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鞍馬寺 その7



鞍馬弘教総本山 鞍馬山鞍馬寺(くらまでら)その7 2010年9月18日訪問

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鞍馬寺 奥の院

鞍馬寺 その6では、鞍馬寺の教義の推移と修験者について、そして僧正が谷の由来となった権僧正壹演まで見てきた。ここではさらに一歩進めて中国と日本の天狗の違いについて書いてみる。

鞍馬山の天狗はどこから来たのであろうか?元々天狗は中国から日本に入ってきたものであるが、その姿やイメージは現在の日本の天狗とはかなり異なっていた。司馬遷の「史記」天官書87に以下のような記述が見られる。?最初の「天狗,狀如大奔星,有聲」は、「天狗(てんこう)、その姿は大流星で音がする」という意味である。つまり大気圏に突入した隕石が衝撃波を発し、地上に落下して大音響を生じるさまを「天狗」と名付けたようだ。この爆発音を狗(=犬)の吠え声とみたのであろう。そして最後の部分にあるように、「戦乱で軍が敗れ、将軍の死」をもたらすとされてきた。天狗は、全宇宙を支配する天帝が人間に対する警告あるいは怒りとして捉えられていた。さらに天変という自然災害だけではなく、人間に対しても災厄を齎す予兆と認識されていた。
それでは中国の天狗はどのような姿をしていたか?中国古代の戦国時代から秦朝・漢代にかけて徐々に付加執筆されてきたと考えられている「山海経」西山経3巻の陰山の項(「中国古典文学大系 8 抱朴子 列仙伝・神仙伝 山海経」(平凡社 1994年刊))に「獣がいる、その状は狸の如く、白い首、名は天狗。その声は榴榴(未詳)のよう。凶をふせぐによろし。」とある。そして蛇を咥えた獣の図が「山海経挿図」(「山海経広注」付図)に描かれている(「中国古典文学大系 8」525頁左下)。この姿から「山海経」の天狗は鳥類型でも山伏型でもない獣類型であった。「山海経」にはおびただしい数の合成動物の妖怪が描かれている。どこからこのような創作意欲が湧き出してくるのかと感心するほどの数である。中野美代子氏の「中国の妖怪」(岩波新書 1983年刊)によれば、最も多いのは様々な動物の合成体である。古代の中国では動物を鳥・獣・鱗・介の4つに分類するが、同じ獣類の中での合成から獣と鳥の合成までありとあらゆる組み合わせを創り出している。上記の天狗もこの型に含まれる。

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鞍馬寺 奥の院

このような動物の合成の次に多いのが人間と動物の合成である。この中にはさらに2つの型がある。動物の体に人間の頭部がつけられた型、そして人間の体に動物の頭部がつけられた型である。「山海経」では圧倒的に前者が多く、人面鳥、人面獣、人面魚、人面龍が挿図の中を跋扈している。
これらに次いで現れる合成体として、中野氏はビュフォン伯爵の分類を借りて「過剰による妖怪」と「欠如による妖怪」そして「誤れる配置による妖怪」の3つの型を挙げている。例えば尾が複数ある生物、頭部がない生物、そして角が頭の頂部にある生物がこの法則に該当する。 「山海経」は実在しない動物や四神、聖獣、妖怪を延々と紹介しているが、「又西三百里陰山」とあるように実は地誌の形態を採っている。そしてこの書に現れる生物は、まだ人の手がついていない山中に棲息していることになっている。中野氏は上記の「中国の妖怪」で、獣面人身ではなく人面獣身が多く現れていることを「妖怪の環境学」という言い方で説明している。つまり妖怪や魑魅魍魎は深山の中でひっそりと暮らしてきたが、時代の変化により山が人間の生活の中に加わるとともに妖怪の人格化が始まったとしている。これにより「西遊記」の猪八戒のような獣面人身の妖怪が説話や物語の主役になったのである。人面獣身が大自然の中に存在することはイメージできても人間世界で生活する姿を想像することは難しい。しかし猪八戒が三蔵法師に付き従い旅をすることには違和感が少ない。例え頭部が獣であっても、それ以外の部分が人間と同じ形で同じ大きさならば、人は自分の隣りで獣面人身の妖怪がスターウォーズの映画の中のように生活していることも想像できるものである。

