報恩寺
浄土宗知恩院派 堯天山 報恩寺(ほうおんじ)2010年1月17日訪問
泉妙院の山門越しに尾形光琳とその一族の墓を拝観した後、寺之内通を再び西に戻り小川通を南に下る。凡そ40メートルくらい歩くと、通りの西側に報恩寺の山門と石橋が現れる。新しく建てられた寺号標には“浄土宗鳴虎 報恩寺”と記されている。寺之内通より北側の小川通は小川に沿って南下するが、百々橋の東橋詰めで通りが20メートル東に付け替えられている。そのため小川通から報恩寺の石橋までの間に20メートル程度の参道が生じている。その両側には民家の妻面が見えるため、少し不思議な空間になっている。山門手前の石橋は、かつて流れていた小川(こがわ)を渡るためのものであった。しかし昭和38年(1963)に百々橋が取り除かれ、小川も同40年(1865)に埋め立てられ、報恩寺の橋の北側と南側にも民家が建てられている。かつての小川を感じさせるものは残っていない。恐らく初めて訪れた人は何のために石橋か設けられたか分らないだろう。
石橋には6本の欄干があり、この訪問した時にはかなり腐食した擬宝珠が取り付けられていた。この後2018年3月に再び訪れると真新しいもの交換されていた。この石橋が慶長7年(1602)秀吉の侍尼・仁舜尼による寄進とされたのは、擬宝珠に残された銘より分るとされている。境内にある“堯天山佛牙院鳴虎報恩寺略縁起”(以後“報恩寺略縁起”)に、創建当時の銘の入った擬宝珠が2基保存されているとあるので、どうやらこの擬宝珠とは異なるものが報恩寺に現存しているようだ。確かによく見ると寄進者氏名が列記されているので、明治に入ってから行われた修復の際に作られたものであろう。
報恩寺の創建については不明な点が多々ある。上記の“報恩寺略縁起”では以下のように記されている。
室町時代中期までは法音寺と称する八宗兼学の寺院として一条高倉附近(現在の御所御苑内、後に有栖川宮高松殿邸となる)に在ったが後柏原天皇の勅旨を以て浄土宗寺院となり現在に至る。この時寺号を報恩寺に改め勅額を賜わるが享保の大火で類焼し今は存在しない。
本尊は鎌倉時代の名匠安阿弥快慶の阿弥陀三尊像である。
つまり報恩寺の元となったのは一条高倉にあった法音寺であるが、その創建についても報恩寺に改称された経緯にも触れていない。これに対して「京都・山城 寺院神社大事典」(平凡社 1997年刊)は、寺伝より報恩寺の前身にあたる寺として葉室山浄住寺をあげている。黒川道祐が天和2年(1682)から貞享3年(1686)に記した「雍州府志」(新修 京都叢書 第三巻(光彩社 1968年刊))の浄住寺には下記のような記述が見られる。
今寺絶為二村名一牙利舎二京北浄土宗法音寺一并伊達天像又銅燈台等亦在二此寺一
元弘3年(1333)、峰ヶ堂一帯に後醍醐天皇方の千種忠顕が布陣したため六波羅の北条勢からの攻撃を受け、広大な境内に諸堂を配した浄住寺も兵火を受けて焼亡している。その後、応仁の乱や明応2年(1493)に発生した細川政元によるクーデター(明応の政変)でも浄住寺は被災している。特に明応の政変では足利幕府第10代将軍・足利義稙の側近公家衆として権勢を振るった大納言葉室光忠が政元の家臣によって殺害されている。浄住寺は弘長年間(1261~64)に権中納言葉室定嗣が出家した寺院であり、定嗣の没後は葉室家の菩提寺となっていた。葉室光忠を殺害した細川政元は、葉室邸だけではなく浄住寺をも破却したと「京都・山城 寺院神社大事典」は記している。
なお「雍州府志」の報恩寺の条には、もう少し詳しく浄住寺の宝物の行方が記述されている。
寺物有二牙舎利一則有二伝来之記一舎利則室町女院被レ寄二附興聖菩薩一者也爾後令レ安二置葉室浄住寺一 後醍醐天皇癸酉兇徒掠二奪葉室衣笠辺寺物一仏閣等遂為二焦土一矣此時浄住寺亦罹二火災一牙舎利并霊宝等分散 光明院暦応三年重求二得牙舎利一遂被レ置二禁闕一 後柏原院文亀元年舎利并仏具等賜二当寺一
