白峯神宮 その2
白峯神宮(しらみねじんぐう)その2 2010年1月17日訪問
白峯神宮では、その周辺の地で起きた歴史的な事柄から白峰神宮の創建の経緯までを記した。この項では後に祭神に加えられた淳仁天皇について書いていくこととする。
先ず淳仁天皇に至る皇統を見ていく。第38代天智天皇、第39代弘文天皇(大友皇子)そして壬申の乱後に即位した第40代天武天皇の後は、第41代持統天皇(天武天皇后)、第43代元明天皇(草壁皇子妃)と天智系の2人の女帝と天武系の第42代文武天皇、第44代元正天皇が交互に即位している。つまり弘文天皇から聖武天皇までの間は直系男子への皇位継承が為されなかった。それは壬申の乱に代表されるように、皇位継承から紛争や反乱あるいは陰謀計画の発覚が多発したためでもある。天武天皇自身も皇位継承が紛争となることを防ぐため、兄弟間での継承を廃止し直系男子が皇位継承するように考えていたようだ。そして第2皇子の草壁皇子を皇太子に立てた。しかし後継者に指名した草壁皇子が持統天皇3年(689)4月13日に28歳で急逝してしまう。皇位継承紛争を防ぐために、中継ぎとして皇位に就いたのが天武天皇の皇后であった持統天皇である。天皇は草壁皇子の子である軽皇子(文武天皇)を皇太子とし、予定通り持統天皇11年(697)に譲位している。この時、新天皇は15歳という当時としては異例の若さであった。そのため祖母の持統太上天皇のもとで政務を行っていた。これが後の院政形式の始まりとされている。文武天皇の治世における特筆すべき出来事は、大宝元年(701)8月3日に完成した大宝律令である。天武・持統天皇が期待した文武天皇も景雲3年(706)11月から病床に就き、翌4年(707)6月15日に25歳の若さで崩御している。
文武天皇の第1皇子・首皇子は7歳であったため、文武天皇の母で草壁皇子妃であった阿閉皇女が「中継ぎの中継ぎ」として同年7月17日に即位している。元明天皇の即位間もない慶雲5年(708)1月、武蔵国秩父郡から銅が朝廷に献上されている。これにより元号が和銅に改められている。元明天皇治世中の出来事として平城京遷都がある。文武天皇在世中の慶雲4年(707)から審議が始まり、和銅元年(708)には元明天皇により遷都の詔が出され、和銅3年(710)3月10日に遷都が行われた。霊亀元年(715)9月、天皇は自らの老いと疲労とを理由に譲位の意向を示した。
未だ首皇子が若年であるため、同年9月2日、草壁皇子の第1皇女の氷高皇女が即位し元正天皇となる。なお結婚経験が無く独身での即位は初めての例であった。養老元年(717)より藤原不比等が中心となり養老律令の編纂が始められ、40余年後の天平宝字元年(757)に施行されている。また治世中の養老4年(720)には、舎人親王等による日本書紀が完成している。
神亀元年(724)2月、元正天皇は皇太子に譲位し上皇となる。即位した聖武天皇は、上記のように第42代文武天皇の第一皇子として大宝元年(701)に生まれている。母は持統天皇の側近で当代一の実力者でもあった藤原不比等の娘の宮子。天皇の妃の1人は皇太子時代に結婚した藤原光明子であった。藤原不比等の娘で聖武天皇の母である藤原宮子の異母妹にあたる。養老2年(718)阿倍内親王(孝謙・称徳天皇)を、神亀4年(727)には皇太子となる基王を生んでいる。しかし翌5年(728)9月に基王は夭逝する。これが長屋王によって呪い殺されたとされ、神亀6年(729)2月に長屋王および吉備内親王等は謀反の疑いによって自殺に追い込まれる。所謂、藤原武智麻呂、房前、宇合、麻呂の藤原四兄弟が長屋王家を抹殺するという長屋王の変が起きた。長屋王は、天武天皇の第1皇子の高市皇子の長男であり、藤原氏とは対立する皇親勢力の巨頭でもあった。
