閑臥庵
黄檗禅宗 瑞芝山 閑臥庵(かんがあん) 2010年1月17日訪問
西園寺の山門を出て天寧寺の前を過ぎ、再び寺町通と鞍馬口通が交わるところまで戻る。鞍馬口通を東に曲がれば上善寺そして出雲路鞍馬口に至るが、今度は西に曲がる。通りの北側に閑臥庵の竜宮門が現われる。
閑臥庵は黄檗宗の禅寺で山号は瑞芝山。黄檗宗は日本における三禅宗のうちの一宗派で、隠元隆琦が江戸時代に開いた宇治市の黄檗山萬福寺を本山とする。隠元禅師は中国明朝時代の臨済宗を代表する僧で、中国福建省福州府福清県の黄檗山萬福寺の住持を務めていた。当時の中国は明末清初の混乱の真っ只中にあった。禅師は日本からの度重なる招請に応じ、承応3年(1654)に弟子20名を伴い長崎の興福寺に入っている。既に63歳となっていた禅師は、当初3年間、日本に滞在する予定であった。本国からも再三の帰国要請もあったが、日本人弟子の龍渓性潜らが引き留め、ついに万治元年(1658)には4代将軍・徳川家綱との会見を行うまでに至った。これが功を奏し万治3年(1660)山城国宇治郡大和田に寺地を賜り、翌4年(1661)には故郷である中国福清と同名の黄檗山萬福寺を開創している。 禅師は臨済宗を嗣法し、当初は正統派の臨済禅を伝えるという意味で臨済正宗を名乗っていた。鎌倉時代に伝わった臨済宗は日本化が進み、明朝風様式を伝える隠元禅師の宗風とは明らかに異なっていた。幕府の外護を背景として大名達の支援を得ることとなり、教勢も拡大していく。萬福寺の塔頭も33ヵ院に及び、延享2年(1745)の末寺帳には1043の末寺名が記されるようになっていた。さらに幕府の宗教政策により、臨済宗から黄檗宗へと改宗も行われている。このような手厚い保護政策は、乱れを生じていた日本の禅宗各派の宗統・規矩の更正を目的としていたとも考えられる。
禅宗と謂えば臨済宗か曹洞宗と思う方が大多数を占めるだろう。禅宗とは鎌倉時代に日本に入り直に武家社会に定着したという歴史教育を強く受けてきたことと共に、教部省が明治7年(1874)に禅宗を臨済、曹洞の二宗に定めたことにも起因している。この時、黄檗宗は臨済宗黄檗派と改称させられている。一度江戸幕府によって認められた宗派だったが、新たに樹立された明治政府によって再び臨済宗の中に戻された訳である。この名称は後々まで残ったが、実は同9年(1876)に、禅宗の一宗として独立を果たしている。それでも臨在禅 黄檗禅 公式サイトとして、臨黄ネットを共同で運営し、臨黄合議所を設けていることからも二つの宗派の間には緊密な交流が成されていることが分かる。
閑臥庵に話を戻す。閑臥庵の公式サイトでは下記のように創建の歴史をまとめている。
黄檗禅宗 瑞芝山 閑臥庵
「閑臥庵(かんがあん)」は山号を瑞芝山(ずいしざん)という黄檗宗の禅寺でございます。
江戸時代前期には後水尾法皇の実弟である梶井常修院の宮の院邸でございましたが王城鎮護の為に貴船の奥の院から鎮宅霊符神(ちんたくれいふじん)をこの地に歓請し、初代隠元禅師から六代目の黄檗山萬福寺管長千呆(せんがい)禅師を招いて1671年に開山したのが当寺の起こりであります。
御所の祈願所として法皇自ら「閑臥庵」と命名し、御宸筆の額を寄せて勅号としたほか、法皇は、春に、秋に、和歌を詠んで庭を愛でたといわれ、
秋の句:
開けぬとて
野辺より山に入る鹿の
あとふきおくる 萩のした風」
など、御宸翰その他が今も伝えられています。
閑臥庵に祀られている北辰鎮宅霊符神は、十千十二支九星を司る総守護神であり、陰陽道最高の神とされています。
その鎮宅霊符神は、平安時代の中ごろ円融天皇が方除・厄除の霊神とし京都のうしとら(東北)にあたる貴船に祀ったもので、天皇が陰陽師の安倍晴明に付託開眼させたと伝えれる金剛象で、高さ四尺五寸の神像です。
まとめると、後水尾法皇自らが御所の祈願所として閑臥庵と命名し、萬福寺の六代目管長である千呆禅師を招いて寛文11年(1671)に創建したということである。
天明7年(1787)秋に刊行された拾遺都名所図会には間臥庵として図会とともに曙桜の解説を以下のように掲載している。
曙桜 〔上京鞍馬口通小山口間臥庵にあり。後水尾帝の御製によつて名とす。当庵は禅宗にして、開基は黄檗六代千呆和尚、中興は伯■和尚。仏殿釈迦仏、観音、地蔵を安ず〕
かすみ行松は夜ふかき山の端にあけぼのいそぐ花の色哉 後 水 尾 院
後水尾院尊影 〔当庵方丈に安置す。林丘寺普明院の御筆画影二尺余、宝篋院女宮の御讃あり、此帝の御製によつて曙寺ともいふ〕
