本阿弥光悦京屋敷跡
本阿弥光悦京屋敷跡(ほんあみこうえつきょうやしきあと)2010年1月17日訪問
一部駐車場と化している報恩寺の境内を南に進むと上立売通に出る。この上立売通から油小路通に入る角に、かつての小川の痕跡を示す橋の欄干と昭和十年水害浸水被害記念碑が残されている。昭和10年(1935)6月27日から降り始めた雨は29日まで続き、京都市は明治初年以来の大水害となった。高野川、岩倉川、鴨川、東高瀬川、堀川、天神川、御室川、白川など市内諸川の堤防は決壊し、五条大橋、三条大橋、夷川橋など鴨川筋の橋を含む74橋が流失、浸水家屋は43,771戸、死者12名、負傷者81名を出す大災害となった。上記の石碑は29日午前5時に上立売小川の石橋が落ち,四尺以上の水があふれたことを後世に伝えるために同年6月建立されたものである。北面に「上立売通 堀之上町」、西面は「昭和十年六月末 大出水地上四尺」とある。ちなみに「京都の歴史 第九巻 世界の京都」(京都市 1976年刊)によれば、この時の降雨量は281.6mmであったようだ。この堀之上町が四尺、120cmもの水位になったとは現在の姿からは想像できない。
前年の昭和9年(1934)9月21日、室戸台風により京都市内及び乙訓、山城地域で死者185名、負傷者849名と平安京建都以来とも言われる大風害に見舞われている。昭和10年の水害は、室戸台風からの復興に取り掛かった最中に生じたため、より深刻なものとなった。さらに追い打ちを掛ける様に同年8月11日にも洛西で大雨による洪水が発生している。この時の降雨量213mmは6月の豪雨を超えるものではなかったが、御室川と天神川は決壊している。この2回の水害の被害総額は約4000万円にのぼったと計算されている。
この石碑は元々上京区小川学区の堀之上町域に属していた。現在地の向い側にあったが、後世この上立売通と油小路通の角地に移したようだ。改めて別の項で昭和9・10年の災害について詳しく調べてみようと思う。
今出川通に向かって油小路通を南に下る途中、本阿弥光悦京屋敷跡の石碑に出会う。元和元年(1615)本阿弥光悦は徳川家康から鷹峯の土地を拝領したが、この地はそれ以前の邸宅があった場所とされている。
本阿弥光悦は江戸時代初期の芸術家。近衛信尹、松花堂昭乗と共に寛永の三筆の一人と称される書家にして陶芸家、そして琳派の創始者でもある。代々、刀剣の鑑定、研磨、浄拭を家業とする本阿弥光二の長男として永禄元年(1558)に生まれている。真偽不明ながらも鎌倉時代前期の公卿・菅原高長(五条高長あるいは高辻高長)の晩年の庶子で長兄長経の養子として育った長春が本阿弥家の始祖とされている。この長春が妙本と名のり足利尊氏に仕えたが、その際菅原姓を称し梅紋を家紋としている。室町幕府の御用を勤めながらも、商人として経済活動に従事してきたため、戦国時代には京の上層町衆そして熱心な法華信者として知られる存在となった。「光悦 桃山の古典」(五島美術館 2013年刊)で、「菅原氏松田本阿弥家図」と題された片岡家に伝わる家系図を見ることができる。この本阿弥家の系図も妙本が初代となっている。「光悦」(第一法規出版 1964年刊)に所収されている「光悦の人と時代」に於いて、林屋辰三郎は妙本の来歴を説明するために、江戸時代の随筆「玉露證話」を引用している。この書では、本阿弥家の初代が足利尊氏の叔父である鎌倉松葉谷の日静上人に帰依し、妙本の法名を授けられたとしている。林屋は法華宗(日蓮宗)の日静上人より授かった法号・妙本と浄土宗の出家が用いる阿弥号が並存していることに疑問を呈し、もともと本阿弥家は阿弥教団に属していたのが、後の代になって法華宗に帰依したと推測している。本阿弥家は初代妙本から5代妙寿まで全て名前に妙の字を含んでいた。実子のなかった妙寿は6代目として松田家から右衛門三郎を養子として迎えている。松田氏とは相模国足柄上郡松田郷に発祥した藤原秀郷流波多野氏一族の氏族で、足利氏とともに上洛し内乱期に軍功を積み幕府内で重役に就いていた。右衛門三郎は本光と名乗り以後本阿弥家の名前には光の字が用いられるようになる。さらに松田氏が篤く帰依している法華宗を本阿弥家に持ち込んだ人物であったと考えている。