伝来記によれば、浄住寺の牙舎利は室町女院、すなわち後堀河天皇の第一皇女の暉子内親王が弘安年間(1278~87)に浄住寺の叡尊に寄進したものである。しかし後醍醐天皇癸酉すなわち元弘3年(1333)の戦いで葉室の浄住寺が焦土となりその宝物も離散している。しかし暦応3年(1340)には光明天皇の求めに従い、浄住寺に戻ってきた舎利を宮中に入れたということらしい。そして“報恩寺略縁起”の記述するように、凡そ150年後の文亀元年(1501)に後柏原天皇より浄土変相、千体地蔵尊像、虎の図、興正菩薩の二十五条袈裟等とともに一条高倉にあった八宗兼学の法音寺に下賜されたという。その際法音寺は浄土宗の報恩寺に改められている。
後柏原天皇の治世は正に応仁の乱後の混乱期と一致する。明応9年(1500)後土御門天皇の崩御を受けて践祚したものの、朝廷の財政は逼迫しており即位の礼をあげたのは実に21年後の大永元年(1521)のことであった。この時期の内裏は現在の京都御所とほぼ同じ土御門東洞院殿であった。これは北朝の光明天皇が建武3年(1336)に定めた方1町に満たない里内裏であった。応永8年(1401)土御門東洞院殿は足利義満によって方1町の敷地に拡張されている。つまり後柏原天皇の治世は正親町(中立売通)南・東洞院(東洞院通)東・土御門(上長者町通)北・高倉(高倉通)西の1町4方(左京北辺四坊二町)に内裏が築かれていた。この内裏の東北にかつての報恩寺があった訳である。その距離関係は現在の紫宸殿や清涼殿が建つ場所に土御門東洞院殿があり、御所東北隅の猿が辻あたりに報恩寺があったという程近接していた。
黒川道祐が天和2年(1682)から貞享3年(1686)頃に記したとされる「雍州府志」には “報恩寺略縁起”で説明のなかった開山を下記のように記している。
中世在二今有栖川殿之邸地一爾後移二小川通上立売町之北一元天台浄土而号二法園寺一 後土御門院時一風玄誉上人再二興之一改号二報恩寺一 後柏原院文亀二年賜二宸筆之額一自二其時一専為二浄土一宗一属二東山知恩院一
また「雍州府志」より約100年下った安永9年(1780)に秋里籬島によって刊行された「都名所図会」も報恩寺の開山を記している。
尭天山報恩寺は小川の西上立売にあり、浄土宗にして智恩院に属す、初は天台浄土の両宗を兼学す。開山は明泉和尚なり。又西蓮社慶誉上人浄土の一宗と改む。
元禄9(1696)に幕府寺社奉行の命を受けた増上寺が全国の浄土宗寺院を調査・集成した「浄土宗寺院由緒書」も慶誉明泉が明応3年(1494)に建立したとあるので、上記「都名所図会」の開山明泉和尚と一致する。ただし、秋里は明泉和尚と慶誉上人を別人と考えていたのかも知れない。「報恩寺牙舍利縁起」にも後柏原天皇より舎利を開基の明泉上人に賜ったという記述があるようだ。
現在、「新纂浄土宗大辞典」では報恩寺を下記のように記している。
京都市上京区小川通寺之内下ル射場町。尭天山仏牙院。京都教区№一九五。もと法園寺と称する天台浄土兼学の寺院であったが、室町中期に後土御門天皇の深い帰依をうけた一風慶誉が明応三年(一四九四)中興開山となって浄土宗に属し、寺号も報恩寺と改められた。続いて後柏原天皇からも厚い崇敬をうけ、「報恩寺」の勅額や仏牙舎利その他の宝物も賜り、寺運大いに興隆したと考えられる。当初一条の北、高倉の東あたりに位置し、天正年間(一五七三—一五九二)豊臣秀吉による京都の町割りの改造によって現在地に移り、以後「鳴虎報恩寺」として著名である。
現在のところ一風慶誉が明応3年(1494)に中興開山となったという説を採用しているようだ。なお、「新纂浄土宗大辞典」のこの項目には、水野恭一郎の「上京報恩寺小考」を参考としてあげている。残念ながら国立国会図書館にも本論文を所収している「仏教史学」16巻1号が保管していないため確認の仕様がないが、本朝寺塔記の報恩寺の項に
