白峯神宮 その3
白峯神宮(しらみねじんぐう)その3 2010年1月17日訪問
白峯神宮 その2では、天武天皇以降の皇統の継承ともう一人の祭神である淳仁天皇の生涯とについて見て来た。この項では最初に祭神となった崇徳天皇について調べてみる。
白峯神宮の祭神である崇徳天皇は、保元元年(1156)7月に起きた保元の乱に破れ讃岐国に配流となった上皇である。天皇あるいは上皇の配流は、天平宝字8年(764)に起きた藤原仲麻呂の乱における淳仁天皇の淡路国配流以来、凡そ400年ぶりの出来事であった。
崇徳天皇は、元永2年(1119)鳥羽天皇と中宮・藤原璋子(待賢門院)の第1皇子として生まれている。真偽は定かでないが源顕兼によって纏められた鎌倉初期の説話集・古事談には、崇徳天皇は白河法皇と璋子の密通によって生まれた子であり、鳥羽天皇は崇徳天皇を「叔父子」と呼んで忌み嫌っていたという有名な逸話が残されている。叔父子ということで分かるように白河法皇は鳥羽天皇の祖父に当たる。このことから崇徳天皇は父である鳥羽天皇から疎んじられ互いに不仲であったと解されることが一般化している。
保安4年(1123年)5歳で皇太子となり、鳥羽天皇の譲位により践祚、同年2月19日に即位している。勿論、白河法皇による院政を継続させるための譲位である。大治4年(1129)には関白・藤原忠通の長女・藤原聖子が崇徳天皇の妃として入内している。聖子は保安3年(1122)生まれであるから、天皇より3つ年上であった。この年に白河法皇が亡くなり鳥羽上皇の院政が開始する。翌大治5年(1130)聖子は崇徳天皇の中宮に冊立されている。もともと、崇徳と聖子との夫婦仲は良好だったが子供は生まれなかった。そして保延6年(1140)女房兵衛佐局が崇徳の第一皇子重仁親王を産んでいる。
永治2年(1142)崇徳天皇は異母弟である近衛天皇に譲位し上皇となる。しかし実権は父である鳥羽法皇に握られていた。その上自分の子ではない弟が即位したため、院政を行うことのできない上皇になってしまった。崇徳上皇には重仁親王がおり、近衛天皇が即位した年に親王宣下を受けている。鳥羽天皇の皇后として寵愛を受けていた美福門院(藤原得子)は、重仁親王を我が子の様にかわいがっていた。そのため重仁親王は次の皇太子に最も近い地位にあると目されていた。
皇位継承問題は天皇家だけのものではなく、利権に関わる摂関家の蠢きが大きく関わってくる。上記のように崇徳上皇の妃・聖子の父は当時関白を務める藤原忠通であった。忠通は後継者に恵まれなく、天治2年(1125)に異母弟の頼長を養子に迎えている。忠通が承徳元年(1097)生まれ、弟の頼長は保安元年(1120)に生まれたので、二人の間には23歳という親子に近い年齢の差があった。そして養子を迎えて20余年経た康治2年(1143)忠通に思いがけなく四男・基実が生まれる。忠通47歳の時の男子であり、なんと以後9人の男子に恵まれることとなる。基実は後に近衛家の家祖となり近衛基実となる。
忠通の父である藤原忠実は弟の頼長を忠通の次の摂関家の後継者と決めてきたのに対して、忠通は晩年に生まれた基実を愛し自らの氏長者を継承させようと望むようになっていった。つまり忠通と忠実・頼長の対立構造は康治2年(1143)頃から形成されていったということである。そして久安元年(1145)正月5日、頼長の長子・兼長と忠通の長子・基実が高陽院で行われた餅戴の儀式で初めて顔を合わせることとなる。摂関家の公式の場に忠通が長子を連れてきたことに頼長は少なからず動揺したらしく、美福門院の意を受けて発言した藤原伊通と口論となり途中退席している。さらに正月8日から20日間も出仕を拒み続けた記録が残っている。伊通の妹は忠通の正妻であるため伊通は特に忠通と親しい関係にあった。そのことが頼長の気に障ったのであろうし、忠通-伊通-美福門院の強い結びつきを意識したのかも知れない。
