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大徳寺 塔頭 その6



大徳寺 塔頭(だいとくじ たっちゅう)その6 2009年11月29日訪問

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大徳寺 塔頭 大仙院

 ここより北派の塔頭について記してゆく。

 先にも触れたように、第56世實傳宗眞のもとからは、南派の開祖となる第72世東溪宗牧とともに、北派の古嶽宗亘を輩出している。古嶽宗亘は寛正6年(1456)近江蒲生郡の佐々木氏に生まれている。初めは近江岩間寺(真言宗醍醐派の正法寺)の義済に投じ、ついで建仁寺の塔頭瑞光庵の喜足和尚に師事する。しかし23歳の時、喜足和尚より大灯国師の存在を教わり、五山を出て大徳寺第40世春浦宗熈に参ずる。しかし久しく悟りに至らず、宗熈寂後は如意庵の實傳宗眞に謁し、20年に及ぶ参究を重ね、ついに永正2年(1505)宗眞の印可を得ている。

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大徳寺 塔頭 大仙院 撮影2008年5月19日

 永正6年(1509)後柏原天皇より大徳寺住持に任命する綸旨を下賜され、入寺開堂している。退院後に庵居として大仙院を開創する。大永元年(1521)後柏原天皇より仏心正統禅師号が下賜される。また後奈良天皇の帰依を受け、参内することが頻りであった。そして天文5年(1536)に正法大聖国師を特賜されている。大徳寺の僧として国師号を賜わるのは、実に開山の大灯国師以来2人目にあたる。
 天文17年(1548)6月24日に入滅し、院の北隅に埋葬される。塔銘を松関とする。古嶽宗亘の法嗣には、第83世傳庵宗器、第90世大林宗套、そして第102世江隠宗顯の3人がある。年長の傳庵宗器は天文2年(1533)師に先立って入滅しているため法嗣がいない。大林宗套の法嗣には聚光院の開祖となる第107世笑嶺宗訢があり、聚光院を母体として三玄院の開祖となる第111世春屋宗園、大光院の開祖である第117世古渓宗陳、そして第122世仙嶽宗洞や第126世一凍紹滴などの人材を輩出している。
 現在、大仙院は本坊方丈の北に位置しているが、これは創建時から後世にかけて移動が行なわれなかったと考えられている。そのため、当初は南西に如意庵、南東に大用庵があり、東に真珠庵が隣接していたが、西と北には開けていた。そのため北派は大仙院を中核として、北と西の両方向に塔頭が新設されていった。特に西への拡張は近世に入ると加速度的に著しくなり、遂には孤篷庵の位置を越えて西側まで占めるようになる。

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大徳寺 塔頭 大仙院 撮影2008年5月19日

 大仙院の創建年次については、「大徳寺并塔頭明細幉」では永正6年(1509)、「龍宝山大徳禅寺志」では永正年間(1504~20)としている。国宝に指定されている本堂の棟札の「永正10年2月12日上梁」という記述より、本堂及び玄関の建立年が永正10年(1513)であることが判明している。この建立年からすると永正6年(1509)はやや早すぎる様にも感じられる。大仙院は第76世古嶽宗亘が津田宗達、今井宗久、六角政頼などの檀越外護者として創建した塔頭である。天文23年(1554)には今井宗久より大仙院に入牌料170貫が寄進されている。 天文13年(1544)古嶽宗亘は28項目からなる「当院後代法度」を定めている。院主は二夏三年を勤める事、諸役者の選任の事、院衆は茶堂一日、浄頭五日を勤める事、南宗庵住持の事、大用庵・祥瑞庵・松源院・養徳院は輪番とする事などが決められている。

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大徳寺 塔頭 大仙院 撮影2008年5月19日
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大徳寺 塔頭 大仙院 撮影2008年5月19日

 本堂の屋根は明治18年(1885)に行われた改修工事で、創建当初の檜皮葺から瓦葺に変更されている。さらに昭和36年(1961)に行われた解体修理で銅板葺に改められている。昭和32年(1957)に国宝に指定されたにもかかわらず防火設備が整っていないため、耐火性能が高い銅板葺が選択されたようだ。もともと檜皮葺で施工されていたが、明治以降になって重い瓦を載せている。木組を健全に維持していく上でも瓦より軽量な銅板葺が新たに採用されたのであろう。そして昭和の大修繕から50年が過ぎ銅板葺の耐用年限を迎えたため、平成21年(2009)に創建当初の檜皮葺に戻されている。前回、2008年5月に訪問した時は、丁度この檜皮葺への葺き替え作業が行われていた。仮設屋根が組まれていたため、屋根を取り払った本堂は、小屋組みの上部に空が見えたことを覚えている。なかなか経験できない空間体験であったが、もちろん写真撮影は許されていなかったのでその映像は残っていない。

