の出仕が停止されている。主上の最高顧問である3人を主上から隔離することを目的として行われたものである。さらに関白は、「何共御返答之被遊方無之此上ハ於関東可有御勘考様御頼被遊度候事」(「孝明天皇紀 巻78」(平安神宮 1967年刊)3月20日の条「長谷家記」)という一文を加えた勅答草案を作成し、6日には伝奏に示している。この関白の一存による行動の反動として3月12日に廷臣八十八卿列参事件が発生する。この事件については、京都御苑 賀陽宮邸跡 その2で記しているので、そちらをご参照下さい。 そして3月20日に勅答が確定し参内した堀田正睦に交付される。その内容は2月23日の朝旨に戻り、更に衆議し言上せよという内容であった。条約勅許についての幕府の願いは完全に拒絶されこととなった。
関白・九条尚忠が幕府側の便宜を図るようになったのは井伊家家臣・長野主膳の周旋によるものだった。そして鷹司父子が青蓮院宮や三条実萬側に付いたのは、橋本左内の工作に拠るところが大きい。左内の3月14日の報告書に下記のように記している。
此頃三国大学・小林筑前守両人同腹ニて、頻ニ太閤を奉レ諌、何分 叡慮ニ御背不レ被レ成様ニト切に申上候処、大ニ御氷釈、依て、青蓮院様へ小林より以二伊丹一嘆願申上、鷹殿へ御出之上御説得相願候処、段々御咄ニ相成、詰り川路之申ス如く、和候ても乱之恐有レ之ならば不レ如レ不レ和、左あれハ、叡慮ニ可レ奉レ隋と一決ニ相成り候よし。此より後ハ鷹右府ニも段々覚悟相立、大ニ手強の論に相成、畢竟関白一人伝奏一人のミ関東方と云事ニ相成申候。
鷹司父子の転向とともに廷臣八十八卿列参事件の発生、伝奏・東坊城聡長の罷免が左内の報告書に記されている。
10日後の3月24日に再び左内は「先生より中根雪江への書及三月十五日以後の日報書」を送っている。3月15日左内は三条邸に参内し、西城の件について「内密御相談御座候て、遂ニ年長・英傑・人望之者と申すに相定ル。」と聞いている。また同日、青蓮院宮へも参内し宮に建策を行っている。そして17日から19日にかけて老中・堀田正睦への勅答が定まる経緯が記されている。堀田は20日の勅答拝受以後も伝奏議奏と連日協議を行ったが、三家以下諸大名再衆議の上は御許可にも相成るべしとの堀田の要求は、主上の思召に背く事から伝奏議奏より拒絶されている。
このようにして問題の焦点は条約勅許から継嗣問題に移って行く。橋本左内の活動の最終目標は、建儲の候補者に上記の年長・英傑・人望之者の資格を加えさせる点に定まった。既に3月14日の報告書内で松平春嶽の御直書を送るように依頼している。勿論左内が京で手稿したものを江戸に送っている。この御直書が3月21日の午後に左内の手元に届いた。「続日本史籍協会叢書 橋本景岳全集 二」(東京大学出版会 1939年発行 1977年覆刻)に所収されている「三九九 安政5年3月18日 松平春嶽公より三国大学へ」の書簡である。3月14日の報告書には御直書の使用目的が記されている。つまり当時、考えを改めた鷹司太閤を一橋派として担ぎ出すためであり、そのため松平春嶽自らが三国大学へ依頼したという証拠を示すことが必要であった。そして3月21日に年長・英傑・人望之者の資格を特記した御内勅が申請されている。これを関白・九条尚忠が年長の二文字を除こうと争ったが、当日の延議では三資格は残った。しかし翌22日の内勅を堀田正睦に交付する直前に鷹司太閤が出仕しなかったことを幸いに、関白が三資格を削って口頭で告げさせたとされている。この22日に行われた内勅の伝達で、三資格を列挙したとする説と既に削除されていた説がある。何れにしても24日に堀田が受け取った書付は以下のようなものであった。
急務多端之時、養君御治定、西丸御守護(付札)年長之人を以 政務御扶助に相成り候はヾ御にぎやかにて、御宜被二思食一候。今日幸之儀可二申入一、関白殿、太閤殿被レ命候事。
この付札について、内藤耻叟の「安政紀事」(「幕末維新史料叢書6 戊辰始末 安政紀事」(人物往来社 1968年刊))では、3月22日伝奏議奏が堀田の旅館を訪れ、「西丸の事英傑人望年長の三件を以て選挙早々治定可有之様にと天皇の旨を演ぶ。」と伝える。内藤耻叟は22日時点で三資格は存在したという説を取っている。23日にも延議があり、24日議奏が旅館を訪ね、西城の事急便を以って関東に伝達するように命じ書付を伝達している。「安政紀事」は以下のように説明している。
時に水野、土佐の意を以て長野義言等周旋、紀州を立るの論頻りに起る。関白殿下又之に惑ふ。矯レ勅年長英傑人望等の字を除く。曰、
急務多端之時節養君御治定西丸御守護政務御扶助に相成り候はば御にぎやかにて御宜被思食候。今日幸之儀可申入旨関白殿、太閤殿被命候事。
堀田、年長の二字を加んことを請ふ。張紙にて年長の人を以ての六字を加ふ。
「安政紀事」が真実を伝えているかは分からないが、付札に関しては一応腑に落ちる説明にはなっている。このようにして土壇場での南紀派の工作によって一橋派は手痛い逆転打を蒙る事となる。しかし、これらのことは直に一橋派には伝わらなかったようだ。橋本左内は3月21日に御直書を手に入れたことにより、延議で諮ったとおり三資格を盛り入れた内勅が下ったと思い込んでいた。そのため3月27日朝に京を発ち宇治平等院を見物した後奈良へ向かい。東大寺や春日大社を暦覧している。さらに奈良に一泊して法隆寺を見て郡山を訪れている。自らの活動の成功を疑わなかった故の行動であろう。左内は4月3日に京都を発ち、同月11日に江戸に戻っている。井伊直弼が大老に就任したのが、左内の帰府から僅か十余日後の4月23日のことであった。
以上、長々と天璋院篤姫の入輿と将軍継嗣問題について、梨木神社の項を借りて書いてきた。そもそもの篤姫の入輿は継嗣問題とは関係ないところで生じたものの、輿入れ時期が延期に次ぐ延期で長引いたことにより、最終的には継嗣問題に関係することとなった。そして将軍継嗣問題に関して京都を舞台として裏面活動を行った橋本左内が三条家を活動の拠点としていたこと。さらには三条家に青蓮院宮、鷹司家、久我家を強く結び付けたことにより、京都における一橋派を構成してきたことを見てきた。最終的には長野主膳と島田左近による懐柔策に取り込まれた九条尚忠によって、内勅から年長・英傑・人望之者の三資格を削除され敗北を喫することになる。三条家からは少し離れた記述になったものの、安政の大獄での懲罰の遠因がここに作られていた。
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