「一風玄誉」は「一風慶誉」の誤りであり、「明泉」「一風」はともに慶誉の法号であり、同一人物のことを指していると考えられている
とあるので、そのような内容の論考を行った論文なのかもしれない。
さて、“報恩寺略縁起”では、報恩寺が現在地に移転した後、報恩寺の旧地は有栖川宮家の邸宅となったとある。報恩寺は天正13年(1585)豊臣秀吉の命により現在地へ移転している。同年秀吉は正親町上皇の仙洞御所の造営と並行して公家の御所周辺部への集住を開始している。同年の秋には近衛家邸宅の上立売から今出川への移転も行っている。そして天正14年(1586)に着手した聚楽第建設も翌15年9月には完成し移り住むと、いよいよ同17年(1589)より2年の歳月をかけて御所の新造に取り掛かる。所謂、天正度御造営と言われる工事である。
「日本書誌学体系18 京図総目録」(青裳堂書店 1981年刊)の「近世内裏沿革略図―京絵図。内裏図年代判定の目安として―」によれば、先ず慶長16年(1600)頃は女院御殿すなわち後陽成院の生母・新上東門院(勧修寺晴子)御殿となっている。元和6年(1620)2月に崩御した後は、高松宮好仁親王が入っている。親王は後陽成天皇の第7皇子で寛永2年(1625)に高松宮家を創設している。なお宮号は親王の祖母・新上東門院の御所高松殿に由来している。親王には嗣子がなかったため、甥にあたる後水尾天皇の皇子・良仁親王を養嗣子として第2代として迎えている。やがて良仁親王が後西天皇として践祚すると、寛文7年(1667)天皇は自らの皇子・幸仁親王に高松宮を継がせ、同12年(1672)宮号を有栖川宮に改めている。つまり元和6年(1620)の勧修寺晴子の崩御後に高松宮好仁親王がこの地に入ったが、厳密に言えば有栖川宮家になったのは約50年後の寛文12年(1672)6月の改号以降のことである。なお、この地から有栖川宮家が転出するのは、慶応元年に行われた東北部の大きな欠込みを解消して内裏を拡張した際のことであり、内裏南の御花畑に新しい有栖川宮家が作られた。さらに追記すれば、その前年に発生した甲子戦争において有栖川宮幟仁親王・熾仁親王父子は長州藩を支援し、戦争終結後には国事御用掛を解任の上、謹慎・蟄居が申し渡されている。さらに孝明天皇の勅勘はその崩御まで解かれる事がなかった。有栖川宮家の移転はそのような状況の中で行われていたことを忘れてはいけないだろう。
戦国武将・黒田長政が臨終を迎えたのが、この報恩寺であった。元和9年(1623)6月8日、徳川家光は父・秀忠と共に上洛、同年7月27日に伏見城で将軍宣下を受けて徳川幕府第3代将軍となる。福岡藩初代藩主である黒田長政は子の忠之と共にこれに奉仕するために江戸から京に向かった。東山道を経由し美濃国や関ヶ原合戦場など畿内にある自らの足跡を巡っていた。既に江戸にある頃から胸痛を患い道三薬を服用していた。貝原謁益軒著の「黒田家譜」によれば、「後に思ひ合すれば、長政年老て病有しかば、ふたヽび爰を通らんとおぼしめし、此度忠之を伴ひて、かく此処を見せしめ語り置給ふにや。」という想いがあったのであろう。大坂で二三日逗留の後上洛し上京の報恩寺を旅宿としている。そして同年8月4日にこの地で死去している。辞世は「此ほどはうき世の旅にまよひきて、今こそかへれあんらくの空」。
続いて報恩寺の寺宝について見て行く。「都名所図会」は報恩寺の創建に続いて下記のように記している。
本尊は阿弥陀仏にして安阿弥の作なり。当寺の什物に虎の画あり四明陶いつの筆なり。秀吉公の時聚楽亭にありて夜々声を発す、故に世人鳴虎と称す。
