勤王家殉難地
勤王家殉難地(きんのうかじゅんなんのち) 2009年12月9日訪問
小泉仁左衛門宅跡の東側を小畠川が流れる。もともと桂川の右岸の耕地を潤すための用水路であったため、それ程川幅は大きくない。山陰道に架けられた橋の上に勤王家殉難地の碑が建てられている。この碑については、フィールドミュージアム京都の記述が簡潔にして、詳しく説明されているのでご参照下さい。
嵯峨・天龍寺に布陣した国司信濃隊は、元治元年(1864)7月18日深夜に進軍を開始し、翌19日早朝には御所の西側の中立売門、蛤門そして下立売門周辺に集結した。中立売門を突破し御所内に侵入した長州藩軍も薩摩軍の援軍を受けた会津・桑名軍の反撃を受けて敗退する。国司信濃隊の出陣と福田理兵衛については天龍寺 その5と天龍寺 その6で既に記しているので、そちらをご参照下さい。 伏見に陣取った福原越後隊は、伏見街道を北上するものの大垣・彦根軍に伏見稲荷あたりで進軍を阻まれ、入京を果たせなかった。山崎宝積寺に布陣した益田右衛門介より真木和泉・久坂玄瑞が兵を率い、西国街道から九条通を経て堺町門に殺到する。なお「防長回天史 第五編」(マツノ書店 1991年復刻)第十四章 甲子七月十九日の変 には、西街道より進み松原通に出た後、柳馬場を北にして鷹司邸の裏門より兵の半数を入れるとある。既に国司信濃隊が敗走したため、真木和泉隊は御所を守る諸藩の攻撃を一手に受けることとなり、堺町門内の鷹司邸に立て籠もり反撃を試みるも遂に勝機を見出すことは出来なかった。久坂玄瑞、寺島忠三郎は鷹司邸内で自刃。再起を期すために脱出した入江九一も負傷し、自害している。
「京都時代MAP 幕末・維新編」(光村推古書院 2003年刊)では福原越後隊約700名、国司信濃隊約800名そして真木和泉隊約600名としている。これらの合計は2100名となる。石田孝喜氏の「幕末京都史跡辞典」(新人物往来社 2009年刊)でも、真木和泉隊の人数が記されていないものの、同じ数字が記されている。恐らく2000余の長州兵が参戦したと考えられる。明田鉄男氏の「幕末維新全殉難者名鑑」(新人物往来社 1986年刊)には双方の戦死者が記されているが、これらを数えると、当日の戦闘で戦死した長州兵は158名、傷を負い後で亡くなった者が94名。そして長州軍に参加した他藩の戦死者及び事変後に自害したものまで含めると29名、合わせて281名が亡くなっている。実に13%強の戦死率となっている。
これに対して守備側の被害は会津藩の58名、福井藩の20名を筆頭に、彦根藩11名、薩摩藩8名、桑名藩4名、淀藩2名そして幕府兵3名の計106名となる。京都守護職の会津藩はこの戦闘に1500名を出兵したとされているので、被害が集中(4%弱)するのは当然の結果であった。また会津藩や福井藩の戦死者に対して、薩摩藩や京都所司代の桑名藩の戦死者がそれ程多くないことに気が付く。
この戦闘が行われる前、京の周辺に長州兵が集結し始めた頃、下記のような布陣が諸藩に下っている。
伏見
一ノ先 戸田采女正氏彬 病気に付重臣名代 大垣藩
二ノ先 井伊掃部頭直憲 彦根藩
但シ掃部頭は禁闕を守るべし
且桃山は井伊家にて只今より取布べし
二ノ見 松平肥後守容保 会津藩
松平越中守定敬 桑名藩
但し職柄に付方面の諸軍を令し進退を司るべし
伏見長州屋敷へ入る
蒔田相模守廣孝 京見廻組々頭 備中浅尾藩
監事 御目付 某
但二ノ見に在りて諸軍に令を伝ふべし
遊兵 有馬遠江守道純 越前丸岡藩
小笠原大膳太夫忠幹 小倉藩
但伏見勝利の後戸田小笠原有馬の三手地形を爰に備へ
其余山崎の奇兵たるべし
八幡 松平伯耆守宗秀 丹波宮津藩
但事発せざる前に付八幡山取布事肝要也
山崎
先手 柳沢甲斐守保中 郡山藩
