東福寺 龍吟庵
東福寺 龍吟庵(とうふくじ りゅうぎんあん) 2008年11月22日訪問
2008年秋の特別拝観を見るため、6時発の新幹線で東京を出て京都を訪れる。京都駅の八条口より徒歩で東福寺に向う。新幹線からJR奈良線に乗り換えて東福寺駅で下車することも可能だが、乗り換えの時間を考えると歩くのとそれ程変わらないので、今回は歩いて東福寺に行くこととした。東洞院通の京都駅から先の部分は竹田街道とされているが、この道を南に下り九条通を東に入る。
鴨川に架かる東山橋を渡ると、JR奈良線と京阪電鉄の東福寺駅の踏み切りが現れる。丁度電車が到着したようで、大量の乗客が下車するのを見かけた。そのほとんどの人が東福寺を目指して歩いていく。既に紅葉も終わりに近づいているものと思っていたが、東福寺の洗玉澗の楓の紅葉を目当てとした観光客がこれほど多いとは知らなかった。
北門から入り霊源院の前の太い道を進み、退耕庵の前を曲がるあたりから縦列が形成され、進みも遅くなる。さらに進み月下門あたりに達すると何が起こっているか分かる。臥雲橋の上が、通天橋を背景とした洗玉澗の紅葉を見る絶好の場所となり、橋の上に多くの観光客が立ち止まりを禁じていているにも関わらず写真撮影をしている。確かに臥雲橋からの眺めは、東側からの朝日が逆光になるものの、葉の裏から光を通して美しく見える時間帯でもある。それを良く知っている人々が、9時前の東福寺に押しかけたのであろう。この時期の東福寺は8時開門、8時30分より拝観受付を開始しているため、朝早く来ないと通天橋を渡るのにかなり待たされるようだ。東京から一番早い列車に乗車してもこの時間になるから、京都に宿泊しない限り早く来ることは無理だろう。
中央の日下門から境内に入り、方丈と通天橋の前の広場を見ると、今まで東福寺の境内で見たこともないほど多くの人が既に集まっていた。それは修学旅行よりも更に多く、初詣を思わせる。
方丈と本堂の間を抜け、目的の龍吟庵へ急ぐ。突き当りにある旧鹿児島藩士招魂碑を示す道標にも即宗院の公開を知らせる看板が立てられている。この招魂碑自体は即宗院の境内にあるため、その道標も即宗院の管理下にあるのだろう。この光景に違和感を覚えながら左折れると、正面に架かる偃月橋にも大きな看板が立てられている。ここまで親切に遣らなくてもという感じである。確かに東福寺の境内図を理解していないと方丈の奥に龍吟庵と即宗院があることに気がつかないかも知れない。龍吟庵も即宗院も通常は非公開の塔頭であるため、この道はいつも人通りが少ない。 偃月橋は桁行11間、梁間1間、単層切妻造の桟瓦葺の屋根を持つ木造橋廊で重要文化財に指定されている。普段はこの橋と洗玉澗を見るものしか訪れないが、この日は両塔頭とも公開されているため人出は多い。
龍吟庵は、東福寺三世大明国師の最晩年の住房とされていた。正応4年(1291)に国師が遷化すると塔所となり、東福寺塔頭の第一位に置かれるようになるが、近代に入ると荒廃したとされている。寛政11年(1799)に編纂された都林泉名勝図会では、多くの塔頭について詳細な記述があるものの、龍吟庵については偃月橋の位置を説明するための「方丈と龍■即宗の間にあり。」以外は残されていない。このあたりが上記の荒廃と関係しているのだろうか?
無関普門禅師(大明国師)は建暦2年(1212)に信濃国に生まれ、13歳で越後国正円寺において出家する。19歳の時に上野国長楽寺で栄朝禅師から菩薩戒を受け、栄西禅師から受け継がれた禅を学ぶ。関東や北越の講席を遊歴した後、東福寺の円爾禅師に参禅する。その後、建長3年(1251)宋に渡り、弘長元年(1261)の帰国までの約10年間 浄慈寺の断橋妙倫に参禅する。ここにおいて断橋禅師の法を嗣ぎ、禅の深興に達する。帰国後、禅師は再び正円寺に戻り、静かに坐禅三昧の時を過すが、弘安3年(1280)東福寺円爾禅師が病気であることを知り、既に70歳に達してはいたが上洛する。同年、円爾禅師は遷化し、その後を継いだ第2代住持も数ヶ月で退任したため、弘安4年(1281)東福寺第3世住持に迎えられている。
正応4年(1291)亀山上皇が離宮禅林寺殿を南禅寺に改め、無関普門禅師を開山として迎えるが、この年の12月12日に龍吟庵で遷化されている。この後、南禅寺は翌5年(1292)に上皇によって選任された第二世規庵祖圓禅師(南院国師)によって伽藍造営が始められたため、無関普門禅師の南禅寺住持としての期間があまりにも短いため開山としての業績が残されなかった。しかし暦応2年(1336)虎関師錬禅師が南禅寺第15代住持に就任すると、朝廷に上奏し開山塔建立の勅許を請うている。光厳上皇の勅許を得るとともに、塔を霊光、庵を天授と名付ける勅状を賜り、翌暦応3年(1337)に開山塔の建立がなされ、天授庵が開創した。無関普門禅師の死去から46年の後のことである。
亀山上皇と無関普門禅師との間には、離宮禅林寺殿に現れる駒僧正の怨霊の話しが残されている。南禅寺の公式HPの中に掲載されている「南禅寺の歴史」にも、「文応皇帝外紀によれば、まもなく離宮に妖怪な事が起こりました」と事件の記述が見られる。そして「無関禅師は雲衲(修行僧)と共に離宮に留まり、坐禅・掃除・勤行と、禅堂そのままの生活を送られただけで妖怪な事は終息してしまいました。」と続く。無関普門禅師が駒道智大僧正の怨霊を退治したこととなる。
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