霊鑑寺門跡 その2
臨済宗南禅寺派円成山 霊鑑寺門跡 (れいかんじもんぜき) その2 2008年11月22日訪問
大徳寺の塔頭 総見院を出て再び東門を出てタクシーを捜す。大徳寺を訪問する観光客は、この東門の前にある駐車場で下車するため、乗車客待ちのタクシーが停まっている確率が高い。 タクシーは霊鑑寺門跡と法然院を目指して北大路通を東に進む。賀茂川と高野川を越えると一乗寺町に入る。白川通で右折し南に下り、今出川通の交差点から鹿ケ谷通に入る。鹿ケ谷通は観光客の多い哲学の道の西側を平行に走る道である。そして市立第三錦林小学校の角を東に入り、霊鑑寺門跡の石段の前に約30分で到着する。
霊鑑寺門跡は2008年5月に、哲学の道を北上する時に訪問したが、その時は石段の前に設けられた柵から中に入ることは出来なかった。今回は京の文化財探訪として特別に公開されている。
霊鑑寺門跡の大きな石段右手には後水尾天皇創建谷の御所霊鑑寺門跡の碑が建つ。霊鑑寺は臨済宗南禅寺派の門跡尼寺で山号は円成山。谷の御所の他にも鹿ヶ谷比丘尼御所とも呼ばれる。承応3年(1654)後水尾上皇の皇女・浄法身院宗澄を開基として創建している。
宗澄女王は寛永16年(1639)後水尾上皇と園光子(壬生院)との間に第11皇女として生まれている。父である後水尾上皇は既に、寛永4年(1627)に明正天皇に譲位をしているので、上皇となってからの子供である。宗澄が入寺した霊鑑寺は現在私たちが見るものとはかなり異なっていたようだ。特に霊鑑寺が創建される前にあった如意寺の歴史については、前回の訪問を参照下さい。
慶安3年(1650)後水尾上皇は、この地に勅願寺を建立し、かつての如意寺を再興する。
天明7年(1787)に刊行された拾遺都名所図会には霊鑑寺と共に如意寺の記述が残されている。
「如意寺〔霊鑑寺の南にして、谷を隔て隣る。いにしへは如意嶽楼門瀧の傍にありて、諸堂巍々たり。開基智証大師、此山を巡覧し給ふ所に、忽然として一ツの鹿現れ、嶮岨を平均とし、大師の裳を喰て巌窟に至るに、観世音の霊像現然たり。大師歓喜して当寺の本尊とし給ふ。乱逆の世滅亡し、久しく荒廃の地となりしを、霊鑑寺尼公御再建あつて、旧地の麓今の所に小堂をいとなみ給ふ〕」
そして霊鑑寺との位置関係の分かる図会から、現在のノートルダム女学院高校の地に如意寺があったと思われる。
如意寺再興の4年後、承応3年(1654)宗澄女王は得度し宋澄尼と称される。そして入寺するために建立された寺院は、父・後水尾上皇より円成山 霊鑑寺の山号寺号が下賜される。霊鑑寺はかつての大寺院を再興した如意寺に併設される形で建てられている。宋澄尼は如意寺の住職も兼務している。
延宝6年(1678)宋澄尼は40歳の若さで亡くなり、廬山寺の墓地に葬られる。
第2世門跡には後西天皇の第3皇女・宗栄女王が選ばれる。後西天皇は、既に寛文3年(1663)弟の識仁親王に譲位しており、新院御所に住まわれていた。寛文13年(1673)の大火により類焼したため、延宝3年(1675)に京都御所築地外に院御所が新築される。そして貞亨2年(1685)に上皇が亡くなられると、院御所の建物の解体と移築が行われる。貞亨3年(1686)御休息所、侍部屋、御物置が、霊鑑寺と如意寺が併設されていた地の北側、すなわち現在の霊鑑寺の地に移築される。この時に移築された建物は玄関と書院の一部分として現存している。
このように、宗栄尼の時代に、後水尾上皇が建立された霊鑑寺と如意寺に隣接する場所に新しい霊鑑寺が作られていったということになる。以後は江戸時代末期にかけて徐々に寺域や建造物の増強・整備が行われ現在に至っている。先の拾遺都名所図会はこれらの移築が成された後の姿を表わしている。
本堂は、第4世門跡・宋恭尼の寛政6年(1794)に江戸幕府第11代将軍徳川家斉からの寄進を受けている。
なお如意寺は廃仏毀釈の影響を受け、明治7年(1875)に廃寺となり寺地の大部分は失われている。
霊鑑寺の緩やかな石段の先には本瓦葺切妻造の一間薬医門が建つ。これは祈祷札より宝暦2年(1752)頃の建立と考えられている。この門の配置から霊鑑寺の境内が鹿ケ谷の傾斜面に建てられていることが分かる。境内の奥に進むほど斜面を登ることになる。
表門を潜ると左正面に見えるのが霊鑑寺の玄関で、小玄関、御玄関、使者の間そして詞石の間の4室と北側の六畳の間と竹の間の2室からなっている。これは玄関に続く書院と同様に、後西院御所旧殿を移築したものと考えられている。
延宝3年(1675)に造営された後西院御所の御休息所と御番所を、貞享年間(1684~88)に霊鑑寺の書院として移築されている。北より上段の間、二の間、三の間が一列に並び、二の間から西側に四の間、五の間が続く。GoogleMapで霊鑑寺の堂宇の配置を見ると、書院の屋根伏から複雑な平面が想像される。庭園に面した書院の南面と東面には畳縁を巡らせている。
上段の間は床、棚、平書院を備え、格天井張り。二の間との間には欄間が嵌められている。現在の書院は移築後に行われた増改築により当初の院御所そのものではない。しかしながら院御所の雰囲気を現在に伝える遺構となっている。上段の間、二の間、三の間は金地着色の障壁画、四の間と五の間は水墨画で構成されている。筆者不詳であるが狩野派によるものと伝わっている。
書院の東にある本堂は渡廊下でつなげられている。南側正面3間、側面4間の宝形造で、背面に下屋庇を出し後堂とし、正面より2間を外陣、奥2間を内陣としている。祈祷札と瓦銘より寛政6年(1794)頃、徳川家斉の寄進による建立と考えられている。
霊鑑寺の庭園は書院と本堂の南側に広がるが、主庭は書院前の池庭である。池の東南に滝石組が組まれ、かつては鹿ケ谷からの谷水が注いでいたと思われる。ただし現在は枯れ池となっている。滝石組から最も離れた池尻には2枚の板橋と般若寺型石燈籠が石垣を背にして配されている。
この記事へのコメントはありません。