霊符神社 〔当庵にあり。金銅の像長四尺六寸、むかし安倍晴明勅をうけて開眼する所なり。霊験日々に新にして常に詣人多し、近年社檀建立ありて美麗なり〕
開基とされる千呆和尚は、中国明末に生まれ日本に渡来した臨済宗黄檗派の禅僧、黄檗山萬福寺第6代住持の千呆性侒である。やはり竜宮門を持つ深草の石峰寺を正徳3年(1713)に開創している。
千呆は崇禎9年(1636)福建福州府長楽県に生まれ、明暦3年(1657)2月に師の即非に随って日本へ渡海している。崇福寺に入り即非の法嗣となり、寛文5年(1665)即非より嗣法を受けている。同8年(1668)7月に崇福寺中興第二代なり元禄6年(1693)まで住持を務める。寛文11年(1671)即非が示寂すると舎利を崇福寺に納めた後、萬福寺に赴き隠元隆琦80歳の大賀を祝っている。千呆が萬福寺の第6代住持となったのは元禄8年(1695)10月の第5代住持・高泉性敦の示寂後の事である。
上記の拾遺都名所図会からは、閑臥庵が千呆によって創建され、伯■和尚によって中興されたことまでは分かるものの、創建の具体的な時期やそれ以後の歴史については分からない。ちなみに拾遺都名所図会の伯■和尚とは、渡来僧で黄檗宗第20代住持となった伯珣照浩のことと考えられる。
さらに京都市が管理している京都観光Naviでは以下のように説明している。
黄檗宗。後水尾法皇が御信仰篤く、もと梶井常修院の宮の院邸を献上されたものである。初代隠元禅師から六代目の黄檗山萬福寺管長千呆禅師を招いて1671年に開山した。
法皇より「閑臥庵」の勅号を賜り御所の勅願所とされた。十干十二支九星を司る総守護神で、安倍晴明が開眼した北辰鎮宅霊符神が祀られている。後水尾法皇ゆかりの品々や伊藤若冲の十二支版木、開山三百三十周年記念時に制作した砂曼荼羅など公開されている。
梶井常修院は後陽成天皇の第13皇子の慈胤法親王のことであり、後水尾天皇の異母弟にあたる。法親王は大変長寿で元禄12年(1700)まで存命であった。京都観光Naviは、ほぼ閑臥庵の伝える歴史をそのまま引用している。そのため寄進された宮邸に寺院が創建され、閑臥庵の勅号を賜ったのが寛文11年(1671)と一致している。後水尾法皇は延宝8年(1680)に崩御されているので、それ以前でなければ勅号を賜ることも閑臥庵の境内にあった曙桜の歌を詠むことも出来ない。しかし上記のように、千呆が萬福寺の第6代住持となったのは元禄8年(1695)10月以降のことであるから、もし開山が千呆であったとしたら萬福寺第6代住持になる前のこととなる。どうもこのあたりに、時間の不整合があるように思える。
ちなみに「京都・山城 寺院神社大事典」(平凡社 1997年刊)では、拾遺都名所図会を参照しながら下記のように説明している。
「拾遺都名所図会」によれば、霊元天皇が父後水尾天皇の聖旨を継いで、貴船(現京都市左京区)の奥院より鎮宅霊府神を遷座し、隠元禅師の門下千呆を開基として、大宮御所(現京都市上京区)の北に創建したのに始まる。後水尾天皇が霊府神廟の前にある桜を見て、「かすみ行松は夜ふかき山の端にあけほのいそく花の色哉」と詠んだことから、この桜を曙桜、寺を曙寺と称するようになったが、桜は鎮宅霊府神遷座の記念に植えたものと伝える。
つまり閑臥庵の創建は後水尾法皇の崩御後、子の霊元天皇によるものであり、当時萬福寺第6代住持であった千呆を開基としている。法皇の御詠歌は、貴船の鎮宅霊府神廟の桜を詠んだもので、遷座の記念として閑臥庵に植えた桜が、後に有名になり曙桜あるいは曙寺となったというように読める。ただしこの全てが拾遺都名所図会に書いてないことは、上記の参照を見ても明らかであり、最も重要な霊元天皇による部分の根拠が示されていない。いずれにしても、この説明の方が時間の流れに合っている様に思えるが、それでは困る人が存在することも十分に理解できる。
最後に鎮宅霊符神について。公式サイトでの説明と拾遺都名所図会の解説は一致している。平安時代の中頃に円融天皇が方除・厄除の霊神として京都の丑寅にあたる貴船に鎮宅霊符神を祀っている。陰陽師の安倍晴明に付託し開眼させたと伝わる四尺五寸余の金銅製の神像が本堂前の祠堂に安置されている。この鎮宅霊符神を示すために、閑臥庵の竜宮門の左手に方除開運 鎮宅霊符神本廟の石碑が建てられている。
閑臥庵は普茶料理をいただけるものの、寺院としては非公開と思っていた。今回公式サイトを見ていたら、拝観時間:13:00~22:00で一般公開を行っていることが分かった。何れかの機会に訪れたいと思う。
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