以上のような中国の天狗が日本に渡来したのは、かなり早い時期であった。「日本書紀」の舒明天皇9年(637)2月23日の条に下記のような記述がある。

九年春二月丙辰朔戊寅、大星、從東流西、便有音似雷。時人曰流星之音、亦曰地雷。於是、僧旻僧曰「非流星。是天狗也。其吠聲似雷耳。」三月乙酉朔丙戌、日蝕之。

「九年の春二月二十三日に、大きな星が東から西に流れ、雷のような音がした。人々は、流れ星の音だ、とか、地雷だ、といったりしたが、僧旻は『流れ星ではない。これは天狗だ。天狗の吠える声が雷に似ているだけだ』と言った。」という意味である。旻とは飛鳥時代の学僧で、推古天皇16年(608)遣隋使小野妹子に従って隋へ渡り、24年間にわたり同地で仏教のほか易学を学んでいる。そして舒明天皇4年(632)8月に日本への帰国を果たしている。隋国より帰国したばかりの僧旻が中国で学んだ知識を早速披露したという逸話であろう。杉原たく哉氏は「天狗はどこから来たか」(大修館書店 2007年刊)の中で僧旻が「非流星。是天狗也。其吠聲似雷耳。」と言ったことに注目している。つまり目の前で起こった天体現象を「流星ではない」、「天狗という妖怪の仕業」であると断言した点である。旻以外の者全てが流星すなわち自然現象と認めたものを、わざわざ天狗と言い換えたのには輸入始めた中国文化を日本に根付かせるためのことだったとも考えられる。ただ本場中国では流星という自然現象を認めた上で流星に天狗名を与えたということなので、旻のように流星と天狗を分けることはなかったようだ。これから400年間、自然現象としての天狗は日本の庶民レベルまで浸透することはなかったと杉原氏は述べている。つまり中国では天帝が支配する世界といった天文思想の中で、天狗は天帝の警告や怒りを顕すものとされてきた。しかし日本では天狗という名称を定義しても、その裏付けとなる思想、例えば日本神話との結びつきなどがなかった。これが日本に定着しなかった原因だったと思われる。そのため朝廷を中心とする当時の支配層の間では天狗という言葉は使用されたかもしれないが、庶民にはその意味が伝わらなかったのではないだろうか。

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鞍馬寺 宇治川 2008年5月11日撮影
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鞍馬寺 宇治橋 2008年5月11日撮影

再び形を変えて天狗が現れて来るのは平安時代中期の物語文学の中である。「源氏物語」の最終章・夢浮橋に下記のような記述が見られる。

天狗木霊などやうのものの、欺き率てたてまつりたりけるにや、となむ承りし。

これは宇治川に入水した浮舟が宇治院の裏手で救助された有様を横川僧都が薫に語ったもので、現代語訳にすると「天狗木霊の類が、女をだましてお連れしたのではないか、皆の話から存じられました」という意味になる。天狗には人を誑かせて連れ去る妖怪ということで、「天狗さらい」や「天狗隠し」という言葉がある。同じように「栄花物語」巻36「根あはせ」にも上東門院が世の憂うさを避けるために移居した白河の地を「天狗などむつかしき辺りにて、いみじう煩はせ給う」と説明している。「源氏物語」と同じように人を惑わす妖怪が徘徊する場所という意味である。また、平安時代中期の公卿・藤原実資の日記「小右記」の長元4年9月20日の条にも下記のような記述を見ることができる。

中納言來云、二娘病悩、猶無減氣、種々霊・貴布祢明神・天狐所令煩、長日修法并他善事無指験者、

中納言とは藤原資平のことで、実資の甥であり養子となった人物である。その資平の二人の娘が病に悩み良くなる気配がなかった。様々な霊や貴船明神、天狐などの仕業であると考え、密教修法やその他の処方を尽くしても効き目が現れなかったという意である。ここで悪霊や貴船明神とともに天狐もまた病の原因と考えられていたことが分かる。上記のように飛鳥時代に中国から渡ってきた天狗は、平安時代中期の和訓によって「アマキツネ」となったためか、平安時代の諸書には天狗と天狐を同じものとして扱う例が多く見られる。これもまた天狗の仕業ということである。

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鞍馬寺 貴船神社 本宮
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鞍馬寺 貴船神社 本宮

このように11世紀に現れた天狗は7世紀の流星ではなく、人に害をもたらす妖怪として日本に根付き始めている。ここで注意すべきことは、この時期の天狗は仏教と関係のない、ただの物の怪の一つとして描かれていることである。

