安楽寺 その2
浄土宗住蓮山 安楽寺 (あんらくじ) その2 2008年11月22日訪問
霊鑑寺門跡の石段を下り、道を北に進むと右手に安楽寺の大樹と石段、その上に建つ萱葺きの山門が現れる。
安楽寺は2008年5月に訪れたが、霊鑑寺と同様に非公開のため山門の写真を撮影し、中の様子を伺うだけであった。こちらの寺院も春と秋に特別公開が行われる。春は桜、躑躅、皐の美しい時期に土日と祝日のみ公開される。夏は7月25日に行われる鹿ケ谷カボチャ供養の日、そして秋は紅葉の11月から12月初旬の土日、祝日に公開される。前回の5月の訪問は丁度、躑躅と皐の間の日だったのかもしれない。
鎌倉時代の始め、浄土宗の開祖・法然上人には住蓮房と安楽房遵西の弟子がいた。2人は鹿ケ谷草庵を結び、六時礼讃の念仏会を行っていた。安楽房遵西は音楽的な才能に恵まれていたようで、住蓮とともに六時礼讃に曲節を付け、念仏の信者たちに合唱させることで専修念仏の普及に大きな役割を果たした。専修念仏とはただひたすら南無阿弥陀仏を唱えることで西方極楽浄土へ往生することができるという教えである。
元久元年(1204)比叡山の衆徒は専修念仏の停止を訴える延暦寺奏状を天台座主真性に提出している。その翌年には興福寺の僧徒も興福寺奏状をまとめ、朝廷に専修念仏停止の訴えを出している。法然や親鸞に対する弾圧は、この時点ではまだ行われなかった。
建永元年(1206)後鳥羽上皇が熊野行幸中に、上皇が寵愛する松虫と鈴虫という女官が、御所から抜け出して鹿ケ谷草庵で行われていた念仏法会に参加する。松虫と鈴虫は住蓮房と安楽房遵西に出家を懇願し剃髪を行ってしまう。
建永2年(1207)松虫と鈴虫が尼僧となった事を知った後鳥羽上皇は憤怒し、専修念仏の停止を決定するとともに、住蓮房を六条河原において、安楽房を近江国馬渕において斬首に処している。
上皇の怒りはこれだけに留まらず、法然は土佐国番田へ、親鸞は越後国国府への配流されることとなる。知恩院の項でも触れたように、既に74歳と高齢だった法然は、土佐まで赴くことはなかった。九条兼実の庇護により領地の讃岐国に配流地が変更され、この地で10ヶ月ほど布教している。香川県高松市にある仏生山来迎院 法然寺は、法然が立ち寄った小松荘生福寺の跡地に、寛文8年(1668)高松藩初代藩主松平頼重が菩提寺として開創した寺院である。 その後、法然に対し赦免の宣旨が下るも入洛は許されず、法然は摂津の勝尾寺で滞在する。ようやく建暦元年(1211)11月、法然に入洛の許可が下り帰京する。その2ヵ月後の建暦2年(1212)1月25日、東山吉水で死去する。この一連の専修念仏停止に伴う弾圧は承元の法難と呼ばれている。
承元の法難は、形の上では後鳥羽上皇という権力者が一宗派に対して行った宗教弾圧であったが、明らかに比叡山(天台宗)や興福寺(法相宗)という既成の宗教による浄土宗排斥活動であった。それは専修念仏が、貴族や武家ではなく一般庶民に急激に受け入れられていく過程に、既成宗派が危機感を抱いた結果であろう。恐らく院の女房と密通したという事件は、単なる契機に過ぎないものであっただろう。専修念仏に対する排斥行動は、例え松虫や鈴虫がいなくても別の形をとってこの時代に行われたと思われる。
住蓮房・安楽房の亡き後、鹿ケ谷草庵は荒廃するが、再び入洛した法然が両上人の菩提を弔うために一寺を建立し、住蓮山安楽寺と名付けている。幾度かの荒廃を繰り返し、延宝9年(1681)に現在地に仏堂が再建され今日に至っている。
安楽寺の公式HPに掲載されている安楽寺の由来と安楽寺松虫姫鈴虫姫和讃によると、19歳の松虫姫は、住蓮上人から剃髪を受け妙智法尼と法名を授かり、17歳の鈴虫姫は安楽上人から剃髪を受け妙貞法尼と法名を授かっている。両姫は瀬戸内海に浮かぶ生口島の光明坊で念仏三昧の余生を送り、松虫姫は35歳、鈴虫姫は45歳で往生を遂げたことが記されている。
安永9年(1780)に刊行された都名所図会と元治元年(1864)に刊行された花洛名勝図会には、それぞれ安楽寺の図会が付けられている。山門と本堂と方丈そして松虫姫と鈴虫姫の供養塔が描かれているが、位置関係などがやや異なっている。後年に書かれた花洛名勝図会の方が現在の状況に近いように見える。また今回は見逃してしまったようだが、図会には住蓮房・安楽房の墓が本堂の西側に描かれている。
久しぶりに安楽寺の公式HPを訪れると、2009年11月3日から新しいデザインにリニューアルされていた。新たな客殿も竣工し、フリースペースとして貸し出しているようだ。現代社会と宗教の間に距離を感じる今日この頃、このようなアクティビティは、その溝を埋める貴重な試みであるように思う。
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