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大徳寺 塔頭 大仙院 撮影1970年代

 昭和の解体修理の際に創建時の空間構成に復元されたものの、龍源院ほど徹底的な復元は行われなかったようだ。これは復元するために必要な資料が十分でなかったことと、現在の使用上に支障をきたすためであったとされている。川上貢氏は「禅院の建築 禅僧のすまいと祭享 [新訂]」(中央公論美術出版 2005年刊)において、この本堂の屋内諸室を間仕切る襖障子が現存している点に注目している。詳しくは後に記すが、室中に相阿弥の山水22幅、礼の間に狩野元信あるいは之信の耕作図8幅そして檀那の間にも花鳥図8幅が残されている。住宅の屋内四壁を絵画で装飾する障壁画の発生は応仁の乱の前後からとされている。それ以前においては障子絵が類似したものとされているが、小範囲の装飾的手法に留まっていた。すなわち障壁画の成立は、襖障子で屋内を間仕切る手法や壁貼付絵の発達によって可能となった表現手段でもある。それ以前は、唐絵の掛軸を長押や屏風に掛け並べて鑑賞することが一般的であった。絵幅を鑑賞するための専用の壁面である押板も使用されていたが、これらは絵画を鑑賞する場と大きさを固定し限定するものであり、明らかに四壁全てを装飾する障壁画で得られる精神的な高まりとは異なっている。
 やがて障壁画が一般化してゆくと、画題の展開は少なく瀟湘八景図や道釈図そして花鳥図などを一つの座敷毎に完結させて描くようになる。その部屋の目的に合わせた画題で障壁画を描くことによって、その部屋で必要とされる精神的な状況に転化することが容易だったのではないだろうか。このような観点から本堂を眺めてゆくと、院主の常住する書院の付小庭として築かれた大仙院東庭の華やかさが理解できる。小さな空間は書院に見合った規模でもある。そして室内からの視覚を楽しませるような工夫が凝らされている。北東隅に無謀とも思えるほど巨大な築山を築き、石組みと樹木で深山の景を表現している。この深山から流れ出た水は急流を作り、やがて大河となり本堂南庭の白砂の大海へと続いてゆく。現在、東庭の中央には華燈窓を持つ渡廊が復元されている。これは先の昭和の大修繕の際に作られたものである。過去の文書にも「大書院東廊下」という記述が残されているようで、少なくとも寛永18年(1641)を遡る古い頃に造立されていたようである。

 本堂の北側に建設された書院は慶長19年(1614)に沢菴によって再建されたものである。大德寺塔頭の書院遺構のうちでも簡素な意匠のものであり、重要文化財に指定されている。「東海和尚紀年録」によると、
     大仙の書院を建つ、此の地、昔日は拾雲軒の遺跡なり

と記されていることから、現在の書院の場所に拾雲軒があり、「拾雲二字を掲げて書院額」としていた。

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大徳寺 塔頭 大仙院 撮影1970年代

 大仙院書院庭園は、大正13年(1924)に史跡に、そして昭和27年(1952)に特別名勝に指定されている。また大仙院庭園としても昭和30年(1955)名勝に指定されている。
 寺宝としては、国宝の大燈国師墨蹟 元徳二年五月十三日/与宗悟大姉法語、室中の相阿弥筆 紙本墨画瀟湘八景図6幅、室中の伝相阿弥筆 紙本墨画瀟湘八景図16幅、礼の間の伝狩野元信筆 紙本淡彩四季耕作図8幅、檀那の間の伝狩野元信筆 紙本著色花鳥図8幅などの重要文化財に指定された方丈障壁画がある。これらの他に重要文化財に指定されている旧大仙院方丈障壁画24幅として、伝狩野元信筆とされている紙本墨画淡彩 大満送大智/香巖撃竹図紙本墨画淡彩 霊雲観桃、潙山踢瓶/石鞏張弓、三平開胸図、それ以外にも紙本墨画淡彩 太公望、林和靖図紙本墨画淡彩 東方朔、西王母図紙本墨画淡彩 朱買臣図紙本墨画淡彩 山水図紙本墨画淡彩 山水図紙本墨画淡彩 果子図などこれらは現在では掛幅装にされ、東京国立博物館に所蔵されている。
 「龍宝摘撮」では、大仙院の寮舎として清源庵、祥林軒、耕雲軒、東林庵を上げているが、これらは「龍宝山大徳禅寺志」では高桐院の寮舎となっており、大仙院の寮舎としては拾雲軒を上げるのみである。

