引接寺
高野山真言宗 光明山歓喜院 引接寺(いんじょうじ) 2008年05月19日訪問
建勲神社の白木の鳥居を出て、再び船岡東通を南に進む。しばらく進むと北東から南西に走る鞍馬口通に出会う。この道を進み、千本鞍馬口の交差点に出る。引接寺はこの交差点の一本南にある廬山寺通の先にある。
通称の千本閻魔堂の方で知られている引接寺は、高野山真言宗に属する寺院で、号は光明山歓喜院引接寺。元は蓮台野という葬送の地に開かれ、古くよりお盆、精霊迎えの根本霊場として知られてきた。開基は小野篁、開山は寛仁元年(1017)定覚とされている。寛政11年(1799)に刊行された都林泉名勝図会には、引接寺の図会が残されている。そして起源を
釈源信僧都弟子定覚はじむ
としている。
六道珍皇寺の項で触れたように、小野篁は平安時代前期の官人、学者そして歌人である。遣隋使を務めた小野妹子の子孫で、孫に三蹟の一人小野道風がいる。延暦21年(802)に参議小野岑守の子として生まれている。若年の頃、弓馬をよく行ったが、後に発奮して学業に励むようになる。弘仁13年(822)文章生に補せられ、大内記・蔵人を経て、天長9年(832)従五位下に叙せられる。 承和元年(834)遣唐副使に任ぜられるが、承和5年(838)に正使である藤原常嗣と諍いを起こし、乗船を拒否する。その上、朝廷を批判する詩を作ったため嵯峨上皇の怒りを買い、官位剥奪され隠岐へ配流される。しかし承和7年(840)許されて帰京し本位に復する。
承和14年(847)に参議となり公卿に列せられる。仁寿2年(853年)従三位に叙せられるが、まもなくして薨じる。享年51であった。篁の文才は天下無双と称されるものであったが、一度配流されたにもかかわらず再び官位に復せたのは、法理に明るく政務能力に優れた優秀な官僚であったからであろう。
小野篁は、昼は宮仕えをし、夜は冥府で閻魔大王の傍らで冥官を務めていたという話しが広く伝えられている。平安時代末期に中納言大江匡房の談話を藤原実兼が筆記した説話集・江談抄に「野豊為閻魔庁第二冥官事」と記されているのを始め、今昔物語集には「小野篁、依情助西三条大臣語第四十五」、三国伝記にも「小野篁事」で触れられている。
そして六道珍皇寺の本堂の背後には、小野篁が冥府への入口にしたといわれる井戸がある。篁が冥府から帰って来る井戸は、大覚寺門前六道町辺りにあった福生寺の井戸と伝えられる。つまり東の葬祭地・鳥辺野にある六道珍皇寺から入り、西の葬送地にある化野の福生寺から出てくることになる。そのため珍皇寺の井戸を”死の六道”、福生寺の井戸を”生の六道”と称していたと言われている。
東の葬送地・六道珍皇寺、西の葬送地・福生寺とともに、北の葬送地にあたる蓮台野の入口にある引接寺が、閻魔大王の冥官・小野篁と深い関係があっても不思議ではない。特に篁は、精霊を現世に迎える秘法を学んだとされ、それを衆生に伝えるために堂を建てたのが引接寺の始まりとされている。葬送の地に相応しい由来である。平安初期の寛仁元年(1017)恵心僧都源信の法弟にあたる定覚上人が引接寺と命名して開山している。本尊は閻魔法王で、現在の像は応仁の乱で焼失した後に長享2年(1488)仏師・定勢の作とされている。本堂は昭和49年(1974)不審火によって狂言堂や狂言衣装とともに焼失している。
境内には沢山の石仏像が祀られている。西北の隅には雲林院塔頭・白毫院から移された高さ6メートル余りの石造十重の紫式部供養塔がある。重要文化財に指定されている供養塔は南北朝時代の至徳3年(1386)に紫式部の不遇な生涯を弔い圓阿上人が建立されたという。この塔の元あった白毫院には式部墓所と小野篁墓があったと言われ、堀川北大路交差点から南へ少し下がって島津製作所傍らに残されている。
引接寺には六斎念仏が残されている。平安時代、空也上人が始めたとされる踊念仏がその始まりと伝えられ、民衆に仏教を広めるため六斎日に市中各所で鉦や太鼓を打ちながら念仏を唱え踊っている。「京都の六斎念仏」は、昭和58年(1983)に重要無形民俗文化財の指定を受けている。現在、京都市内には二つの系統をあわせて十数グループの六斎念仏保存団体がそれぞれ特徴のある六斎念仏を継承している。
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