二ノ見 藤堂和泉守高猷 津藩
但し藤堂は八幡も心得べし
東寺 一橋中納言慶喜
本陣警護 会津藩
監軍 御目付 某
奇兵 細川越中守慶順 久留米藩
天龍寺
右一ノ先 島津修理太夫茂久 薩摩藩
右二ノ先 本多主膳正康穰 近江膳所藩
右二ノ見 松平越前守茂昭 越前藩
左一ノ先 大久保加賀守忠禮 小田原藩
左二ノ見 松平壱岐守勝成 豫州松山藩
洞ヶ峠 九鬼大隅守隆都 丹波綾部藩
織田山城守信氏 丹波柏原藩
坂本 栃木近江守綱張 丹波福知山藩
伏見土州屋敷
山内土佐守豊範 土佐藩
市中廻り 市橋下総守長和 近江仁正寺藩
長州対州屋敷押
前田筑前守慶寧 名代重役 加賀世子
監事 御目付 某
但二ノ見に在りて方面の諸軍へ令を伝ふべし
遊兵 青山因幡守忠敬 丹波篠山藩
締り役 前田筑前守慶寧 名代重役 加賀世子
但三條辺に在りて機に応じ応援すべし
豊後橋 間部卍治 越前鯖江藩
小出伊勢守英尚 丹波園部藩
但宇治橋も心得べし
老ヶ坂 松平豊前守信篤 丹波亀山藩
下加茂 仙石讃岐守久利 丹波仙石藩
上加茂 池田相模守慶徳 因幡藩
鷹ヶ峰 池田備前守茂政 備前藩
上加茂より川側手前
尾州勢
宮門
中立売門 築前藩
蛤門 会津藩
蛤門内南 藤堂藩
清和院門 加賀藩
下立売門 仙台藩
堺町門 越前藩
寺町門 肥後藩
石薬師門 阿波藩
今出川門 久留米藩
乾門 薩摩藩
宮門外
南門前 水戸藩
其東 尾張家老 渡辺飛騨守
公家門前 会津藩
台所門前 桑名藩
日門前 尾州藩
其南 紀州藩
其北 小田原藩
猿ヶ辻 岡藩
朔平門前 彦根藩
これは、「元治甲子禁門事変実歴談」(馬屋原二郎 防長学友会 1913年刊)や「京都守護職始末 旧会津藩老臣の手記2」(山川浩 東洋文庫60 平凡社 1966年刊)などに記されている。福原越後が伏見長州屋敷に入ったのが6月24日のことだった。ここから戦闘が行われるまで約1ヶ月の余裕があったため上記のような布陣が可能になったのだろう。
戦闘が行われた7月19日、上記には記載が無いものの樫原には小浜藩が出兵している。会津藩士・北原雅長による「七年史」(日本史籍協会 東京大学出版会 1904年刊 1978年覆刻)の甲子記二では前日の18日の出来事として下記のように記している。
中納言は、直に諸藩へ伝達ありて、諸侯参内し、
諸藩の人数馳参しければ、皆厳守衛を命ぜられけり。
当時諸軍の部署を定められしは、
稲荷山は、大垣、彦根とし、(中略)
郡山兵、山崎に當り、津兵、これに次き、
小浜兵は、樫木原に出て
また、桑名藩士で後に東京曙新聞社長、東京日日新聞主筆、そして東京通信社長を務めた岡本武雄による「王制復古戊辰始末」(金港堂 1888年刊)の巻1下では、小浜藩の出兵の目的を下記のように説明している。
酒井若狭守殿(小濱)は樫木原に押出して
天龍寺と山崎の間を押へ敵の糧道を経つべし
丹波路から長州へ落ちる敗残兵を掃討するため、丹波亀山藩が老ヶ坂を固めていた。その前に小浜藩兵100余名は、樫原の札の辻に大砲4門を据え屯所を設けて待ち構えていた。真木和泉隊に所属していた楳本僊之介、相良頼元そして相良新八郎が現れたため、この地で斬り合いとなった。奮戦したものの、多勢に無勢、ついには三人共斬り殺されている。小浜藩撤退後、三人の遺骸は岡村の住民によって村外れの丘に葬られた。小浜藩とは樫原で油商を営む小泉仁左衛門と組んで長州藩と交易を行った梅田雲浜の出身藩でもある。雲浜は嘉永5年(1852)7月に士籍を削られ浪人となり、安政の大獄で捕縛され、安政6年(1859)9月14日獄中で病死している。小浜藩が樫原の警備を担当したことは、恐らく偶然かと思われるが、何となく気になることでもある。