聖武天皇には、光明皇后との間に亡くなった基王と養老2年(718)生まれの阿倍内親王がいた。また県犬養広刀自との間に神亀5年(728)生まれの第2皇子・安積親王と井上内親王、不破内親王の2人の内親王がいた。この中から天平10年(738)1月13日に阿倍内親王が立太子している。これが今のところ最初で最後の女性皇太子であった。天平16年(744)閏1月11日、難波宮に行啓した安積親王は急病を発し、恭仁京に引き返した後の同13日に17歳で急死している。単なる病死であったのか、あるいは何者かによる暗殺であったのかは判然としていないようだ。この後、橘奈良麻呂は阿倍内親王を皇嗣と認めず、多治比国人、多治比犢養、小野東人、佐伯全成等を勧誘して黄文王を皇嗣に擁立する動きを見せている。この時は何も起きなかったが、天平21年(749)の聖武天皇から孝謙天皇への譲位後も奈良麻呂の謀議は進行し、ついに天平勝宝九歳(757)7月に橘奈良麻呂の乱として発覚する。乱の背景には、前年天平勝宝8歳(756)7月の聖武上皇崩御と遺言による道祖王の立太子、さらに翌天平勝宝9歳(757)3月の孝謙天皇による道祖王廃太子、同年5月の大炊王(淳仁天皇)立太子があった。光明皇太后と孝謙天皇の信頼を得た藤原仲麻呂は、急激に権勢を高めていく。これに危機感を覚えた橘奈良麻呂が、反乱を引き起こそうとしたというのが乱の構図である。奈良麻呂による反乱は密告によって未然に抑え込まれ、計画に連座した人々は全て捕らえられた。首謀者であった奈良麻呂を始め、道祖王、黄文王、大伴古麻呂、小野東人、多治比犢養、賀茂角足等は激しい拷問により獄死するなど、非常に苛酷な処罰が為された。つい半年前までは皇太子であった道祖王も命を落としている。まさに皇位継承という名の政争に巻き込まれての戦死である。
上記、天平勝宝9歳(757)5月に道祖王に代わって大炊王が皇太子についている。これは聖武天皇崩御後に孝謙天皇が行った措置である。「続日本紀」(「新日本古典文学大系 14 続日本紀 三
」(岩波書店 1992年刊))の天平宝字元年(757)3月27日の条に下記のようにある。
丁丑、皇太子道祖王、身居二諒闇一。志在二淫縦一。雖レ加二教勅一、曾无二改悔一。於レ是、勅召二群臣、以示二先帝遺詔一、因問二廃不之事一。右大臣已下同奏云、不三敢乖二違顧命之旨一。是日、廃二皇太子一、以レ王帰レ第。
孝謙天皇は聖武天皇の服喪中に皇太子の道祖王が淫欲をほしいままにする心があったため、教え戒めたが悔悟しなかった。そのため群臣を召して、聖武天皇の道祖王を皇太子にするという遺詔を示し皇太子を廃することを問うた。右大臣・藤原豊成以下の人々は一致して、「敢えてご質問の趣旨に反対いたしません」と申し上げた。そのためこの日を以って皇太子を廃し、元の王に戻し帰宅させたという内容である。
続いて大炊王が皇太子に選ばれた経緯についても「続日本紀」の同年4月4日の条に記されている。天皇が群臣を召して「どの王を皇嗣(皇太子)とすべきか」と尋ねている。右大臣の藤原豊成と中務卿の藤原永手は道祖王の兄の塩焼王(新田部親王の子)、摂津大夫の文室真人珍努と左大弁の大伴宿禰古麻呂は池田王(舎人親王の子)と申し上げた。大納言の藤原仲麻呂は天皇の選ばれる者に従うばかりと申し上げている。孝謙天皇は以下の理由より舎人親王の子の中から選ぶとした上で、船王、池田王、塩焼王の問題点を述べた上で過誤悪行の聞かない大炊王を選んでいる。
宗室中、舎人・新田部両親王、是尤長也。因レ茲、前者、立二道祖王一、而不レ順二勅教一、遂縦二淫志一。然則、可レ択二舎人親王子中一。
