円山公園 その2
円山公園(まるやまこうえん) その2 2008年11月23日訪問
この日は円山公園から、昨日人出が多くて訪問することが出来なかった清水寺成就院を巡る。円山公園からねねの道に入り、高台寺前を通る。一念坂から二寧坂、産寧坂を経て、清水寺の参道である松原通に出る。
7時40分過ぎに京阪電鉄 祇園四条駅に到着する。ここから八坂神社の西楼門を目指して歩く。円山公園の西口から入り、そのまま東に進むと昨晩歩いた知恩院と高台寺を結ぶ道に出会う。円山公園の庭園はこの道の東側から始まる。
この地は真葛原と呼ばれてきた。都名所図会には
真葛原は祇園林のひがし、知恩院の南をいふ。
とあるように、現在の知恩院から八坂神社、安養寺、長建寺、双林寺辺りまでの総称であった。江戸時代初期、安養寺には六阿弥(左阿弥、春阿弥、弥阿弥、庭阿弥、正阿弥、連阿弥)と呼ばれる塔頭が出現し、お互いに贅を尽くした庭園美を競っていた。都名所図会に残されている安養寺の図会には、左阿弥と正阿弥が門前に並び建っている姿が記されている。六阿弥はそれぞれが貸座敷を営み、元禄期には最盛期を迎えていた。現在の左阿弥と安養寺の位置から推測すると円山公園の東側大部分は安養寺の寺域であったことが分かる。
明治初期に官有地とされたこの一帯は、明治19年(1886)太政官布告に基づき公園地に指定されたことによって、円山公園が生まれる。京都市内で最も古い公園である。ちなみに「円山」の名は「慈圓山安養寺」の寺名から来ている。そして明治22年(1889)市制施行時に京都府から京都市に移管され、現在も京都市が管理している。
現在の円山公園の回遊式庭園は、明治45年(1912)武田五一が計画したマスタープランに従って七代目小川治兵衛が作庭している。
知恩院と高台寺を結ぶ道の東側には大きな池が作られている。この池には幅の広い石橋が架けられているため、南北2つの池のようにも見える。池の北側は平らな園地に面しているため、平面的な構成となっている。これに対して池の南側は東西に高低差がある上、背の高い樹木が植えられ、囲まれた空間となっている。また食事処の大正ロマン亭が池の東高台に建つため、池に面して計画された望楼のようにも見える。さらにこの池には、小さいながらも噴水が設けられている。西洋庭園では珍しくもないが、日本庭園では非常に目立つ演出となっている。やはり私的な庭園ではなく、多くの市民のためのものとして造られたため、このようなデザインとなったのだろうか。
池の北側には、東側の高台より水が注ぎ込んでいる。前回は時間がなく、この池の源流を見ることができなかった。今回は池に注ぎこんでいる流れを遡って行く。この8時前の時点では流れには水がなかった。
水滴が小さな小川のせせらぎとなり、ある程度の流量の川となり、やがて池に注ぎ込んでいく水の様相をいくつかの情景によって表現するのが小川治兵衛の手法だが、ここでもそれが行われている。つまり水の流れを白砂で表現するような抽象化は行っていない。誰でも見て取れるような自然主義的な表現が用いられている。しかし不特定多数が利用する公園に繊細な表現を維持するのは、大変なことではないだろうか?もともと小川治兵衛は個人住宅や寺院の庭園を多く手掛けている。これらの庭園群は管理の行き届いた状態に保たれていることによって、小川治兵衛らしさを保っている。この円山公園の庭園に関しては公共の場の庭園としては手入れが行き届いている方だと思う。それでも小川治兵衛の特徴が活かされた庭園かと言えば、正直なところ平安神宮神苑のレベルには達していないと思う。それだけ日本庭園の良さを維持するのには、労力と費用を要するものだと考えるべきだろう。
この庭園の源流は坂本龍馬・中岡慎太郎像と京料理いそべの北側まで遡る。滝の石組みが造られている。どうも8時を廻った辺りから出水が始まるようだ。丁度滝からは水が流れ出したので、先ほどは枯れていた流れも徐々に水位が上がっていくのではないかと思われる。残念ながら、二度目の訪問は少し時間が早かったようだ。
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