西行庵 芭蕉堂 大雅堂跡
西行庵 芭蕉堂 大雅堂跡(さいぎょうあん ばしょうどう たいがどうあと) 2008年05月16日訪問
高台寺を出てねねの道を北に向かい、祇園閣のある大雲院の突き当りを右に曲がり円山公園に至る間に、西行庵、芭蕉堂そして大雅堂跡という文人・画人の住居跡やその足跡を偲ぶものが並んでいる。安養寺の六阿弥の也阿弥がホテルになり、正法寺の塔頭の叔阿弥が翠紅館に代わって行く経緯や、京都画壇を代表する竹内栖鳳の邸宅跡も残るように、この地は風光明媚で遊興に適した場所であったことが分る。
平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武士、僧侶そして歌人である西行は、永元年(1118)左衛門尉佐藤康清の元に佐藤義清として生まれている。父は秀郷流武家藤原氏の出で、藤原秀郷の8代目の子孫となる。代々衛府に仕える裕福な家庭であったと考えられている。西行も16歳の頃より徳大寺家に仕え、保延元年(1135)18歳で左兵衛尉に任ぜられている。そして同3年(1137)鳥羽院の北面の武士としても奉仕していたことが記録に残る。保延6年(1140)23歳で出家して円位を名のり、後に西行とも称した。
西行が出家するに至った動機は明らかになっていない。白洲正子の「西行」、瀬戸内寂聴の「白道」、辻邦生の「西行花伝」など、いくつかの失恋説もあるようだが、西行物語絵巻では親しい友の死に無常を感じ北面の武士を辞したと記されている。
出家後の西行は諸国をめぐりながら住処を定めず、諸所に草庵を営み多くの和歌を残している。
最初は鞍馬などの京都北麓に隠棲し、天養初年(1144)頃 歌枕を訪ねる奥羽への旅に出ている。久安4年(1149)頃には高野山に入り、ここを拠点として諸国を遍歴している。仁安3年(1168)中四国への旅を行っている。このとき善通寺において庵を結んだとも考えられている。その後、再び高野山に戻るも、治承元年(1177)に伊勢二見浦に移っている。
この治承元年は鹿ケ谷の陰謀が発覚した年であり、同3年(1179)には平清盛が後白河院政を停止する治承三年の政変も起きている。平氏の勢力拡大に伴う不平が大きくなり始めた頃とも言える。治承5年(1181)に清盛が64歳で没し、元暦2年(1185)の壇ノ浦の戦いで平氏は滅亡する。この間、西行は伊勢に疎開していたと考えられている。
文治2年(1186)には東大寺勧進のため二度目の奥州下りを行い、伊勢で暮らした後、河内弘川寺に最後の庵を結ぶ。そして建久元年(1190)72歳で入寂している。
雙林寺の公式HP(http://www.sourinji.com/modules/pico/index.php?content_id=6 : リンク先が無くなりました )では、「山家集」(上、冬歌)にある
野辺寒草といふことを双林寺にてよみにける
「さまざまに 花咲きけりと見し野辺の 同じ色にも霜枯れにけり」
という一首より、出家の翌年となる永治元年(1141)から、雙林寺の塔頭である蔡華園院に止住していたとしている。
また、「山家集」(上、春歌)にある有名な歌
「願わくば 花の下にて春死なん その如月の望月の頃」
も、晩年雙林寺で庵をむすび修行に明け暮れたことになっており、その庵前の桜のもとで詠まれたのではないかとも推測している。
西行庵のもととなる建物は、天正年間(1573~1593)蔡華園院の跡地に建立されたとされているが、正確な場所は分からない。その後、享保21年(1731)に摂津池田李孟寺の天津禅師により、現在の地に移築再興され、明和7年(1770)冷泉為村が修繕を行っている。為村は冷泉家中興の祖とされている江戸時代中期の公家であり、歌人でもある。
堂中央には、為村筆の「花月庵」と書いてある横額が掲げてある。当時は西行庵という名称ではなかったようである。
安永9年(1780)に刊行された都名所図会の雙林寺の図会には西行庵として描かれている。 その後、明治26年(1892)宮田小文法師によって、隣接するお茶席(浄妙庵と皆如庵)が移築され、現在の状態となった。今回は中に入ることができなかったが、京都史蹟会と三宅安兵衛遺志が建立した西行法師蔡華園院旧蹟の碑が建てられている。