橘奈良麻呂の乱が終結した天平宝字2年(758)8月1日に大炊王は淳仁天皇として即位している。第47代淳仁天皇は天平5年(733)に舎人親王の第7皇子として生まれている。父の舎人親王は天武天皇の皇子であり、その諸皇子の中でも最後まで生き残ったことにより奈良時代初期には皇親勢力の一員でもあった。親王の業績としては養老4年(720)に編纂された「日本書紀」を挙げることができる。大炊王が生まれた2年後の天平7年(735)に舎人親王は平城宮で崩御している。そのように幼い時期に父を失った大炊王は天武天皇の孫でありながら官位を受けることがなかった。このような境遇の大炊王を支援していたのが藤原仲麻呂であった。亡き息子の真従の未亡人・粟田諸姉を王に娶らせ自邸である田村第に住まわせていた。仲麻呂の政治基盤は聖武天皇の皇后である光明皇太后(叔母)と孝謙天皇(従兄妹)からの信頼だけではなく、即位した淳仁天皇から実の父のように慕われていたことが大きい。
また翌3年(759)6月16日には光明皇太后からの勧めを受けて実父である舎人親王とその妃(当麻山背)に尊号を与えている。淳仁天皇は孝謙上皇に伺いを立てたところ、「淳仁が天皇に成れただけでも十分有り難い事で父母や兄弟にまで御恩を頂戴するのには余りに畏れ多い」と皇太后に辞退するように教えられた。天皇は皇太后に教えられた通り申し上げたところ、「凡そ人の子の禍を去り、福を蒙らまく欲する事は、親の為にとなり、此の大き福を取り惣べ持ちて、親王に送り奉れ」という皇太后からの強い要請により、結局天皇は舎人親王に「崇道尽敬皇帝」の尊号を贈っている。
この出来事を遠山美都男氏は「古代の皇位継承 天武系皇統は実在したか」(吉川弘文館 2007年刊)で皇太后と上皇の考え方の差を見出している。光明皇太后は塩焼や新田部系との連帯と融和を図る必要を感じていた夫である聖武天皇の方向性を継承したのに対して、孝謙上皇は父である聖武天皇から皇位継承の権限を委任されたと考え淳仁天皇に対しても臣下としての絶対服従を求めたと見ている。つまり淳仁天皇が既に即位していても皇統を受け継ぐに値するかを見極めていたということらしい。恐らくこのような見解に立つ方が、次に生じる藤原仲麻呂の乱における孝謙上皇の淳仁天皇に対する処置への説明が容易になるからであろう。
天平宝字4年(760)6月7日、光明皇太后が崩御される。淳仁天皇と藤原仲麻呂の支援者であり、この両者と孝謙上皇との間のバランスを保ってきた皇太后が去ったことで新しい展開が生じる。それを促進したのが道鏡の出現である。天平宝字5年(761)10月13日、仁天皇と孝謙上皇が保良宮に行幸している。その際、病気を患った孝謙上皇を看病したのが道鏡であり、これによって上皇の寵を受けることとなった。「続日本紀」天平宝字6年(762)5月23日の条に以下のような記述が見られる。
辛丑、高野天皇与レ帝有レ隙。於レ、車駕還二平城宮一。帝御二于中宮院一、高野天皇御二于法華寺一。
実に素っ気無い記述であるが、これが上皇と天皇の関係の決裂を表現した部分である。天皇は上皇に対して道鏡を寵愛することに対して意見をしたのであろう。上皇にとっては臣下と見なしている淳仁天皇から批判された事に激怒したと思われる。天皇は中宮院に入り上皇は法華寺に入寺している。
翌6月3日上皇は五位以上の貴族を朝堂に集め、草壁皇子を始祖とする皇統の正統な天皇であることを宣言した上で下記のように宣言している。
出家弖、仏弟子止成奴。但政事波、常祀利小事波今帝行給部、国家大事賞罰二柄波朕行牟。
今帝とは淳仁天皇のことであり、「国家大事賞罰二柄」の天皇大権は孝謙上皇が掌握するという宣言でもあった。この出来事を遠山氏は、実質的な淳仁天皇の廃位と称徳天皇の即位と見ている。
