由岐神社
由岐神社(ゆきじんじゃ) 2010年9月18日訪問
鞍馬寺 その4で、九十九折の参道を下っていくと、川上地蔵堂と義経公供養塔を越えた先に由岐神社の割拝殿が見えてくる。由岐神社は鞍馬寺の鎮守社であり靭明神とも呼ばれる。大己貴命と少彦名命を主祭神として由岐大明神と総称する。また八所大明神を相殿に祀る。もともと八所神社は鞍馬山山頂にあったが文化年間(1804~18)に由岐神社に合祀されている。恐らく文化11年(1814)鞍馬寺は全山炎上の大火災を被っているので、それ以降のことと考えられる。
大己貴命は大国主神で国津神の主宰神とされている。少彦名命は大国主の国造りに際し、天乃羅摩船に乗り、鵝の皮の着物を着て波の彼方より来訪し、神産巣日神の命によって義兄弟の関係となって国造りに参加した神とされている。大国主神も少彦名命も多くの山や丘の造物者であり、命名神であったが、後に常世国へと大国主神のもとより去っていく。大己貴命と少彦名命が主祭神ということは葦原中国の国造りに関係すると考えてよいだろう。
社伝では朱雀天皇の天慶3年(940)勧請とされている。承平5年(935年)2月に平将門が関東で反乱を起こし、次いで翌年には瀬戸内海で藤原純友が乱を起こすという承平天慶の乱の頃である。この時期ほかにも富士山の噴火や地震そして洪水などの災害や変異が多く発生している。天下泰平と万民幸福を祈念致し、天慶3年(940)9月9日に御所にお祀りされていた由岐大明神を都の北方にあたる鞍馬に地にお遷しされたとしている。その神社としての性格は「諸社根元記」に「件ノ明神ハ疫神カ、紫野今宮韓神五条天神等同体也」と記されている。
また徒然草の第203段に下記のような記述が見られる。
勅勘の所に靫懸くる作法、今は絶えて、知れる人なし。主上の御悩、大方、世中の騒がしき時は、五条の天神に靫を懸けらる。鞍馬に靫の明神といふも、靫懸けられたりける神なり。
現代語訳では「勅命によって謹慎処分となった者の家には靫をかける作法があったが、今では知る人がない。天皇の御病気の時、あるいは世の中が乱れた時には、五条の天神という神社に靫をかけられる。鞍馬にある靫の明神というのも、靫をかけられた神である。」ということになる。「日本歴史地名体系27 京都市の地名」(平凡社 1979年刊)では由岐神社の社名は社前に矢を背負う器具である靫を掲げて平穏を祈ったことに由来していると説明している。また「日本の神々 神社と聖地 5 山城と近江」(白水社 1986年刊)では以下のように説明している。
由岐の名は、神聖・清浄であることを表わす「斎ゆ」をともなう言葉、すなわち神事に用いられた常盤木「斎木ゆき」や、神聖な酒を意味する「悠紀(斎酒)ゆき」に由来するものとすいてされる。のちには、同音の「靫ゆき」の字を当てて当社を「靫明神」と呼ぶにいたるが、これは神木としての斎木を靫で代用うることが行われた結果でもあった
黒川道祐が天和2年(1682)から貞享3年(1686)にかけて記した「雍州府志」(「新修 京都叢書 第三巻 近畿歴覧記 雍州府志」(光彩社 1968年刊))に以下のような記述が見られる。
○靫明神 在二同所一一作二由木社家説曰斯神典二蒼生之罪一又時疫流行日懸二看督長所ㇾ負之靫於神戸一以鎮二時疫一本朝風俗勅勘家懸二靫於家門一禁二錮人之出入一故懸ㇾ社亦罸ㇾ神之意也倭俗忤二主上之旨一謂ㇾ蒙二勅勘一凡違二君父之命一而蟄居謂ㇾ蒙二勘当一一説此社大己貴命少彦名之二神也
同所とは「○石上社 在二鞍馬一」に続くため「鞍馬に在り」ということ。
鞍馬寺の九十九折参道の途中に由岐神社の境内があるため、かなりの高低差が生じている。北側の最も高い箇所に本殿が築かれている。慶長15年(1610)豊臣秀頼の命により建部内匠頭光重が奉行となって本殿と拝殿を再建している。これは擬宝珠の刻銘より見て取れる。建部光重は父寿徳の摂津尼崎郡代を継ぎ、後に豊臣秀吉・秀頼父子に仕えた武将。慶長9年(1604)やはり秀頼の命により奉行として吉野水分神社を完成させている。慶長15年(1610)33歳で没しているので、この由岐神社が最期の仕事になったのかもしれない。本殿扉左右には石造狛犬1対がある。この玉取子取獅子は鎌倉時代に作られた宋風獅子で、右の阿形は前足で子獅子を、左の吽形は前足で鞠を抱く。子授け祈願、子孫繁栄・安産の信仰がある。明治42年(1909)に重要文化財に指定され、現在は京都国立博物館に委託保管されている。そのため本殿の縁の上に設置されている狛犬は昭和41年(1966)に造られたレプリカである。
本殿の西側には末社の三宝荒神社が祀られている。祭神は三宝荒神大神で、この地の火の神様、竈の神様、火難除け、災難除けの信仰がある。祭日は5月の第4日曜日。本殿前の石段の左右にも慶長20年(1615)在銘の四角型石灯籠一対がある。この拝殿と本殿をつなぐ石段の左右に4つの末社がある、右手側上から大杉社と岩上社、左手側上から白長弁財天社と冠者社である。
大杉社の祭神は樹齢800年の大杉の御神木であり、その根元に祀られている。この願掛け杉の神木に一心に願えると叶うといわれている。祭日は3月21日。
岩上社の祭神は、事代主命と大山祇命。かつては鞍馬の岩上の森に祀られていた。山岳登山安全の信仰がある。祭日は5月5日。
白長弁財天社の祭神は白長弁財天で、この地にあり霊験あらたかな神という。商売繁盛、健康長寿の信仰がある。祭日は8月の第1日曜日。
冠者社の祭神は素戔鳴命。鞍馬の冠者町に祀られていた。商売繁昌、家運隆昌の信仰がある。祭日は7月17日。この他に由岐神社の末社として、八幡宮社と貴船口の石寄大明神社がある。
上記の石造狛犬とともに由岐神社で明治40年(1907)に重要文化財に指定されているのが拝殿である。懸造、桁行六間、梁間二間、一重入母屋造、中央通路唐破風造の檜皮葺。傾斜地の石段途中に建てられた割拝殿。正面6間の偶数軒で、1間に石段の通路があるため左右非対称の建築となっている。つまり南側(下側)から拝殿を眺めると、左側の西拝殿が3間、石段の1間を挟んで右側の東拝殿が2間という構成になっている。西拝殿には南北に縁が付けられているが、東拝殿には南北に加え東側にも縁が設けられている。この左右非対称は必ずしも崖地の地形を利用したためということでは説明できないように思える。屋根は軒唐破風になる。力強くそして華やかさを感じる安土・桃山時代の代表的な建造物に仕上がっている。
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