なお「幕末京都史跡辞典」(新人物往来社 2009年刊)には、三人は札の辻に辿りつく前、三宮神社御旅所前の家で甲冑を脱いでいる。そして村役人によって長州藩邸に届けられたとしている。三宮神社御旅所は樫原の町並みで取り上げた樫原札場の場所である。石田氏の記述が正しいならば、どの経路を取ったかは分からないが、三宮神社御旅所前に現れた三人は、ここで甲冑を捨て山陰街道を樫原の札の辻に戻ったことになる。もともと西国街道を北上し京に入った3人が違う道を敗走することは考え難い。道を誤って樫原に迷い込んだことも、長州藩に縁のある小泉仁左衛門を頼りに向った可能性も考えられる。
最後に碑について少し補足しておく。山陰道に面した南面に、「勤王家殉難之地 山陽之玄孫頼新書」そして裏側の北面に「昭和五十四年七月 財団法人京都養正社 沢田臼太郎 建之」とある。山陽之玄孫頼新とは頼山陽の5代目にあたる頼新が揮毫したという意味である。明治40年(1872)生まれで、財団法人・頼山陽旧跡保存会の理事長を勤め、山陽の遺蹟を守り継いできた。2009年に102歳で亡くなっており、現在は財団の代表者(http://nopodas.com/corp_detail1.asp?idx=10016374&corp_name_s=頼山陽旧跡保存会&corp_part_code_s=&area_code_s=&addr1_s=&corp_code_s=&metro_code_s=&public_work_kind_s=&public_work_part_s=&cn_code_s=&found_year_ad_s=&found_year_ad_s2=&found_month_s=&found_day_s=®ular_cost_s1=®ular_cost_s2=&confirm_year_ad_s=&confirm_month_s=&confirm_day_s=&homepage_s=&old_corp_name_s=&old_corp_part_code_s=&old_metro_code_s=&found_date_s=&found_date_e=&confirm_date_s=&confirm_date_e=&cont=&mode= : リンク先が無くなりました )を頼政忠氏が継いでいる。なお京都頼家は2代支峰(又二郎)、3代龍三(庫山)、4代久一郎、5代新を経て、6代目を頼政忠氏が守っている。 碑を建立した養正社は、明治9年(1876)内閣顧問木戸孝允と京都府権知事槙村正直が中心となり作った組織であり、現存(http://nopodas.com/corp_detail1.asp?idx=10016333&corp_name_s=&corp_part_code_s=&area_code_s=&addr1_s=&corp_code_s=&metro_code_s=&public_work_kind_s=&public_work_part_s=&cn_code_s=&found_year_ad_s=&found_month_s=&found_day_s=®ular_cost_s1=®ular_cost_s2=&confirm_year_ad_s=&confirm_month_s=&confirm_day_s=&homepage_s=&old_corp_name_s=&old_corp_part_code_s=&old_metro_code_s=&mode=&page= : リンク先が無くなりました )する。事業内容は明治維新直前の殉難志士の事跡調査、霊山招魂社の保存維持、資料収集等となっている。この2つの財団法人の主たる事務所の所在地が一致しているため、現在のところ頼家によって運営されているようだ。
この記事へのコメントはありません。