この後、天平宝字8年(764)9月に藤原仲麻呂の乱が発生する。仲麻呂による反乱計画を教える複数の密告を受けた孝謙上皇は、少納言山村王を淳仁天皇のいる中宮院に派遣して、皇権の発動に必要な鈴印を回収させたとされている。反乱の計画を立案していたのは仲麻呂側であったが、先に行動を開始したのは上皇側であったと考えてよいだろう。このようにして権勢を誇っていた藤原仲麻呂は僅か1週間の争いに敗れ、一族皆殺しの目にあっている。
戦いの序盤で拘束された淳仁天皇は、乱も鎮静された翌10月9日に廃帝となり淡路国へ配流される。「続日本紀」天平宝字8年(764)10月9日の条に以下のような記述がある。
帝位乎方退賜天、親王乃位賜天淡路国乃公止退賜
退位させられた淳仁天皇は大炊親王に戻され、形の上では淡路国の国公に任じられた訳である。このことにより、称徳天皇の重祚は天平宝字8年(764)10月9日となる。親王は配流されてから翌年後の天平神護元年(765)10月23日に淡路で崩御している。「続日本紀」は以下のように記している。
庚辰、淡路公、不レ勝二幽憤一、踰レ垣而逃。守佐伯宿禰助・掾高屋連並木等、率レ兵レ邀レ之。公還明日、薨二於院中一。
「続日本紀」では親王は逃走を試みたが兵によって連れ戻され、翌日になって幽閉場所で亡くなったということらしい。淳仁天皇を廃帝に追い込んだ称徳天皇はこの天平神護元年(765)10月2日に三関の固守を行っている。これは通常天皇や上皇の崩御に伴い政変等が生じるのを未然に防ぐためであり、13日から始まる紀伊国行幸の準備としては異例なことであった。「新日本古典文学大系」の注釈も、「称徳の紀伊行幸は、淡路の廃帝に威圧を加え、皇嗣擁立をめぐる官人層の不穏な動きを抑える目的を持っていた」と推測している。同18日には玉津嶋(和歌山県和歌浦付近の浜)に至り翌19日には南の浜を望む高楼で雅楽や雑伎を奏している。それから数日後に淡路廃帝が死去するというのは非常に不自然な出来事である。山田雄司氏は「跋扈する怨霊 祟りと鎮魂の日本史」(吉川弘文館 2007年刊)で、「称徳天皇は淡路島を目にして、いつ徒党を組んで反旗を翻すかわからない淳仁のことが脳裏をかすめ、廃帝を亡き者にする命を下した」と考えている。
明治3年(1870)7月23日、淡路廃帝に淳仁天皇の諡号が賜られている。この時、壬申の乱で自殺した大友皇子に弘文天皇、承久の乱の九条廃帝に仲恭天皇の諡号が贈られるなど、時代に翻弄された天皇の復権が為されている。このことは「明治天皇紀」(吉川弘文館 1969年刊)には以下のように記されている。
二十三日 大友帝に弘文天皇、淡路廃帝に淳仁天皇、九條廃帝に仲恭天皇と追諡し、神祇官神殿に於て之れを祭り。大納言徳大寺実則を差遣せらる、其の儀、官・省・院・臺・職の長官著座し、神祇伯中山忠能、三皇霊に各々祝詞を奏し、次に幣物として各々紅白絹一匹宛を供し、玉串を奠じ、次に勅使参進して三皇霊に宣命を奏す、神祇伯進みて宣命を請け、神前に奉る。畢りて更に八神・天神地祇・歴代皇霊の三所に奉告の祭祀あり、是れより先明治元年八月、伊予国人城門某・大和国人宇陀某建白書を上りて淡路廃帝の神霊を京都に奉還し、諡号を奉らんことを請ひ、是の歳五月、神祇官亦三帝の諡号に就きて建議する所ありたり、 〇太政官日誌、祭典録、公文録、雑書綴、建白書、嵯峨実愛日記、法令全集
以上より三帝に対する諡号追贈は民間からの建白書によって発議されたことが分かる。この伊予国人城門某とは矢野玄道のことであろうか。そして淳仁天皇が明治6年(1873)12月24日に白峯神宮に合祀されたのも同上の建白書に拠ったものと考えてよいだろう。同じく「明治天皇紀」の明治6年12月24日の条に以下のように記されている。
二十四日 淳仁天皇神霊奉迎使として淡路国に遣はしゝ式部助五辻安仲、神霊還幸に供奉して同国を発し、二十三日京都に著し、是の日、神霊を山城国愛宕郡鎮座官幣中社白峰宮に合祀奉安す、○公文録、小倉長季日記、太政類典
この記事へのコメントはありません。