龍安寺
臨済宗妙心寺派 龍安寺(りょうあんじ) 2008/05/14訪問
鹿苑寺の黒門を出て、金閣寺前の停留所から京都市営バス59号に乗り、きぬかけの道を西に向いおよそ10分くらい進む。3つ先の龍安寺前で下車し、参道を北に入っていくと龍安寺の山門が現れる。総門は龍安寺前の停留所より南側にあるため、きぬかけの道によって境内を分断された形となっている。山門潜ると左手に鏡容池が広がる。
鹿苑寺は臨済宗妙心寺派寺院で山号は大雲山。平成6年(1994)に世界遺産に登録される。
永観元年(983)円融天皇はこの地に円融寺を勅願寺として創建した。翌年、円融天皇は花山天皇に譲位し、朱雀院上皇となる。寛和元年(985)上皇は出家し、これ以降円融寺に居住する。正暦2年(991)法皇は没し、陵墓は円融寺に営まれた。
法皇没後の円融寺は、次第に衰退していき、平安時代末になると左大臣 藤原実能が円融寺址に山荘を建てた。藤原実能は藤原北家支流の公家の一門 閑院流に属している。閑院流は藤原道長の叔父 閑院大臣藤原公季に始まる。閑院とは北家繁栄の基礎を築いた藤原冬嗣の邸宅を意味する言葉であり、公季がこれを伝領し住んだことによっている。また閑院は平安末期から鎌倉初期にかけては里内裏としても使用された。実能は閑院流の5代目藤原公実の四男にあたり、兄弟は三条家・西園寺家を興している。実能の徳大寺を含めて七清華家と呼ばれるうちの3つは公実の子達から始まっている。清華家は最上位の摂家に次ぎ、大臣家の上。近衛大将・大臣を兼任し、最高は太政大臣まで昇進できる家格である。ちなみに幕末の三条実万・実美親子はこの三条家の流れである。 この山荘の中に持仏堂を造り徳大寺または得大寺と命名したのが、久安3年(1147)と考えられている。そのため実能は徳大寺左大臣と称されるようになり、後の徳大寺家の祖となった。現在私たちが見ることの出来るこの時代の遺構は鏡容池であると考えられている。
室町時代に入り、宝徳2年(1450)細川勝元は徳大寺家から山荘を譲り受けた。
細川勝元は永享2年(1430)細川持元の弟である細川持之の嫡男として生まれる。嘉吉2年(1442)父が死去したため、13歳で家督を継承し、摂津国、丹波国、讃岐国、土佐国の守護職となった。文安2年(1445)畠山持国に代わり、16歳で管領職に就任する。徳大寺家の山荘を譲り受けたのは勝元が20歳の時だった。この時期勝元は管領職から外れている。再び管領職に就くのは享徳元年(1452)のことである。また足利義政が元服を迎え正式に8代将軍に就任したのは、この前年の宝徳元年(1449)である。
守護大名 畠山氏内部の家督争いに対する将軍家の調停失敗に端を発し、応仁元年(1467)応仁の乱が勃発する。細川勝元は東軍、山名宗全は西軍の大将として対峙し、この後10年間に渡り戦は続き、京都を焼き尽くすだけに収まらず、ほぼ日本全国に戦火は拡大した。
龍安寺の創建はまだ応仁の乱の始まる前のことである。細川勝元は妙心寺の義天玄承を招請し開山した。玄承は師 日峰宗舜を開山とし自身は2世とした。玄承は正長元年(1428)尾張国犬山の瑞泉寺で日峰宗舜から印可を受けている。また師の宗舜は永享元年(1429)当時荒廃していた妙心寺に請われて入寺し、養源院などを建てて妙心寺の復興に尽力している。文安4年(1447)勅命により大徳寺の住持となったが、翌文安5年(1448)妙心寺養源院で没している。すなわち龍安寺が創建された時には、宗舜は既に亡くなっていたこととなる。玄承は己の木像を作って安置することを禁じ、寛正3年(1462)に亡くなる。師の宗舜が黄衣であるのに、自分が紫衣勅許の姿となるのを避けたのである。そのため門弟は木像と同じ高さの位牌を作り安置した。
創建当初の寺地は広く、京福電鉄の線路のあたりまでが境内であったという。今でも京福電鉄北野線 龍安寺駅から、きぬかけの道にかけて龍安寺の名前の付く町名が残っている。
この後、開基細川勝元自身が当事者であった応仁の乱で焼失する。文明17年(1485)勝元の13回忌が勝元の子の細川政元によって執り行なわれた。そして政元と4世住持・特芳禅傑により龍安寺再興に着手したのが、乱の終結から10年経った長享2年(1488)のことであった。龍安寺の公式HPでは、