この摂関家の対立構造は近衛天皇の后選びにも現われてくる。頼長の養女の多子が后候補になったのは忠通に基実が生まれる前年の康治元年(1142)に行われた近衛天皇の大嘗祭の際であった。久安4年(1148)には忠実が動き、藤原伊通の娘の呈子を后候補として美福門院の養女としている。両者の入内運動が活発化し同6年(1150)頼長の多子が皇后に、忠通の呈子が中宮に立てられている。この際も鳥羽法皇は片方に肩入れすることなく両者を立てる形で解決を図っている。
摂関家内の内訌に対し久安6年(1150)、忠実は忠通を義絶し剥奪した氏長者の地位を頼長に与えるという強攻策に出る。本来ならばここで忠通の命運が絶えるのであるが、権力の座に踏みとどまれたのは、ひとえに鳥羽法皇の曖昧な態度によるものであった。法皇は忠実の要請に応ぜず忠通を関白に留任させる一方で頼長にも内覧の宣旨を下す。法皇の摂関家への未介入の姿勢により、忠通は九死に一生を得たが、関白と内覧が並立する異常な政治状況を生み出してしまう。
仁平3年(1153)ついに皇位継承問題が表面化してくる。もともと病弱であった近衛天皇が同年6月より病を得て失明の危機に瀕するようになっていた。近衛天皇派であった忠通は法皇に近衛天皇の譲位とともに守仁親王の擁立を提案している。親王は雅仁親王の長男として康治2年(1143)に生まれている。生母は大炊御門経実の娘・懿子であったが出産直後に急死したため、鳥羽法皇に引き取られ美福門院に養育されてきた。しかし既に近衛天皇が即位しており、美福門院の養子には重仁親王が存在していたため皇位継承の望みは薄かった。そのため仁平元年(1151)には伯父である覚性法親王のいる仁和寺に入っていた。鳥羽法皇は守仁親王を候補者としてあげたことを忠通の謀略と見抜き、入道(忠実)と議定すると伝え提案を拒絶している。
河内祥輔氏は「保元の乱・平治の乱」(吉川弘文館 2002年刊)の中で、忠通が守仁親王擁立に至った要因を、仁平3年(1153)の呈子懐妊が誤りであり男子誕生の可能性が遠のいたこと、近衛天皇の病状が悪化したことをあげ、近衛天皇が直系の地位が将来にわたって確保できる候補者を選んだ結果だったと推測している。父である雅仁親王ではなく守仁親王が即位する事は一代限りであるので近衛天皇の直系に残る可能性を残したということであろう。これを天皇の同意を得た上で法皇に提案したが、それは見送られず、近衛天皇の在位は継続された。しかし守仁親王の出家は行われないままでいたため、将来に擁立の可能性を残していたとも云える。
一度回復したと思われた近衛天皇は久寿2年(1155)6月から再び病床についている。7月に入ると重篤な状況が続き7月23日昼に近衛殿で崩御された。重い病の中でも譲位は行われなかったため、皇位継承者の決定は鳥羽法皇に任された。法皇は藤原忠通に関白の地位を保証した上で新しい内裏を高松殿とすること、葬儀の責任者に藤原伊通を充てることを忠通に同日中に伝えている。ここから夜を徹する思案を行い、翌朝に四男の雅仁親王を皇位継承に決定している。この法皇の決定について、河内氏は忠通の進言が大きかったと述べている。2年前の時点では息子の守仁親王を推していた忠通が、この時点では雅仁親王即位に提案を修正したとしている。常に摂関家の内訌に介入の意思を見せなかった法皇が、我が身の問題となる皇位継承については、忠実と頼長を排除して忠通との連携に踏み切った。この時点での候補者は、崇徳天皇の子である重仁親王と雅仁親王、守仁親王の3名に絞られていたと考えてよいだろう。この中で法皇の検討対象から既に重仁親王が外れていたから忠通のみを指名したのであろう。ただし重仁親王が候補者から最初に外された理由を河内氏は前述の書で示していないことは、覚えておかなければならないだろう。