鳴虎とは報恩寺が保有する鳴虎図のことである。中国の画人・四明陶佾の署名がある宋代(420~79)あるいは後世の明代(1368~1644)の作と考えられている。中国東北部の山岳地帯で虎が谷川の水を飲む姿を描写している。豊臣秀吉が画を借りて聚楽第に持ち帰ったところ、夜になると鳴動し吠えたため眠りにつけなくなった。そのため画は翌朝早々に寺に返還されたと謂われている。12年に一度、寅年の正月三が日に限り特別公開されている。
また報恩寺の梵鐘は無紀年銘ながら平安時代後期の形式を持ち昭和50年(1975)に重要文化財に指定されている。梵鐘の乳の間と撞座のある中帯との中間部分を池の間と呼ぶようだが、この池の間の四区にわたって仏名を梵字であらわす種子と真言陀羅尼が彫られている。平安時代から鎌倉時代にかけて、真言陀羅尼の功徳に対する信仰が盛行したことが記録に残っているので、この時代に作られたと考えられている。この梵鐘には「撞くなの鐘」あるいは「撞かずの鐘」と呼ばれる謂われ話が あり、先の“報恩寺略縁起”の横に“報恩寺梵鐘”として記されている。それによると、この西陣一帯の織屋は報恩寺の朝夕の鐘を合図に一日の仕事を行っていた。或る織屋に仲の悪い丁稚と織女がおり、報恩寺の夕の鐘が幾つ鳴るかを賭けていた。丁稚は八つ、織女は九つと言い争った。悪賢い丁稚は寺男に頼み今夕だけは八つで止めて貰うように頼み込んでいた。本来は百八の煩悩を除滅するため、その十二分の一である九つが正しかったが、この夕の鐘は八つで終わってしまった。賭けに負けた織女は悔しさの余り鐘楼にて首を括ってしまった。それ以来鐘を撞くと不吉なことが生じるようになり、厚く供養を行い、朝夕に鐘を撞くのを止めたとされている。今でも鐘が撞かれるのは大法要の際と除夜の日のみである。この話は京都新聞のふりさと昔語り(https://www.kyoto-np.co.jp/info/sightseeing/mukasikatari/index.html : リンク先が無くなりました )の(117)報恩寺のつかずの鐘(京都市上京区)(https://www.kyoto-np.co.jp/info/sightseeing/mukasikatari/070704.html : リンク先が無くなりました )にも掲載されていますのでご参照下さい。
この鳴虎と撞くなの鐘以外に、報恩寺の境内には賀陽宮墓がある。賀陽宮とは幕末の朝彦親王の第2王子邦憲王が称した宮号ではなく、江戸時代初期の後西天皇の第七皇女のことである。寛文6年(1666)生まれ。母は典侍の清閑寺共子。延宝3年(1675)薨去、法号・桂徳院宮として報恩寺に葬られる。賀陽宮の同母兄には有栖川宮家の創始となる第二皇子の有栖川宮幸仁親王がいる。報恩寺の旧地が有栖川宮邸になったのが寛文12年(1672)6月のことであり、その後に薨去された賀陽宮の墓が報恩寺に造られたのには、何らかの縁があったのであろうか。なお賀陽宮の墓域には二つの墓石があり、右の小ぶりなものが賀陽宮、左は実母の清閑寺共子のものである。最初の訪問の際には賀陽宮墓の場所が分からなく、3度目の訪問でお寺の方に教えていただいて拝観することができました。玄関前の庭を左に入った先、客殿の南庭を囲む塀の脇に賀陽宮墓がありました。
天正13年(1585)この地に報恩寺が移ってから、享保15年(1730)の西陣焼と天明8年(1788)の天明の大火の2度の大火を被っている。最初の大火から8年後の元文3年(1738)4月には再建された本堂に入仏する大法要が行われたが、2度目の天明の大火後30年に当たる享和元年(1818)に客殿、玄関他を再建したものの、本堂と庫裏は再建できていないまま現在に至っている。竹村俊則は「昭和京都名所圖會 5洛中」(駸々堂出版 1984年刊)で「境内は駐車場と化し、いささか殺風景を呈している。」という印象を述べている。
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