金戒光明寺 西雲院
金戒光明寺 西雲院 (こんかいこうみょじさいうんいん) 2008年11月22日訪問
真如堂から金戒光明寺の境内に入り、御影堂へと続く道の途中に会津藩殉難者墓地がある。道の東側に墓地、そして西側の塀の中が金戒光明寺の塔頭である西雲院の境内となっている。また会津藩殉難者墓地自体も西雲院の墓地の一部である。
西雲院の開山である宗厳は天正3年頃(1575)朝鮮に生まれたとされている。文禄・慶長の役の時に秀吉の家来小野木重勝に捕らえられ、日本に渡っている。その後、蜂須賀正勝(小六)の長男である家政が宗厳を北政所に献上し、北政所の命により滝川雄利の娘の使用人となっている。大変器量の良い娘で北政所にも大層気に入れられていたから宗厳が遣わされたのであろう。また宗厳も娘に良く仕えたが、慶長10年(1605)宗厳30歳の時に僅か17歳で亡くなっている。滝川雄利は娘の死を悼み、戒名の龍光院殿花顔芳春大禅定尼に因んだ塔頭を金戒光明寺に建立している。
この死を契機に人生の無常を感じた宗厳は、知恩院第29世満誉尊照を師として出家する。そして11年間諸国を巡り修行を修めた元和2年(1616)龍光院のある黒谷に帰って来る。龍光院の墓前で念仏を唱え続けている宗厳を見た金戒光明寺第27世了的は紫雲石を宗厳に授け、西雲院を開山させた。
後に浄土宗を開宗する法然上人が比叡山を下り、この黒谷の地で半畳程の大きさの白河石に腰を掛け念仏を称えると、紫色の雲がたつのを見たと言われるものが紫雲石である。法然、ここが念仏道場に相応しい地と悟り草庵を結び、後に白河禅房と呼ばれ金戒光明寺へとつながる名石である。今回の訪問では気がつかなかったが。西雲院の南門を入り右手前方の本堂の正面に建てられた小さな堂宇の中に据えられている。西向きの堂宇であることからも、法然はここより西山の方向に紫雲を見たので、西雲院と呼ばれるのであろう。小さな堂宇の左横には「ほうねん上人古跡」「志うん石」と記した石碑が建てられている。
宗厳は一心不乱に念仏修行をしたことから、徳を慕って多くの念仏者が集い、念仏道場としても多くの寄進を集め大いに栄えたと言われている。宗厳は寛永5年(1628)に死去するが、その死後も万日念仏惣回向、3万日念仏惣回向、4万日念仏惣回向(100年)と続けられた。
昭和58年(1983)に再建された本堂には、「西雲院」の他に「萬日念佛堂」の額が掛けられている。京都西山に沈む夕日を正面に見るこの地は、山越えの阿弥陀仏を祈念する日想観(西に沈む太陽を見て、その丸い形を心に留める修行法)の聖地、多くの念仏者が集い念仏三昧で極楽往生を願った姿が偲ばれる。西雲院は「紫雲石」とともに「萬日寺」とも呼ばれている。
南門を入った左手には、高く築かれた石壇上に二基の墓石がある。その手前に建てられた西雲院の駒札によって会津小鉄の墓であることが分かる。会津小鉄については、既に会津藩殉難者墓地で既に書いたように、上坂仙吉こと会津小鉄の出自についてはいろいろな説があり定かでない。文久2年(1862)松平容保が京都守護職として入洛すると、小鉄は会津藩中間部屋の元締・大沢清八と懇意になり、会津屋敷の出入りを許されている。侠客の小鉄の表家業は口入れ屋であり多くの配下を抱えていたため、会津藩や新選組の市内警護の支援を行っていたと思われる。そのため会津小鉄と呼ばれるようになったのは、会津出身ではなく会津の印半纏を着ていたためと言われている。 鳥羽伏見の戦いでも会津藩のために軍夫を用立て、幕府軍が敗れると、置き去りにされた会津藩兵と桑名藩兵の遺骸を埋葬している。
明治40年(1907)に鳥羽伏見の戦いの戦死者を祀る慰霊碑を建立すると共に、墓地の整備と入口の位置の変更、門柱の建設、そして墓所の参道に道標を設けている。そのための募金趣意書が大佗坊さんのHPに残されている。その中で下記のような顕彰されている。
「茲に会津小鉄と称する故上坂仙吉氏あり、曾て我藩の恩義を受けたるを徳とし、独力其酒掃に任し忌日毎に香花を供して幽魂を慰め多年之を怠らさりしか、往年不帰の客となれり。その後、矢ッ車大西松之助氏、小鉄の志を継き、西雲院の住職家田真乗師等と心を協せ力を合せて墓地の清除並に忌日の法要を営み、在京阪神等の旧藩人を會して忠魂を追吊し来り、漸くにして今日の現状を保つを得たり。」
小鉄は明治維新以後も黒谷の会津墓地を守り、明治18年(1885)白川の自宅で亡くなっている。また小鉄の遺志を継いだ矢ッ車大西松之助氏とは、会津小鉄一家に属する侠客で、この墓地整備が行われた後の明治43年(1910)に亡くなっている。
先の駒札は下記のように記している。
銘文 会津小鉄