「明応8年(1499)には方丈が建立され、石庭もこの時に築造されたと伝えられています。」
と記されている。
天正16年(1588)2月24日 蒲生氏郷と前田利家らを連れ、洛北に鷹狩りに来た豊臣秀吉は龍安寺を訪れ、方丈のしだれ桜を鑑賞し歌を残している。この時秀吉は鳥獣伐木を制する禁礼を立て、その上で、
一 当寺近辺において五位鷺のことを申すに及ばず、雉をも一切、鷹使うべからずこと
一 山林竹等掘り取るべからざること
一 庭の石、植木以下とるべからざること
右の条々堅く停止を令す。もし違背のやからはただち厳科に処すべきなり
と命じ、住職に金椀を与えたと言われている。
最盛期には龍安寺には21の塔頭があったという。しかしこれらの塔頭のうち現存するものは鏡容池の北岸に並ぶ、霊光院、大珠院、西源院の3か寺であり、龍安寺を含めて妙心寺の境外塔頭となっている。
慶長2年(1606)西源院本堂が建立される。寛政9年(1797)出火により方丈、仏殿、開山堂を失う。この火災以降に西源院の本堂を龍安寺に移すこととなる。
方丈南庭は三方を高さ1800ミリメートルの杮葺の土塀に囲まれている。油土塀と呼ばれる塀は赤土に菜種油を混ぜ入れ練り合わせて作られている。通常の土塀より強度が高く、耐候性にも優れている。寛政9年の火災にもこの土塀は焼け残ったと言われているが、その影響か黒ずんだ場所も多く、上塗り壁が剥落して中の土壁が露出している。その景色が山水画の朦朧とした遠景にも見えてくる。現在の油土塀は、その奥の枝垂桜を含めた借景と一体化するとともに、この300平方メートルの閉鎖された空間の求心力を高める役割を果たしている。もしこの塀が瓦葺の白い築地塀だったならば、見るものにかなり異なった印象を与えていただろう。それだけに油土塀はこの南庭にとって重要な構成要素となっている。
油土塀の中は白砂が敷き詰められている。しかし平面図を見ると西側の塀と庭との間には、方丈西側から延びる緩衝帯が入っている。そのため、土塀で囲まれた空間より、僅かであるが白砂が敷き詰められた部分は小さくなっている。この箒目の付けられた白砂の上に大きさの異なる15の石が5つの群に分かれて置かれている。それぞれの群には左から5・2・3・2・3個の石で構成される。群内での石の配置、そして群間の有機的な結びつきと微妙なバランス感覚が龍安寺の石庭の真髄とも言える。
古来よりこの庭は、虎の子渡し、七五三の配石、心の配石、扇型配石などと呼ばれ、近年では枯山水を代表する庭園とされている。しかしこれが同時代の類似する様式の一つの頂点かと言うとどうも違うらしい。小野健吉氏の「日本庭園 空間の美の歴史」(P138~140)では桂氏庭園と妙心寺東海庵に類似点を見出すに過ぎないとしている。かなり奇異な存在であることをまず認識することが重要である。小野氏は江戸時代に流行した盆景との類似性を指摘している。盆景とは白砂や小石そして植物を使い、ミニチュアな風景を浅い盆の上に再現するものであり、いわゆる箱庭である。確かにこの庭を見て、表現できないが感じていたことがここにあったような気がする。それは造られ方ではなく出来上がったものに感じる類似性である。実寸大の模型を見せられた時の感じにも似ている。
さて龍安寺の石庭は誰が、どのような意図で作庭したのか?現在でも明確な回答が出されていない。龍安寺の公式HPには作者と思われる人々の名前が連なっている。義天玄承、細川勝元、相阿弥、細川政元、金森宗和。そして庭石の裏には「小太郎・□二郎」という山水河原者と思われる名も彫られている。
宮元健次氏の「[図説]日本庭園のみかた」(P131~135)では、2つのポイントに着目して推測している。
