白峯神宮 その8
白峯神宮(しらみねじんぐう)その8 2010年1月17日訪問
白峯神宮 その7では、幕末維新期の白峯神宮創建の経緯について「孝明天皇紀」(平安神宮 1981年刊)慶応2年(1866)11月16日の条を中心に見て来た。この項では白峯神宮創建を目指して奔走した中瑞雲斎の前半生について調べてみる。
しかしこの敷地が「狭小」である上「汚穢地之旨有風聞」ということから、5月16日には南側の土地の収用を止めて新たな敷地を探し始めている。そして一か月後の6月12日には、今出川通西入ル北の現在の白峯神宮の敷地に変更されている。この地は飛鳥井町という町名通り権中納言・飛鳥井雅典の拝領地であったがそれを召上げたのであろう。これは孝明天皇御存命中の出来事であるため、天皇を始めとする公卿衆が東京に移ったことで空いた土地に建てられたということではない。大成京細見繪圖を見ると、本阿弥、西園寺とともに飛鳥井などの邸宅がこの地にあったことが確認できる。また、文久3年(1863)年に作成された内裏圖には、飛鳥井家の邸宅を示す飛鳥井殿が、御所の東北隅の猿が辻の有栖川宮邸のさらに東側に描かれている。これは慶応元年(1865)11月に行われた有栖川宮邸の移動と御所改修前のことである。さらに慶応4年(1868)に作成された「改正京町御絵図細見大成」(「もち歩き 幕末京都散歩」(人文社 2012年刊))を見ると、有栖川家と中院家は無くなったが、飛鳥井家、野呂家、清閑寺家はそのまま残されている。恐らくこちらが飛鳥井雅典の本邸で、今出川通西入ル北は別邸であったのであろう。この別邸の方は白峯神宮創建の為に召し上げられたと考えるのが妥当であろう。
以上のように慶応2年(1866)5月頃には、上御霊神社の西側に敷地を設け崇徳上皇の社殿を創建することが一度は決まっていた。そしてこの計画の始まりは、その2年前の元治元年(1864)5月から7月にかけて、柳原光愛と中山忠能の間での話し合いから始まっていたことも分る。最初は尊号一件について、やがて崇徳上皇の鎮魂の方法についての話し合い行われてきたことが「日本史籍協会叢書 中山忠能日記1~4」(東京大学出版会 1916年発行 1973年覆刻)の「正心誠意」にみることができる。この話し合いは甲子戦争勃発の直前まで続けられ、最終的には崇徳天皇の怒りを宥めるため荒廃した粟田宮を再興し、崇徳天皇の命日にあたる8月26日に勅使を派遣して祭祀を執り行うことを忠能は提案している。これが公卿達の崇徳上皇鎮魂に関する活動の一端と考えられる。
上記の柳原光愛と中山忠能の協議より以前から崇徳上皇の鎮魂が必要であると考え、行動してきたのが中瑞雲斎である。中瑞雲斎の経歴については「孝明天皇紀」の慶応2年11月16日の条で引用している「史談速記録」が詳しい。「孝明天皇紀」中瑞雲斎に関する記述の元となったのは「史談会速記録」合本9 第51輯(原本:史談会 1897~98年刊 覆刻:原書房 1982年刊)の「中瑞雲斎君の国事に鞅掌せられし事実附十七話」である。これは明治28年(1896)10月11日に史談会が主催した幕末維新に関する講演会の中で、瑞雲斎の子の謙一郎が行った講演を書き起こしたものである。「孝明天皇紀」に所収されている瑞雲斎の経歴書と同一の記述を上記の「史談会速記録」合本9に見ることはできない。また「史談会速記録」には掲載されなかったものの、謙一郎が講演した際に史談会に提出したものか、当日の速記録から「孝明天皇紀」の編者が新たに書き起こしたものかも判別できない。いづれにしても、この経歴書が中瑞雲斎の生涯を知ることができる初期の史料となっている。
この「史談会速記録」以外の瑞雲斎の幕末維新期の活動を紹介するものとしては、熊取町教育委員会が纏めた「中瑞雲斎関係書簡集(熊取町史紀要 ; 第2号)」(熊取町教育委員会 1988年刊)に所収されている解題であろう。これはその書名通り、中瑞雲斎の書簡集と慶応2年(1866)に著わした「窓廼独許登」を出身地の熊取町が纏めたもので、これに徳島大学教授の桑原恵氏が解説を加えている。桑原氏は既に「尊王攘夷運動の思想 ―中瑞雲齋を中心に―」(「歴史学研究(553)」(青木書店 1986年刊))を記しているように、中瑞雲斎の崇徳天皇の神霊遷還活動を通して平田派国学の思想が幕末の尊王攘夷運動に与えた影響を説明している。 この「史談会速記録」と「中瑞雲斎関係書簡集」を参考にして中瑞雲斎の思想と行動を再現してみる。