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大徳寺 塔頭 大仙院 撮影1970年代

 栽松軒は、第90世大林宗套が天文10年(1541)に大徳寺山内の大仙院の西隣に開創した庵居。「龍宝摘撮」によると大徳寺准塔頭の初例とされる清泉寺の敷地は栽松軒址としている。
 永禄8年(1565)4月に大仙院の北裏地と大仙院および如意庵西隣の地を換地し、前者は大仙院、後者は栽松軒の所有に帰した2通の請文と指図が残っている。これによると、栽松軒は大仙院の裏地の大徳寺西の後園ならびに路地東西27丈(82m)南北15丈(46m)と西の林を得て境内を拡張している。また指図に見る栽松軒は大仙院の西南、如意庵の西にそれぞれ境を接し、東南隅に門が所在していた。これを現在に当てはめると、栽松軒は聚光院の位置に相当する。このことは聚光院の建立にも関連してくる。
 大林宗套は、大徳寺第76世で大仙院の開山である古嶽宗亘の法を嗣いでいる。宗套は文明12年(1480)京都の藤氏に生まれている。初めに西山の天源院に入り粛元厳に師事している。しかし明師について大法を究めたいと意を決し、大徳寺第72世東溪宗牧に、次いで伊勢の正法寺に移り玉英宗冏(大徳寺第81世)に参じている。その後古嶽宗亘の席下に帰し、大永5年(1525)宗亘より印可されている。そして翌6年(1526)宗亘は大林の諱を「宗桃」から「宗套」に改めている。
 宗套は徳禅寺に住した後、堺の南宗庵に移っていたが、天文4年(1535)に古嶽宗亘から大徳寺への出世を勧められ、天文5年(5136)2月15日に大徳寺第90世として入寺開堂している。南宗庵は、北派の開祖となる古嶽宗亘が堺に滞在した時に創建した庵居であった。
 これを弘治3年(1557)三好長慶が南宗庵を拡張整備し龍興山南宗寺を開創し、大林宗套を開山として迎えている。そして以後南宗寺は三好氏との関係とともに大林宗套の法嗣となる笑嶺宗訢(南宗寺第2世)に継承されて行く。大林宗套は永禄11年(1568)81歳で入寂し、南宗寺開山塔に葬られる。後奈良天皇より仏印円証禅師の諡号を、そして正親天皇より正覚普通国師の号を賜っている。

 弘治永禄年間(1555~70)に第76世古嶽宗亘の法嗣である第102世江隠宗顯が創めた寮舎。大仙院でも記したように、「龍宝摘撮」では、祥林軒は清源庵、耕雲軒、東林庵とともに、大仙院の寮舎としている。元和年間(1615~24)に島崎籐右衛門が再興し、慶安年間(1648~52)第130世玉甫紹琮の法孫にあたる第170世清巌宗渭が高桐院の北隅に移建し、北派兼住で護持されてきた。
 江隠宗顯は、永正3年(1506)越前に生まれている。天文20年(1551)第102世として奉勅入寺している。また大仙院第2世も勤めている。弘治3年(1557)後奈良天皇より円智常照禅師の諡号を賜わり、大仙院住持として参内する。弟子をとることに厳しく、容易に掛塔を許さなかった。永禄4年(1561)に56歳で遷化。

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大徳寺 塔頭 大仙院 撮影2008年5月19日

「大徳寺 塔頭 その6」 の地図





大徳寺 塔頭 その6 のMarker List

No.名称緯度経度
21  大徳寺 大仙院 35.0445135.7457
22   大徳寺 栽松軒旧地 35.044135.7454
23   大徳寺 祥林軒旧地(移建) 35.0434135.744

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