京都にはこの西行庵以外にも、西行の遍歴を辿る旧跡が残されている。
嵯峨二尊院内に西行法師庵の跡を示す碑が残されている。西行はこの二尊院門前近くに庵を結んでいた。またこの嵯峨から桂川を渡り南に下った嵐山山田町の西光院前にも西行法師旧跡の碑が建つ。
西行庵の西隣りに芭蕉堂がある。芭蕉堂は、加賀の俳人高桑闌更が芭蕉を偲ぶため、ゆかりの深いこの地に天明6年(1786)に営んだことに始まる。
芭蕉は、寛永21年(1644)伊賀国の松尾与左衛門の次男として生まれている。もともと松尾家は農業を生業としていたが、苗字を持つような家柄であった。若くして伊賀国上野の侍大将である藤堂新七郎良清の嗣子・主計良忠に仕えている。芭蕉は、この2歳年上の良忠とともに北村季吟に師事して俳諧の道に入っている。しかし寛文6年(1666)良忠が没すると仕官を退いている。
その後、芭蕉は寛文12年(1672)に江戸に下り、延宝8(1680)年に深川の芭蕉庵に遷るまでの数年の間に、何らかの形で神田上水の工事に関わっていたと考えられている。俳句の芭蕉からは土木技師の姿は想像しづらい。目白台から江戸川橋の間の関口には関口芭蕉庵が残されている。ここは、芭蕉が上水工事に携わった間、起居していた場所と考えられている。
延宝6年(1678)に宗匠となり職業的な俳諧師となる。延宝8年(1680)深川に草庵を結が、天和2年(1682)いわゆる八百屋お七の火事(天和の大火)で庵を失う。元禄2年(1689)河合曾良を伴い、5ヶ月間にわたる「奥の細道」の旅に出る。そして元禄7年(1694)大坂御堂筋の旅宿で客死する。51年の人生であった。
かつて東山には阿弥陀房という上人が庵を結び、暮らしていた。西行はここを訪れ、
「柴の庵と聞くはくやしき名なれども世に好もしき住居なりけり」
という歌を山家集に残している。後の時代にこの地を訪れた芭蕉は、先の西行の歌を踏まえて、
「しばの戸の月やそのままあみだ坊」
の一句を詠んでいる。
寛政7年(1795)の夏、小林一茶は高桑蘭更を芭蕉堂に訪問して歌仙を巻いている。
西行庵と芭蕉堂の北側、円山公園に向かう道の東側に大雅堂旧跡の碑が残されている。ここには江戸中期の画家・池大雅を記念する大雅堂があった。
池大雅は享保8年(1723)京の銀座の下役の子として生まれている。もともとの生家は北山深泥池村で代々農業を営んでいたといわれている。若くして絵を志し、30歳頃に祇園茶店の娘町・玉瀾と結婚し,この真葛原に草庵を結び、夫妻ともに画業に励んできた。後に柳沢淇園に才能を見出され、中国文人画を伝えられ、与謝蕪村とともに日本の南画の大成者とされている。
大雅と玉瀾の没後、その門人たちの手により、秀吉の正室であった北政所の甥に当たる木下長嘯子(木下勝俊)の歌仙堂の遺構を霊山より大雅ゆかりのこの地に移し、遺品や書画を収めた大雅堂とした。このあたりの経緯は天明7年(1787)に刊行された拾遺都名所図会でも詳しく記述されている。大雅は安永5年(1776)に53歳で没している。そしてこの図会はその11年後に刊行されたこととなる。
大雅堂は明治36年(1903)円山公園の拡張に伴い取りこわされる。大雅と玉瀾の遺品もまた散失したが、幸い一部は雙林寺に、また大雅堂に安置されていた大雅念持の観音像や「大雅堂」の扁額等は西芳寺のすぐ近くに建つ池大雅美術館(http://www.kyoto-np.co.jp/article.php?mid=P2009112800086 : リンク先が無くなりました )に保存されている。
大雅の作品としては国宝にされている十便十宜図の釣便が有名。この十便十宜図は、清の劇作家李漁が、別荘伊園での隠遁生活の便利さと宜しさをうたった詩をもとにし、明和8年(1771)に大雅が十便帖、与謝蕪村が十宜帖を描き、合作した画帖である。大雅は、李漁の云う十の便利さを絵画化することにより、自然と共に生きる人間の豊かさを表現している。
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