中家第25代当主の中盛茂(瑞雲斎)は文化4年(1807)に旗本・根来家の三男として生まれ、6歳の時に養子として、降井家(中左太夫家男)と共に熊取谷15ケ村を支配する中家に入っている。近世初期、中家の先祖にあたる中左近盛勝の三男が根来成真院院主となり、家康に取り立てられて旗本になったとされている。そのため旗本・根来家にとって中家が本家筋となる。
瑞雲斎が当主となる幕末期、中家は岸和田の大庄屋という身分であった。本来は郷士として扱われるべき家であったが、熊取谷を治める岸和田藩に郷士制度がなかったため中家と降井家は他の庄屋とは異なる別格としての扱いを受けるに留まっていたということになる。
以上の歴史を持ち、当時もすでに高い格式を備えていた中家に養子として迎えられたのが僅か6歳の瑞雲斎であった。郷士格とはいえ農民である中家の当主となった瑞雲斎が目指したものは、ただ経済的な繁栄ではなく中家自体の家格を更に高めることであったと想像される。400石を越える中家の家政は家来に任せ、岸和田藩の御用は当主に代わる者を出頭させることも中家の特権として可能であったようだ。これにより、かなり自由に行動することが可能となったはずである。それを瑞雲斎は自らの政治活動に充てていった。
嘉永年間、瑞雲斎は南部藩の鉱山学者であった大島高仁を招聘し大砲を鋳造し、根来家の知行地である大和国丹原町で試射を行っている。これが近畿地域における洋砲発射の魁とされている。幕府へ知れることを恐れる岸和田藩によって瑞雲斎は謹慎を命じられている。
嘉永6年(1853)3月3日、長州藩の吉田松陰が中家を訪れている。同年6月3日にペリーがアメリカ艦隊を率いて浦賀に寄港しているので、その直前の来訪となる。瑞雲斎は松陰と太平天国の乱に関する情報の交換を行ったと「熊取の歴史」(熊取町教育委員会編 1986年刊)は記している。熊取という片田舎で40年近く過ごしてきた瑞雲斎が、日本国の国防について松陰と議論を交わせるだけの情報と知識を身に付けていたことが分る。なお、松陰は前年12月9日に脱藩亡命の罪により士籍を削除され父の育みとなったが、翌1月26日には再び諸国遊歴に出発している。その近畿遊歴の途中で中家を訪問し、5月24日に江戸に到着している。松陰が黒船を目撃したのは江戸到着後のことである。
桑原氏は「中瑞雲斎関係書簡集」で、青年期の瑞雲斎が京都の梁川星巌の下で漢文を学んだことに触れている。そしてこの時期の郷士達は上京して学問を習得することも珍しいことではなかったと記している。むしろ中家ほどの家格ならば漢文の素養や書画を身に付けることは嗜みの一つであり、その遊学中に平田派国学に触れたとも指摘している。
やがて瑞雲斎が熊取から京都に出て尊攘活動に専念していく背景には、朝威回復に従事することによる家格向上の目論見もあったと推測している。幕末の混乱した国内経済の中で中家も大きな借財を抱えている。上記のように養子に入った瑞雲斎にとって、中家の経済的な繁栄を目指す状況にはなかった。当主として期待された役割を果たすためには、目先の利益ではなく天皇家の権威回復による幕藩体制の終結と天皇親政による社会状況の一変しかなかったのかもしれない。
瑞雲斎の思想形成に大きな影響を与えてきたものは、この時代の郷士達と同様平田派国学であったことは疑いない。彼等は天皇よる親政こそが唯一の政治のあり方であると強く信じ、そのような状況に現状が至っていないのは武家の台頭による皇威の衰微であると考えていた。その遠因を遡れば保元の乱に辿りつく。つまり幕末の政治状況の混迷は崇徳天皇の怨霊化した霊によって齎されたものであり、怨霊を鎮撫することは皇威回復の好機でもあると考えている。そして崇徳天皇の霊を鎮めるためには神霊の遷還が必要であると「窓廼独許登」を記し建白している。この神霊遷還を実現するために、瑞雲斎は王事に従事していった。「史談会速記録」によれば、文久2年(1862)5月に讃岐を訪れ、崇徳天皇の遺蹟を巡り調査を行っている。同年閏8月8日、宇都宮藩主戸田越前守忠恕が山陵修復の建白書を幕府に提出している。外患に対して国内の士気を奮い起こすためには天皇自らが歴代天皇陵を修補し先祖に対する忠孝を示すのが重要であると考えられていた。また天皇家の万世一系を明示することが外敵への対抗手段になり得ると考え、天皇を神として奉載するという尊皇攘夷が政治的に推進されるようになっていった。この時期の瑞雲斎の活動は正にこの思想に一致していた。