それでは何故忠通は2年前に推した候補者を変更したのか?河内氏も述べているように、近衛天皇が崩御し近衛の直系が皇嗣となる可能性が潰えたからであろう。それならば雅仁-守仁で新たな皇統を作り出していく方がより現実的である。また忠通にとっても守仁親王を推すことで雅仁親王との関係を壊してしまうより、以後の宮中政治において有利となる方を選択したとも云える。久寿2年(1155)7月24日、雅仁親王が後白河天皇として即位すると、忠通は天皇との関係を修復し連携の構築に成功している。未だ幼少の子・基実のことを考えても、この時点での権力の喪失は絶対に避けておきたいという考えが生じてもおかしくない。
これに対して法皇は雅仁親王の器量を問題視し即位には躊躇していたが、雅仁親王を中継ぎとして守仁親王を最終的に即位させるのであれば忠通案も妥協できたのであろう。これと同時に法皇は忠通の関白を再任、頼長の内覧を再任しなかったが左大臣の再任は認めている。ここでも忠実・頼長父子の完全な排除を行わなかったわけである。それでも頼長は強い不満を籠居という形で示し氏長者である頼長と右大臣・忠通の対立は継続する。
宮廷では近衛天皇の死は、崇徳上皇、藤原頼長が呪詛したという噂が流れる。「保元物語」(新日本古典文学体系 43 保元物語 平治物語 承久記)(岩波書店 1992年刊) 国立公文書館内閣文庫蔵)には以下のように記されている。
新院、此ヲリヲヱテ、「我身コソ位ニ不レ被レ付トモ、重仁親王ハ、今度ハ位ニハ遁ジ物ヲ」ト待チウケサセ給ケリ。天下ノ諸人モカク思ケル所ニ、ヲモヒノ外ナル美福門院ノ御計デ、後白川院ノ四宮トテウチコメラレテ渡ラセ給シヲ、位ニ付奉セ給。高モ賎モ、誠ノ親ナラヌ御隔ニテ、女院角被二思食一ケル。新院トハ一ツ御腹ニテワタラセ給シカドモ、女院モテナシ奉リ、法皇ニモ内々コシラヘ申サセ給ケルトゾウケ給ル。是ニヨリ、新院御恨今一入ゾマサラセ給ゾ理ナル。
新院とは崇徳上皇のことであり、重仁親王の即位を期待していたことが分る。しかし上皇と同母(待賢門院)弟の雅仁親王に決まったのを「保元物語」は美福門院の鳥羽法皇への執り成しによるものとしている。しかし何故、美福門院は重仁親王即位を忌避したかの直接的な記述はない。つまり崇徳上皇あるいは藤原頼長が呪詛したということは書かれていない。同書の「保元物語 解説」でも「玉葉」「愚管抄」などをあげて、「必ずしも女院のはからいとはみない別伝承も存在する」と記しに留めている。あくまでも物語としては、このときの遺恨が保元の乱の原因となり、その引き金を引いたのが法皇ではなく美福門院であったというストーリに展開になっている。このことが実際の史実と一致するかは別の問題と考えたほうが良いだろう。
対して旧版の「保元物語」(日本古典文学体系 31 保元物語 平治物語)(岩波書店 1961年刊) 金比羅宮蔵)では下記の様な異なった記述が見られる。
この四宮と申は、故待賢門院の御腹なれば、新院と同胞一腹の御兄弟なり。されば女院の御為には、いづれも継子にて御座ども、新院・重仁親王の御しゆそふかきゆへに、近衛院かくれさせ給ひぬとさゝやき申かたもありければ、美福門院、その御恨ふかくして、法皇にはとかくとり申させ給ひて、四宮を御位につけまいらせ給ぞ心うき。
