祇園・先斗町の町並み
祇園・先斗町の町並み(ぎおん・ぽんとちょうのまちなみ) 2008/05/12訪問
都ホテルから三条通を西に歩き、鴨川を渡り、橋詰を南に下ると先斗町に入り込む。夕食の店を探しながら細い道を2往復した。夕食後、祇園界隈を散策する。
先斗町は鴨川と木屋町通の間にある花街で、町と付くが正式な地名ではない。三条通一筋下ルから四条通までの鴨川と木屋町通の間を南北に走る石畳の狭い通りである。
もともとは鴨川の中洲で、江戸時代初期に護岸工事で埋立てられ、新河原町通と呼ばれていた。この地に水茶屋が現れたのは正徳2年(1712)の頃といわれている。高瀬川を上り下りする高瀬舟の船頭や旅客目当ての旅籠屋が茶立女を置いていた。すぐに芸妓、娼妓が居住するようになり何度も取り締りが行われた。先斗町は川端二条にあった二条新地の出稼ぎ地とされていた。
寛政2年(1790)島原のほか、祇園・二条新地・七条新地・上七軒に遊女屋営業が許可された。そして安政6年(1859)に先斗町にも許可が下り、明治時代には祇園と並ぶ花街となった。明治5年(1872)には鴨川をどりが初演された。先斗町歌舞練場は北の端にある。
先斗町の語源は、ポルトガル語の先の意味であるPONTからきていると言われている。また東に鴨川、西に高瀬川に挟まれた地であるため、二重の皮(=川)を張った鼓を叩くとポンと音がするのでポント町の名が生まれたとも言われている。
祇園は、京都というよりは日本を代表する歓楽街である。八坂神社の項で触れたように、この地は江戸時代までは祇園社と呼ばれた八坂神社の門前町として鴨川から東大路通までの四条通沿いに発展してきた。現在、東は八坂神社、南は建仁寺、西は鴨川付近、北は新橋通あたりまでの地域を祇園と呼ばれている。寛政2年(1790)祇園は、島原や二条新地、七条新地、上七軒と共に遊女屋営業が許可され、京都有数の花街である。格子戸の続く家並みは、往時の花街の雰囲気を残してはいるが、現在は茶屋や料亭の他にもバーや比較的安価なお店も入ってきているようだ。北の新橋通から白川沿いの地区は国の重要伝統的建造物群保存地区に選定され、南の花見小路を挟む一帯は京都市の歴史的景観保全修景地区に指定されている。南座も鴨川沿いの祇園にある。
さて白川南通あたりで深夜の徘徊を終え、ホテルに帰るためのタクシーを拾った。幸運にも四つ葉のタクシーだった。
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