次に天狗は姿を変えて、「今昔物語」の中に現れる。「今昔物語集」は平安時代末期に成立したと考えられている説話集である。天竺部5巻、震旦部5巻、本朝仏法部10巻、本朝世俗部11巻の全31巻構成であるが、8、18、21巻が欠巻となっている。ほとんどが仏教説話であるが、本朝世俗部など非仏教説話も含まれている。この巻第20 本朝付仏法に日本における冥界の往還や因果応報に関する説話の中に天狗についての記述が数点見られる。特に巻20第2話の「震旦天狗智羅永寿渡此朝語 第二」は天狗の本場である中国(震旦)から日本に渡った天狗が引き起こす騒動が描かれている。「紙本著色 是害坊絵巻」によれば、中国から渡来した天狗には智羅永寿(是害坊)という名前があった。「中国は仏教発祥の地インドに近いため仏法の威力も強い。それでも我等天狗を凌駕する僧はいない。日本は辺境の小国だが仏法東漸の国であるから歯応えのある僧もいると考え、力比べのために来た。案内・手引きをお願いする。」と是害坊が愛宕山の日本天狗・日羅坊に依頼するところから始まる。日羅坊は是害坊比叡山に連れて行き、叡山の高僧との対決を設定した。
老僧に化けて待つ是害坊の前に最初に現れたのは不動明王の火界の呪を唱える余慶律師であり、律師の載る輿の周囲は不動明王の火で燃え上っていた。是害坊は近づくと焼き尽くされると思い、頭を抱えて逃げ隠れてしまった。日羅坊が逃げた理由を問うと、是害坊は羽を焼かれては中国に帰ることができなくなるので遣り過したと答えた。
次に山から下りてきたのは権僧正尋禅であった。尋禅も不動明王の慈救の呪を唱えていたため、尋禅の輿の前には不動明王の下僕である矜羯羅童子と制多迦童子が現れ、是害坊を見つけ追い回した。これには是害坊も為す術もなく藪の中に逃げ隠れた。
三番目は天台座主の良源であった。良源は魔訶止観を念じ、輿の左右には髪を結った護法童子たちを配していた。童子達は老僧に化けた是害坊を目聡く見つけ、殴り蹴り付けた。体中の骨を折られた是害坊は今回も何もできなかった。憐れに思った日羅坊は、満身創痍になってしまった是害坊に湯治を施した。回復した是害坊は失意のまま中国に戻ったという話である。
本場の中国から日本に渡った大天狗でも叡山の高僧に指一つ触れることなく打倒されたという話である。ここに出てくる余慶、尋禅、良源は実在の天台宗の僧である。余慶(919~991)は円珍の門流である寺門流で第20代天台座主、尋禅(943~990)は藤原師輔の十男で母は醍醐天皇皇女雅子内親王、山門派でで第19代天台座主、そして良源(912~985)も山門派で第18代天台座主で元三大師の名で知られる。現世では山門派と寺門派に分かれ激しい対立を行った3人を、「今昔物語」ではまとめて天台宗の高僧達として扱っているところに何らかの意図がある様にも思える。それはさておきとし、ここに出てくる天狗は仏敵というほどの魔力を持っている訳でもなく、簡単に調伏されてしまう可笑しな物の怪として表現されている。仏法説話の中で、天狗は仏法の優位性を教え諭すための引き立て役を担ったとも言える。

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鞍馬寺 極相林の説明
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鞍馬寺 奥の院 木の根道

「鞍馬寺 その7」 の地図





鞍馬寺 その7 のMarker List

No.名称緯度経度
赤●  鞍馬寺 金堂 35.1181135.7708
01   鞍馬寺 歓喜院・修養道場 35.1139135.7728
02  鞍馬寺 仁王門 35.1143135.7729
03   鞍馬寺 普明殿(ケーブル山門駅) 35.1147135.7726
04  鞍馬寺 多宝塔駅(ケーブル山上駅) 35.1164135.7727
05  鞍馬寺 多宝塔 35.1167135.7728
06  鞍馬寺 寝殿 35.1176135.7708
07  鞍馬寺 金剛床 35.1179135.7709
08  鞍馬寺 閼伽井護法善神社 35.1183135.7711
09  鞍馬寺 光明心殿 35.1181135.7705
10  鞍馬寺 金剛寿命院 35.1179135.7702
11  鞍馬寺 翔雲臺 35.1179135.771
12  鞍馬寺 與謝野晶子・寛歌碑 35.1181135.7696
13  鞍馬寺 冬柏亭 35.118135.7694
14  鞍馬寺 牛若丸息つぎの水 35.1177135.7691
15  鞍馬寺 革堂地蔵尊 35.1167135.7728
16  鞍馬寺 義経公背比石 35.1185135.7678
17  鞍馬寺 大杉権現社 35.1175135.7669
18  鞍馬寺 僧正ガ谷不動堂 35.12135.7673
19   鞍馬寺 義経堂 35.1201135.7673
20  鞍馬寺 奥の院魔王殿 35.1211135.7658
21  鞍馬寺 西門 35.1207135.7629

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