翌文久3年(1863)3月、瑞雲斎は上京し崇徳天皇の神霊遷還に関する請願を本格化させる。当時、足利三代木像梟首事件発生直後で、尊王攘夷激派の公家達と長州藩勢が京から追い落とされる八月十八日の政変へと続く騒然とした状況にあった。その影響で瑞雲斎の建白書はなかなか受理されなかったようだ。しかし日夜の奔走が実を結び、ついに伝奏・野宮定功による奏達の機会を得る。
瑞雲斎の京での政治活動が、またも岸和田藩主の耳にも届き、文久3年5月に永蟄居が命じられる。むしろこの処罰を契機に郷里・熊取を脱して京に留まり政治活動に専念するようになる。
「孝明天皇紀」(平安神宮 1981年刊)慶応2年(1866)11月16日の条に白峯神宮創建が以下のように簡潔に記されている。
慶応二年丙寅十一月十六日辛未崇徳天皇の社殿を京師に営す是日木作始の儀あり
「明治天皇紀」(吉川弘文館 1969年刊)慶応2年11月16日の条でも以下のように記されている。
十六日 曩に勅して社殿を京都今出川に造営し、崇徳天皇の神霊を奉祀せしめたまふ、是の日、木作始の儀を行はせらる、崇徳天皇無限の恨を懐きて讃岐国に崩じたまひしより政権武門に帰し、皇室式微已に久し、去る文久三年同天皇七百年聖忌に丁り、神霊を京都に奉還して之れを慰めたてまつるべしとの議あり、尋いで慶応元年陵所の修復を見たるが、是に至りて社殿の造営に着手せられしなり、尋いで二十五日地鎮祭、十二月十日礎立柱の儀を行はせらる、 〇非蔵人日記(孝明天皇紀所載)、二条家日記(同上)、吉田家日記(同上)、史談速記録(同上)、戸田大和守山陵御修補之顛末
上記の瑞雲斎による建白書が受理された時期は不明であるが、敷地の変更が慶応2年5月頃に検討されていることからも白峯神宮創建は慶応2年の早い時期に決定されたのではないかと考えられる。そして年末に近い11月16日に神宮造営の起工式が行われ、恐らく年明けには工事を完了する予定であったと思われる。しかし同年12月25日に孝明天皇が崩御される。造営工事が中断したかは分らないが、当初の進捗状況では少なくとも慶応3年(1867)には神霊の遷還を行えたはずであるが実施されなかった。
慶応3年正月9日、践祚の儀が行われ睦仁親王が皇位に即く。新政府の神祇事務局による崇徳天皇の神霊に関する議論は慶応4年(1868)4月25日に行われ、社殿造営が継続される。同年7月18日には、忌日の8月26日にまでに神霊を京に迎えるための日程が示され、宮司は当分神祇官が引き受け、これまで尽力してきた中瑞雲斎等に御賞を仰せられたいと神祇官からの申し出が提出されている。
「明治天皇紀」(吉川弘文館 1969年刊)明治元年8月26日の条に以下のように記されている。
二十六日 権大納言中院通富を以て勅使と為し、左近衛権少将三条西公允を副使として讃岐国に遣はし、白峯山陵に崇徳天皇の神霊を奉迎せしめ、高松藩主松平頼聴を神霊御還遷御用掛と為し、山陵祭典鋪設及び道途の警衛に当らしむ、是の日、通富等山陵祭を執行し、尋いで神霊を奉じて帰京す、乃ち祠宇を京都今出川通飛鳥井町に創建して奉祀し、白峰宮と称す、又頼聴の請を聴し、白峯山陵修理の工を助けしむ、 〇宮中日記、祭儀録、山科言成日記、松平頼聴家記、法令全書
また同年9月6日の条には、
六日 崇徳天皇神霊讃岐国より還遷の儀あり、乃ち勅使左近衛権中将油小路隆晃を白峰宮に参向せしむ、天皇清涼殿に出御、御拝あらせらる、 〇宮中日記、戊辰祭儀、山科言縄日記、冷泉為理日記、太政官日誌、公卿補任
とある。これらの記述によれば、当初の予定と異なり忌日の8月26日には讃岐国の白峯陵で式典だけが行われている。同月28日に還御の途につき、9月5日に伏見着。翌6日、御霊代の唐櫃を御羽車に奉還し御羽車を中心に隊伍が組まれて白峯宮を目指した。この列には松平讃岐守や中瑞雲斎も加わっていた。稲荷社や錦天神社で小休止を取りながら、伏見街道、五条橋、寺町通、三条通、室町通、中立売通、小川通を経て今出川通飛鳥井町の白峯宮に到着した。この賑々しい演出は武家の世の終わりを強く印象付けるとともに、瑞雲斎が望んだ天皇親政の到来を告げるものであった。そして瑞雲斎の幕末からの政治活動の功績が認められた瞬間でもあった。
なお白峯陵での式典が行われた翌日の明治元年8月27日、御所において明治天皇の即位の礼が挙行されている。崇徳天皇の神霊を鎮めることによって新たな時代の即位の礼が可能となったと感じさせる出来事でもあった。
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