本名上坂仙吉、天保四年大阪に生まれる。父は東国浪士と聞くが、その顔知らず。母もまた、仙吉幼少にして旅に死す。少年にして大阪を捨て、江戸を経て京都下京区三ノ宮通りに住居を置き京の顔役、大垣屋清八に見込まれ男を売る。
文久二年、会津藩主松平容保候、京都守護職として、千兵を率いて当黒谷に本陣を置くや、其の知遇を受け、若年にして元締となる。会津候の為、亦新撰組の影の協力者として活躍、幕末動乱の京洛の地に其の侠名を謳われ会津の小鉄と呼ぶ。
蛤御門の変及び伏見鳥羽の戦に兵糧方及び戦死傷者の収容の任に就いて参戦、其の戦死者の遺体は朝敵の汚名のもと世人は後難を恐れ、戦場の雨露に晒され無残にも放置されたるを配下を動員し死を決して探索、収容、埋葬すると言う美挙がある。
明治十八年三月十九日、洛北北白河にて没す。享年五十三才。
当銘文は会津小鉄孫 原田 弘 記入、願わくば会津小鉄の魂を顕彰し原だけの恒久の繁栄を祈願し此処に建立 合掌
平成16年5月吉日 施主 大阪 原田 弘
後援 図越利次
施主の原田弘氏は「会津小鉄と新選組」(歴史春秋出版 2004年刊)の著者であり、図越利次氏は会津小鉄会五代目会長である。
上坂仙吉の死後、実子上坂卯之松が、会津小鉄二代目を継いだが、昭和10年(1935)に亡くなっている。昭和50年(1975)中島連合会会長 図越利一が、会津小鉄の名跡を復活させ、三代目会津小鉄会としている。図越利次氏は利一の実子で、四代目高山登久太郎が平成9年(1997)に引退した後を継いでいる。利次氏も平成20年(2008)に現在の会長に継いでいる。
ところで、西雲院の開山である宗厳が仕えた滝川家の末裔には滝川具挙がいる。王政復古から鳥羽伏見の戦までの間の歴史を見ていくと必ず出てくる名前である。滝川具挙は禄高1200石の旗本の子として生まれている。隣家の小栗忠順も同じ世代だったため、親密な往き来があったとされているため、開国主義であり幕権伸張派であった。小姓組から小十人頭、そして目付、外国貿易取扱に就任し、以後外交関連の役職を歴任し、万延元年(1860)には外国奉行になっている。元治元年(1864)大目付に就任し、天狗党の乱では厳格な対処を行い、長州征討では参謀役を担当する。
慶応3年(1867)大政奉還後の情勢変化の為、上京を命ぜられるが、間もなく徳川慶喜により江戸に戻される。そして江戸薩摩藩邸の焼討事件の情報を携えて大坂城へ入城している。この時期の徳川慶喜は新政府側の松平春嶽、山内容堂ら公議政体派と連携しながら微妙な政治的賭け引きを行っている。そして奉命上京に応じて議定に加わることまで辿り着いていた。
その最中に滝川具挙は江戸から大阪に爆弾を抱えて飛び込んだ。薩摩藩邸焼討事件により城内の旧幕府軍は薩摩討つべしと激高し、慶喜ですら沈静化できない状況になった。文部省維新史料編纂事務局が編纂した維新史にも「事ここに至っては、もはや慶喜一個の力をもって制遏し得るところにあらず。空しく拱手傍観して事態の推移に身を委ねるのみであった。」と記されている。これは、野口武彦による「鳥羽伏見の戦い 幕府の命運を決した四日間」(中央公論新社 2010年刊)でも触れているように、徳川慶喜の本心を記述したものではないし、野口氏の指摘どおり、慶喜は決定的瞬間にリーダーの責務を放棄したこととなる。これを慶喜の責任回避のための行動とも考えられるが、当時感じていた諦めに近い心情を表現したとも言えるだろう。
滝川具挙は慶応4年(1868)1月3日、徳川慶喜の無罪を訴え薩摩藩を訴える討薩表を持ち旧幕府軍の先鋒を率いて京都に向かう。その途中、鳥羽の関所を守る薩摩藩五番隊監軍・椎原小弥太と問答の末、薩摩藩陣地から発砲される。砲声に驚いた馬が鳥羽街道を南に向って暴走し、幕府軍の隊列を著しく乱したと言われている。
いづれにしても滝川具挙は鳥羽伏見の戦あるいは戊辰戦争全体の開戦に関わった人物として名を留める事となった。この後、具挙は江戸に戻るが官位は召上げられ江戸城への登城も禁止となり、逼塞そして永蟄居に処されている。江戸を去り静岡で隠居したとも言われているが、資料による裏付けが成されていないようだ。つまり鳥羽伏見の戦以降の滝川具挙の歴史的資料は残されておらず、完全に歴史の表舞台から姿を消している。または慶応3年(1867)12月から2ヶ月間だけ、スポットライトを浴びた狂言回しのようにも見える。
単なる歴史上の偶然であることは承知していても、幕末の一瞬の間 滝川具挙と会津藩殉難者墓地が交差することに何かの縁があったのではないかと思わせる。
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