「光悦の人と時代」では本光の前身は松田清信であり、上記の「玉露證話」にも将軍・足利義教を怒らせたことにより獄舎に繋がれたという話が残っている。本光すなわち清信は獄内で出会った日親上人に深く帰依し上人より法名の本光を授かったとしている。この日親上人とは鍋かぶり上人と呼ばれた室町時代の日蓮宗の僧で不受不施義を初めて唱えたとされている。6代将軍・足利義教の永享12年(1440)2月、禁じられていた諌暁を行ったため投獄されている。上人が京都で開いた本法寺も、この時に破却される。嘉吉元年(1441)赤松満祐の謀反により足利義教が暗殺されると日親も赦免され、本法寺再建に着手する。しかし寛正元年(1460)肥前で布教したことが判明し、同3年(1462)11月京都に護送され、細川持賢邸に禁錮となる。翌4年(1463)8代将軍足利義政によって赦され、再び破却された本法寺を再建する。以上のように日親上人は2度捕縛されているため、松田清信が獄舎で上人に出会ったのは、1度目の義教による投獄か2度目の義政によるものかは明確ではないようだ。林屋は松田右衛門三郎の出生が永享6年(1434)であることから、2度目の投獄の際の出来事だと考えている。そしてこれ以降、本阿弥家は法華宗の熱心な信者となったようである。
そもそも日静上人と本阿弥家の関係はあったのだろうか?林屋は日静上人に帰依したのも本光の実家・松田家の先祖であり、それが誤って本阿弥家の事蹟になって後世に伝わったと見ている。さらに本光以前の系図も松田氏のものであり、妙本は本阿弥家ではなく松田一族の一員であったと考えている。松田氏である妙本が日静上人に帰依したと説明している。
それでは元々の本阿弥家の出自はいかなるものであったか?本阿弥家は自らの流祖を菅原高長(五条高長)としていることから、その出自は五条座であったと林屋は考えている。刀剣の製作・販売等を行っていた太刀屋座に従属し研磨、浄拭を職業していた者が、その技能により幕府に召し出され時衆となり阿弥を名のり尊氏の側近になっていったと推測している。
しかし本阿弥家の系図が松田家のものであるとの推測以降、根拠となる史料を示していない。そのため中村修也氏は最新書の「光悦 桃山の古典」に於いて、「「本阿弥系図」を松田氏のものに帰してしまってよいのだろうか」と疑問を呈している。中村氏は本阿弥家の系図を下記の3つに分けて検証している。
Ⅰ本阿弥家1 妙本 ― 本妙 - 妙大 - 妙秀 - 妙寿
Ⅱ本阿弥家2 本光(妙寿養子・松田家) ― 光心 - 光刹
Ⅲ本阿弥別家 光二(光心娘婿・片岡家) ― 光悦
Ⅰは初代から5代までの元々の本阿弥家の家系である。Ⅱは妙寿に子がなかったため松田家から迎えた養子・本光から始まる家系。Ⅲの光二は4代目の妙秀の娘・妙福と片岡治太夫宗春の間に生まれた子であるため、Ⅰの本阿弥家の血脈を継いでいる。林屋はこのⅠとⅡを松田一族と見做し、法華宗の法名の「妙」と浄土宗の阿弥号の矛盾を解消しようとした。一方、中村氏は本阿弥家に流れる血脈に従い、元祖の本阿弥家(Ⅰ)と養子に入ってきた松田家(Ⅱ)そしてⅠから分かれた妙福が関係する片岡家(Ⅲ)の家系に分けて、それぞれの家系の数代にわたる交わりを明らかにすることで本阿弥家の成り立ちを説明しようと考えた。
なお中村氏は本阿弥家の家督は以下のように継承された推測している。
1妙本 ―2本妙 -3妙大 -4妙秀 -5妙寿 -6本光 ―7光二 ―8光悦 ―9光徳 ―10光室