「しゆそ」とは呪詛のことであり、当時新院、重仁親王親子が近衛天皇を呪詛していたという噂が流れていたことを記述している。また当事者である藤原頼長の日記・「台記」久寿2年8月27日の条にも、近衛天皇の崩御後に行われた巫女の口寄せにより、誰かが呪詛して愛宕山の天公像の目に釘を打ったため、目を病み死に至ったということが分ったと記している。雅仁親王が調べさせたところ5、6年前に行われたことであり、忠通と美福門院は忠実・頼長親子の仕業と鳥羽法皇に吹き込んだというようだ。忠通が情報操作という先手を打ち、見事にそれが当たったということであろう。
後白河天皇の第1皇子である守仁親王は親王宣下を蒙り守仁と命名される。即日立太子し、翌保元元年(1156)3月5日には美福門院の皇女・姝子内親王を妃に迎えている。いよいよ次の天皇としての準備が整い始める。
河内氏は「保元の乱・平治の乱」で、鳥羽・崇徳の関係を叔父子説だけに求めることに疑問を呈している。元永2年(1119)5月28日、中宮・璋子(待賢門院)に鳥羽天皇の長男が生まれた時、直系の皇位継承者にも関わらず直ぐには立太子しなかった。そればかりか藤原忠実の娘・泰子を妻に迎えることを検討していたようだ。つまり直系である崇徳以外の子の誕生も考えていたのかも知れない。これが祖父の白河法皇の耳に入り、天皇の相談にのった忠実は内覧を停止され、以後宇治で10年に及ぶ謹慎生活を余儀なくされている。因みに鳥羽上皇となった後の長承3年(1134)に廷臣の反対を退けて女御宣下を与えた上、泰子を皇后宮に冊立し初志を貫徹している。
後の崇徳天皇の立太子を直ぐに行わず白河法皇の怒りに触れた鳥羽天皇ではあったが、これ以降は祖父に従い、保安4年(1123)1月28日には崇徳に譲位している。河内氏は立太子や泰子入宮の事を祖父・白河法皇の支配に対する若い時代の反抗として説明している。
確かにこの元永2年の局面だけを見れば叔父子説も理解できる。しかし白河法皇が崩御した大治4年(1129)から永治元年(1141)の崇徳天皇の譲位までの10余年の間、崇徳天皇の在位を認めていたのは鳥羽法皇である。崇徳天皇を退けようとするならば、雅仁親王や本仁親王(覚性)など候補者がいなかった訳ではなかった。この方針が変更されるのは、美福門院が躰仁親王(近衛天皇)を生む保延5年(1139)以降のことであろう。上皇は生後3ヶ月で躰仁親王を皇太子、さらに皇太弟とした2年後の永治元年(1141)に崇徳を譲位させている。しかし譲位のバランスを取る様に重仁親王を皇太子にすることを法皇は忘れていなかった。
守仁親王やその父の雅仁親王が皇位継承者の候補となるのは近衛天皇の病状が悪化した後のことであり、そのままならば重仁親王の即位の可能性も残されていた。つまり鳥羽法皇が元永2年(1119)の誕生から、久寿2年(1155)の後白河天皇即位の直前までの30余年間、一貫として崇徳天皇を疎外してきた訳ではなかったということを河内氏は主張している。それでも近衛天皇の病状の悪化から崩御が精神的な大きな打撃となり、鳥羽法皇に心境の変化を与えたことは容易に想像できる。近衛天皇後の皇位継承者を選ぶ時、去来したのは確証の得られない叔父子説であったのかもしれない。結果的には重仁親王を選ばず崇徳上皇を傍系の天皇とすることを選択したのは鳥羽法皇であった。
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