大黒寺
真言宗東寺派 大黒寺(だいこくじ) 2008/05/10訪問
三栖閘門を後にして京都外環状線と宇治側との間の道をしばらく歩き、竹田街道との交差点の手前で交通量の多い環状線を渡る。周囲を見渡したが信号が無いので4車線分を一気に走ることとなった。中書島駅から京阪線で丹波橋駅に出て、真直ぐ西へ歩く。市立伏見板橋小学校に突き当ったところで南に折れると下板橋通に出る。下板橋通を西に入り最初の角を南に入ると京都御駕篭郵便局が右手に現れる。これが大黒寺に続く道の確認となる。さらに20メートルくらい進むとやはり右手に大黒寺の門が現れる。初めての訪問ではなかなか見つけにくいということがどちらかのページに書いてあったが、まったくその通りである。
大黒寺は円通山と号する真言宗の寺で、開基は空海と伝えられている。もとは長福寺といわれており、桃山時代には豊臣秀吉が深く信奉したため、武家の信仰も厚かったとされている。江戸時代に入り、近くに伏見薩摩藩邸が置かれ、島津家の守り本尊「出世大黒天」と同じ大黒天が当寺に祀られていたことから、慶長20年(1615)に薩摩藩の祈願所と定められた。このため通称「薩摩寺」とも呼ばれる。
大黒寺には3つの史跡がある。
木曽川治水工事の責任をとって自害した薩摩藩家老・平田靭負の墓。
琉球貿易によって財力を得ていた薩摩藩を恐れた徳川幕府は、宝暦3年(1753)氾濫による被害が多発していた木曽三川の分流工事を命じた。さらに工事費用は薩摩藩の全額負担、大工などの専門職人を一切雇わずに行うことを条件付けた。この幕府の露骨な弾圧政策に対して、藩内は幕府との戦も辞さない状況になったが、靭負の説得により工事着手の方針が決まった。
工事には総勢947名の薩摩藩士が派遣された。過酷な労働と幕府から制限されていた食事により体力が落ち、赤痢などの蔓延によって33名が病死した。また幕府に抗議して切腹する者も続出し、51名の藩士が自らの手で命を絶つこととなった。靭負は幕府と摩擦を回避するために、抗議の切腹した藩士たちを事故死として処理してきた。このように薩摩藩は多大な人的損失を被ることで、着工より1年3ヶ月でようやく完成した。
最終的に薩摩藩が要した費用は約40万両(現在の貨幣価値で300億円以上)に達した。大坂の商家から22万298両を借入することとなった。藩へ与えた多大な人的そして経済的損害の責任を取り、平田靭負は国許へ戻らず現地で自害した。遺体は大黒寺に運ばれ葬られた。遺髪は鹿児島城下の妙国寺に埋められた。
小堀政方の悪政を直訴した伏見義民の遺髪塔。
近江小室藩の第6代藩主・小堀政方は安永8年(1779)に伏見奉行となった。藩祖・遠州、父・政峯についで、小堀家3人目の奉行となる。安永年間より天候不良や冷害により農作物の収穫が激減し、全国的な疲弊が始まっていた。そこに天明2年(1782)から7年間に渡る「天明の大飢饉」により、幕府も財政的に余裕が無くなり災害対策を理由に諸藩に対して御用金を課した。小室藩の財政状況は既に父・政峯の時代より悪化していた。これを補填するために、繁栄していた伏見の町民よりいろいろな口実を付けて御用金を課した。
伏見町民の代表である年寄役の中で、文珠九助、丸屋九兵衛、麹屋伝兵衛、伏見屋清左衛門、柴屋伊兵衛、板屋市右衛門、焼塩屋權兵衛の7人は悪政に虐げられた住民の苦難を坐視することができず、天下の禁を破って幕府に直訴した。このため、天明5年(1785)小堀政方は伏見奉行を罷免、天明8年(1788)に伏見奉行在職中の不正を理由に改易された。この罷免から改易の間の天明6年(1786)に田沼意次が失脚している。政治的には松平定信によって親田沼派と見なされ粛清の対象とされたという見方もできるだろう。
文殊九助・丸屋九兵衛・麹屋伝兵衛の3名が直訴のため江戸に上った。高齢の伝兵衛は重病に陥り、病死ししため、九助と九兵衛の2名で寺社奉行・松平伯耆守に駕籠訴を行った。政方の罷免は成ったが、吟味という名目で、関係者180余名が京都東町奉行所によって投獄された。伏見に残った4名もこの時に牢死している。そして九助と九兵衛も再び江戸へ送られ取調べ中に牢死した。政方の改易を知ることなく7人は世を去っていたことになる。
なお御香宮神社にある伏見義民の碑は明治20年(1887)100年祭として建てられたもので碑文は勝海舟、題字は三条実美である。
そして文久2年(1862)の寺田屋事件で命を落とした9人が大黒寺で葬られている。
事件の顛末は既に寺田屋で書き記してあるのでそちらをご参照ください。
深川にある陽岳寺のHPに、寺田屋事件について触れた石橋昇三郎氏の書かれた文書(http://home.att.ne.jp/wind/gakusan/yougakuji/fusimigimin/isibasijiken.html : リンク先が無くなりました )が掲載されている。陽岳寺は直訴のため江戸に上った文殊九助・丸屋九兵衛・麹屋伝兵衛の3名を匿い、病死した伝兵衛と江戸で牢死した九助と九兵衛を葬った寺である。そのため伏見義民についての記述が多くある。石橋昇三郎氏は義民・丸屋九兵衛の子孫にあたり、5月18日に子孫と関係者によって御香宮神社で執り行われる伏見義民祭に書を奉納されたことが京都新聞(2008/05/17)(http://kyoto-np.jp/article.php?mid=P2008051700081&genre=K1&area=K1I : リンク先が無くなりました )で取り上げられていた。2008年の伏見義民祭が220回目の節目にあたるという記事から想像できるように欠かすことなく、義民の遺徳を偲んできた。
石橋氏の文書は「田沼意次失脚の一要因についての一考察」というサブテーマがつけられているが、この最後の部分で次のようなことに触れている。京町筋一丁目の呉服商・井筒屋(現在は斎藤酒造)は大黒寺の檀家総代であった関係から、寺田屋事件の当日、薩摩義士の遺骸にサラシを巻き大黒寺に埋葬したこと。また百年も続いて薩藩九烈士・木曾川薩摩義士平田靭負・伏見義民の合同追慕慰霊法要を大黒寺で執り行ってきたこと。
歴史の上では寺田屋事件を、急進派の突出と薩摩藩による粛清と説明することもできるが、伏見の歴史を護ってきた伏見の町人にとっては彼等も時代の義に殉じた人々として受け入れられてきたことが確認できた。
小雨の中、すでに18時を回っていたため境内には誰もいなかった。門を入って左側に石碑が数本立っていたのでこれを撮影した後、墓地がどこにあるか探した。お堂と庫裏?の間に通路があり、その奥に墓地と保育園があった。墓地の最前面に九烈士の墓が一列に並んでいた。墓石はつい最近直されたようで、真新しいものだったため、しばらくこれが九烈士の墓だとは気がつかなかった。
今回は訪問できなかったが大黒寺の真向かいにある松林院の墓地には寺田屋六代目女将・お登勢の墓もあるらしい。
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