つまりⅠの本阿弥家は5代の妙寿で直系男子を失い、松田家から本光を迎えるが、妙秀の娘・妙福が片岡家の四男・治太夫宗春と結婚し光二が生まれると、本光の子の光心ではなく光二を7代目としている。ただし光二は光心の娘の妙秀を妻としているため、形の上では光心の娘婿となって継いでいる。中村氏の説明の中で難解な点の1つは、本光の後の本阿弥家の家督を年長の光心ではなく光二が継いだ点にあるだろう。中村氏は上記「光悦 桃山の古典」で下記のような5代妙寿から8代光悦までに関係する者の生没を記している。
妙寿 ? ~1560年
本光 1434年~1534年 享年101歳
光心 1496年~1559年 享年 64歳
光刹 1516年~1581年 享年 66歳
光徳 1554年~1619年 享年 66歳
光二 1522年~1603年 享年 82歳
光悦 1558年~1637年 享年 80歳
これは「叡昌山本法寺文書本阿弥家系草稿」を基に作成したようだが、不可思議な点が多々存在する。先ず中村氏も指摘しているように養子に入った本光が養父の妙寿より年長者であること。そして光心が本光62歳の時の子である点であろう。この資料はそのまま信用することができないが、中村氏は6代・本光と7代・光二の家督継承は5代・妙寿の承認の基で行われたと見ている。実子のいない妙寿は妙福に入婿をとり男子誕生を待つ一方、安全策として松田家から本光を養子として迎えたのであろう。そして妙寿の望み通り妙福に光二が生まれたため、予定通りに本阿弥家を継がせた。その際、一族の結束を保つため、光心の娘・妙秀の婿としている。これは勿論、光二を本光の継いだ本家の一員とするために行ったもので、恐らく結婚適齢期になるかなり前に交わされていたことが想像される。
光二と妙秀の間に光悦が生まれた翌年の永禄2年(1559)に光心が亡くなっている。光心の子には、光二よりも年長の光刹がいた。「本阿弥次郎左衛門家伝」には下記のような記述がある。
光心死去以後、光二、右光刹へ家督を譲り、光二ハ退て別家を立て申候。
光二が本光から家督を継いだ後に光刹が生まれたので、光心が亡くなったのを機会に光刹に家督を渡し別家を立てたと解釈されてきたが、上記の生没を見ると光刹は光二より年長であり、家督継承後の生まれではないことが明らかである。中村氏は5代・妙寿が光心より長生きしたことに着目している。光二が光刹あるいは光刹の子の光徳に家督を戻すことを、妙寿の生前に行うことは困難であったと考えている。
上記の「菅原氏松田本阿弥家図」は6代・本光と光悦を以下のように記している。
―6本光 ―7光心 -8光刹 -9光徳 -10光室
―1女子 ―2光悦 -3光瑳 -4光甫 -5光伝 -6光通
つまり、本阿弥家の本家は ―妙寿 ―本光 ―光心 -光刹 -光徳 -光室 と連なり、光悦の家系は初代・光二ではなく妻の妙福を初代とし光悦を2代としている。この家系図は表題通り本阿弥家から松田家への継承を示すものであり、光悦の家系にも松田家の血が入っていること示すと共に片岡家の存在を全く消し去っていることが分かる。尤も松田家との関係を示すことを目的として作成された系図ならば当然のことでもある。
本阿弥家の家督の継承について、中村修也氏の推定は以上の通りで、これより導き出された家系図を「光悦 桃山の古典」に示している。ただし、ここまで綿密に本阿弥家の成り立ちを見てきたものの、最初に林屋辰三郎が疑問を提示した本阿弥姓について、残念ながら言及が為されないままに終わっている。
1960年代に林屋辰三郎が推測した上層町衆としての本阿弥家の家系と、2000年以降の研究が異なった結論を導き出したことは実に興味深い。まさに中村氏が「光悦 桃山の古典」所収「本阿弥家と光悦 ―光悦の芸術性のルーツ」の最後で述べているように、唯一に近い史料とされてきた「本阿弥行状記」の信憑性に疑いが生じてきたことにより、本阿弥家の相続から鷹峯移転についても新たな疑問が生じる状態になってきたのであろう。今後のこの分野の研究の進展に注目するべきであろう。
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