第1のポイントは禅寺の方丈南庭の使われ方についてである。方丈南庭は儀式を行うための庭で、そこに石を置くことが室町時代には許されていなかった。これが変わるのは元和5年(1619)以心崇伝が僧録司に任命された後と考えている。僧録司は僧侶の登録、住持の任免などの人事を統括した役職であり、以心崇伝は臨済宗の禅寺に対して巨大な影響力を持つこととなった。崇伝は方丈前庭が儀式の場所として意味がなくなっている現状を考え、寺院諸式を改正したとしている。崇伝自身も小堀遠州を使い、南禅寺方丈そして金地院に石庭を造らせている。南禅寺方丈は慶長16年(1611)に女院御所の殿舎を移建したと言われていることから、庭は寛永年代(1624~1643)の初期までに造られたと思われる。宮元氏は同じく「[図説]日本庭園のみかた」(P128)の中で寛永6年(1629)としている。また金地院の方丈庭園の作庭は寛永7年(1630)に行なわれたことは崇伝の日記 本光国師日記に記されている。そのため京都五山の別格に位置する南禅寺以外の禅寺の南庭が観賞用の庭園に変化していったのはこの時期以降のことと宮元氏は考えている。その上で、先に触れた天正16年(1588)の秀吉の来訪時には、まだ石庭がなかったため、歌に残らなかったと推測している。 また国立公文書館に所蔵されている龍安寺方丈前庭之図が江戸時代初期に作成されていることから、寛政9年(1797)出火以降ということも考えられない。その上で宮元氏は作庭時期を元和5年(1619)からおよそ50年間に絞り込んでいる。
第2のポイントは、龍安寺方丈庭園には黄金比を用いた平面的構成や遠近法の手法が見られる点である。宮元氏の「[図説]日本庭園のみかた」のP133には南庭を分割した図が掲載されている。この図を元に描き起こしたのが図-1である。
方丈の庭園の奥行き(南北方向の長さ)を1とすると間口は1/1.618+1.618の2.236となる。庭の右手側(西側)に1:1.618の長方形を設定し、その対角線を描く。この長方形の左側に2番目の長方形を描くと、これも1:1/1.618 すなわち 1.618:1となる。さらに対角線を引くと、三角形ABCが現れる。この三角形の2辺、直線ABと直線BCの関係も1.618:1となる。この石庭に置かれた15個の石は5つの群に分けることができる。宮元氏はこの5つの群が直線AB、BC、CD、EFの4つの線上にあることに着目している。
パースペクティブについては、西の築地塀の軒は南に向かって下がり、それに対して庭面は北に向かって下がっている。これにより方丈から庭を眺めた時、実際の奥行きより遠くに見えるように行なわれた。また庭面は西から東に向かっても下がっている。これは方丈に渡る東側の廊下より、最初にこの庭を見た時に実際より深い距離感を与えるために工夫された。庭面に勾配は排水のために設けられたようにも思われるが、方丈側に雨水を集めることは建築的にも行なわないことであるため、宮元氏の指摘通り意図して行なわれたのであろう。
宮元氏はこの2つのポイントに加え、借景等の高度な伝統技法を持ち、他にも多くの作庭を行なったエキスパート、そして新しい禅宗寺院制度の中で斬新な作庭が許される人物像から小堀遠州に辿りついている。
演劇の世界には八百屋舞台と呼ばれるものがある。八百屋さんの店前には野菜が段状に置かれている。後ろの野菜もよく見えるような工夫である。バレエなどでも八百屋舞台が用いられる。足元の動きがよく見えるために3%程度の勾配がかけられていると聞く。龍安寺の石庭も経験則から導き出された工夫の一つであった可能性もある。特に東西方向の庭面の勾配は遠近法的にどのくらいの効果があるか疑問である。1:2.236の縦横比だけで十分な深さを感じさせると思う。もともと黄金比も経験則から導き出されたものである。それが西洋から導入されたと考えないで、もう一度この庭を見てみると案外無名な工人が長い時間をかけて創り出したものであるかもしれない。むしろそのようなものをこの庭に望む。
方丈の北庭には水戸光圀公寄進の蹲踞の複製が置かれている。オリジナルは方丈東庭の奥にある茶室蔵六庵の露地にある。吾唯知足という禅の格言が書かれた銭型の蹲踞。また、豊臣秀吉寄進の侘助椿がある。
方丈の西には昭和56年(1981)に建立された仏殿があり、本尊の釈迦如来が安置されている。昭和57年(1982)に復元された西の庭は細川廟があり、細川勝元の木像と共に、細川家歴代管領の位牌が祀られている。
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