法金剛院
律宗別格本山 五位山 法金剛院(ほうこんごういん) 2009年1月12日訪問
妙心寺の南総門を出ると、東側から来た丸太町通が南西に緩やかに曲がって行く。道なりに進むと通りの向こう側にJR山陰本線の高架と花園駅が見えてくる。そのまま南総門から200メートルくらい進んだ右手に法金剛院の山門が現れる。道路幅員が広く、交通量の多い丸太町通に面して、小さく簡素な門が迎えてくれる。山門の左手には、文徳天皇御旧跡 律宗別格本山 法金剛院と記された石柱標識が建つ。
現在の法金剛院の地には、平安時代初期、右大臣清原夏野の山荘が営まれていた。左京区花園の地名の由来は、夏野が敷地内に珍花奇花を植えたことから来ている。その歴史は受け継がれ、世界の蓮を植えていることから法金剛院には蓮の寺の別名がある。
清原夏野は延暦元年(782)に舎人親王の孫である小倉王の五男として生まれている。初名は繁野王。延暦23年(804)清原真人姓を賜与され臣籍降下する。弘仁2年(811)従五位下に叙爵。弘仁14年(823)春宮亮として仕えた大伴親王が即位し、淳和天皇となると同時に従四位下に昇進して蔵人頭となる。その後も昇進が続き、天長8年(831)正三位、天長9年(832年)右大臣と、目覚ましい昇進を遂げている。淳和天皇は積極的に良吏の登用を図り、地方官に広範な権限を付与している。奈良時代中期よりの地方政治の荒廃を回復するために、国司に良吏を当てるとともに、勧農政策を活発に推進し、皇室財源の強化、すなわち朝廷の権力の拡大につながっていく。また天長10年(833)には勅を発し、夏野や菅原清公らに令義解を編纂させている。このような淳和天皇の積極政策に登用されたのも、夏野の学識の高さや政治・経済に対する確かな見識が信任を得た結果と考えられる。
天長10年(833)仁明天皇の即位に伴い従二位に叙せられる。承和4年(837)死去。享年56。正二位の位階を追贈されている。
かげまるくん行状集記に掲載されている本朝寺塔記の中に、清原夏野の山荘から双丘寺を経て天安寺に至る経緯が記されている。これによると、夏野が双ヶ丘の地に山荘を建てたのは天長7年(830)頃であった。すでに同年9月21日には淳和天皇が新造された山荘に行幸していることが記録されている。また同年中に淳和天皇は北野の行幸のついでに双岡山荘に再び立ち寄っている。 承和4年(837)に夏野が亡くなると双岡山荘は双丘寺となる。残念ながら、双丘寺の詳細は分からないようだ。
御室エリアガイド 御室Eネット(http://www.mantyo.com/e-net/index2.html : リンク先が無くなりました )に掲載されている年表(http://www.mantyo.com/e-net/topics/kongo/indexg.html : リンク先が無くなりました )に従うと、承和14年(847)仁明天皇は北の内山に登り、この景勝地に従五位を授けている。これは夏野がなくなった後のことになる。この出来事からことから、この地は五位山と呼ばれ、法金剛院の山号にもつながっている。双ヶ丘と比較しても起伏が小さく、山というよりは高台のような場所である。現在の法金剛院の池泉の北側のこんもりした部分、あるいは妙心寺南総門を出て丸太町通から離れて西に進み、道が双ヶ丘の手前で弧を描くあたりが五位山とされている。
天安2年(858)8月23日夜、文徳天皇は突然病に倒れる。翌日には急激に悪化し、言葉が通じないような状態となったとされている。このあたりの病状より死因として脳卒中が上げられているのだろう。26日にはもはや薬湯の効果なく、名僧50人を屈請して大般若経を読ませる事態に至る。そして発症からわずか4日目の8月27日、文徳天皇は32歳の若さで崩御する。笠原秀彦著「歴代天皇総覧 皇位はどう継承されたか」(中央公論新社 2001年刊)によると、天皇は生来病弱であったとしている。
同年9月2日、大納言安倍安仁は山城国葛野郡田邑郷真原岳を山陵の地に選定し、同月6日夜に文徳天皇を山陵に葬っている。陵墓は当初真原山陵と称されたが、天安2年(858)詔により田邑山陵と改められている。
現在、宮内庁治定の文徳天皇陵は、法金剛院から北西に1.5kmほど離れた京都市右京区太秦三尾町に位置している。ここに治定されたのは文久の修陵時に考察した地を選んだことによる。それ以外にも松尾村大字御陵(京都市西京区御陵塚ノ越町)の天皇ノ杜古墳や、法金剛院の北の壇岡(五位山)とする説もあり、現状において文徳天皇田邑陵がどこ造営されたかという質問に対しては不明という答えしかないようだ。 文徳天皇陵寺とされた天安寺が、田邑陵に近接していたことは間違いないだろう。しかし既存の貴族の私寺である双丘寺を御願寺とした経緯からも、天安寺から陵墓の位置を推測することは困難であろう。
また、文徳天皇の崩御と共に清原夏野の双丘寺が天文寺に改められたのではなかったようだ。天安2年(858)10月17日に文徳天皇の追善行事が、双丘寺で行なわれている。翌年の貞観元年(859)8月21日にも皇太后が、双丘寺に5日間法華経を講義させている。
それでは双丘寺が天安寺と呼ばれるようになった何時のことか?貞観8年(866)正月5日に天安寺にて3日間、文徳天皇のために金剛般若経と般若心経が転読されたという記録が残っていることから、これより以前の近い時期とされている。文徳天皇が崩御された天安2年(858)から既に7年以上も経過し、年号も次号の天安から変わっている。
御願寺となった天安寺は、寺領の形成がなされ次第に興隆して行く。貞観17年(875)11月15日に右京二条四坊にあった没官地一町が天安寺に施入されている。これは貞観8年(866)に起きた応天門の変で断罪された伴善男の領地であった。同じく元慶3年(879)にも山城国葛野郡上林郷にあった領地が施入されている。
しかしおよそ100年後の天延2年(974)宝蔵を焼失し、この時期より次第に荒廃が始まっていく。天安寺は11世紀半ばには寺領荘園を手放さざるを得ないほど衰微し、12世紀にはすでに廃寺になっていただろう。
「観蓮会」赤白咲き競う 右京・法金剛院
法金剛院で14日、ハスをめでる「観蓮会」が始まった。花の開く様子を観察したり、写真に収めようと、早朝から多くの市民や写真愛好家が訪れた。観蓮会は8月5日まで。通常より2時間早く午前7時に開門する。有料。