池大雅美術館 その2
池大雅美術館(いけのたいがびじゅつかん)その2 2009年12月20日訪問
池大雅美術館で記したように、池大雅の未亡人・玉瀾が没した天明4年(1784)に、大雅の門弟達が集まって大雅堂を東山の真葛ヶ原に建設している。その後、大雅堂は餘凪夜、月峰、清亮、定亮等によって護られてきた。しかし佐々木丞平氏が寄稿した「京を歩けば 祇園下河原〜雙林寺 ―大雅堂旧跡(https://vinfo06.at.webry.info/201403/article_1.html : リンク先が無くなりました )」(三洋化成ニュース 2011年春号)によると、明治30年代に京都府による公園整備のために解体されている。新たな土地に大雅堂の再建を考えていたようだが、結局のところ解体後の用材も朽ち果ててしまい消滅したとしている。 竹村俊則も「新撰京都名所圖會 巻一」(白川書院 1958年刊)で池大雅堂址として取り上げているが、後に増補した「昭和京都名所圖會 1洛東上」(駸々堂出版 1980年刊)の大雅堂址の説明は、ほぼ2ページを割いて池大雅の出自から真葛ヶ原に葛覃居を営んでいたこと、そして木下長嘯子の歌仙堂の遺構を譲り請けて大雅堂が建設されたことなども記されている。そして大雅堂が取り壊れたのは明治36年(1903)のこととしている。このあたりの記述は、碓井小三郎の「京都坊目誌」(新修 京都叢書 第17巻 京都坊目誌 下京 坤(光彩社 1969年刊))と一致している。
池大雅美術館が刊行した「大雅堂記」(池大雅美術館 1984年刊)には、大雅堂の詳しくその消息を知らせる資料がいくつか掲載されている。
第13図として明治6年(1873)1月15日の太政官達第16号が掲載されている。「人民輻輳ノ地ニ公園ヲ設ルヲ以テ地所ヲ撰擇稟候セシム」とあるように、寺社の境内地を主とした新たな都市公園の創設の布告である。これによって東京では浅草(金竜山浅草寺)、上野(東叡山寛永寺)、芝(三縁山増上寺)、深川(富岡八幡社)、飛鳥山が上申され5公園が生まれている。京都においては、八坂社清水ノ境内とあるように円山公園が造られる契機となった布告である。第14図として京都府が所蔵している双林寺境内を含む「地図、公園地実測六百分一」がある。拾遺都名所図会と同じ場所に「大雅堂 二百壹坪九合二勺」とその面積が記されている。 第18図として掲載されている写真は、大雅堂門前に立つ富岡鉄斎の姿を写したもので、その裏側には明治38年(1905)6月に大雅堂が移転した旨が記されている。そして第19図の「円山公園字双林寺内大雅堂建物取払跡修繕ニ際シ、大雅堂旧跡ヲ公免、記ヲ示テ為ニ別紙図面ノ如キ自然石ヲ以テ碑石建設可相成哉此段相伺候也」とあるように、京都市は大雅堂の跡を旧跡として認め自然石の記念碑を建てることを明治38年(1905)10月30日に起案し、31日に議決している。この自然石の記念碑とは、上記のように現在も残る「大雅堂旧跡」である。第20図には別紙とした記念碑の姿絵が残されている。
この碑は当初は第21図「記念碑建設の位置、大雅堂跡地東北隅」にあるように旧跡の東北隅に建てられた。しかし敷地南西隅の大木の中に「和光同塵」とともに移されたのは後世のことである。なお、「和光同塵」は拾遺都名所図会にも見られるように「大雅堂旧跡」の記念碑が建立される以前より敷地東北隅に存在していた。この碑の撰文は大雅と交遊のあった相国寺の大典禅師によるものである。その記文によると建立は安永丁酉之秋とあるので大雅が没した翌年の安永6年(1777)の秋ということとなる。相見繁一の「美術叢書第四編 池大雅」(美術叢書刊行会 1916年刊)によると、大雅が書き残した般若心経や遺墨を埋め、その上に遺墨に記されていた「和光同塵」を篆体で書いた碑を建てている。すなわち大雅堂が建てられる以前から、白山菊渓の側、双林寺中喜庵の庭中に作られてあった。それを大雅堂建設の際に堂の庭に移したと推測している。この碑の側には玉瀾の祖母の梶と母の百合の二尺あまりの歌碑が二基並べてあったが、現在は双林寺で保管されているようだ。
長々と池大雅と東山の大雅堂について書いてきたが話しを池大雅美術館に戻す。
京都新聞2009年11月28日の記事「池大雅の作品守り半世紀 西京の美術館 女性館長」によると、兵庫県姫路市で鉄工所を営んでいた佐々木米行は、戦前から収集してきた池大雅の作品を戦時中には防空壕に移すなどして守り続けてきた。そして昭和34年(1959)に現在の地に美術館を開館している。米行の娘のもと子氏も美術館に住み込み、学芸員資格を取って研究や美術館の運営にあたってきたことが分かる。なお東山の大雅堂の部分で引用した小文の筆者である佐々木丞平氏は米行の子息であり、もと子氏の弟にあたるようだ。池大雅美術館には収集品が140点あったが、米行が昭和60年(1985)に亡くなり、後を継いで館長となったもと子氏によって平成7年(1995)に重要文化財「柳下童子図」など85点を京都府に寄贈されている。
池大雅美術館については、佐々木米行が自ら記した「大雅美術館開く ―池大雅と三十年―」が芸術新潮1960年2月号に掲載されている。これは開館間もない頃に書かれたものである。既に青年時代より、大雅の遺作に触れ資料を読んで学んでいたことが分かる。昭和7年(1932)2月に父が亡くなり、家業を継いだ頃より蒐集が始まる。最初の作品は、「春来日漸長 酔客喜年光」の五絶書幅であった。義兄の土肥蒼樹の紹介により日本画家で大雅研究の人見少華を知り、師事したのが転機となっている。人見の紹介で良質の作品に出会えただけなく、人見の秘蔵品をも割愛され、米行のコレクションの基となっている。
さらに昭和26年(1951)の春に寺之内通千本東入ルの浄光寺にある大雅の墓を修理したことより、大雅堂三世月峰の曾孫に当たる霞邨凄亮に巡り会っている。大雅堂が現存していたら第六世となった人物である。既に大雅の遺品遺物の多くは散逸し、毎年7月17日の早天に清水寺に運び、音羽の瀧で清めたとされる大雅の念持仏・如意輪観世音仏と月峰が描いた大雅肖像とが残るのみであった。これらは霞邨から米行に譲られている。なお霞邨は1年後の昭和28年(1953)3月に市電に触れて亡くなっている。子がいなかったため、月峰以来の大雅堂守の血脈はここで途絶えている。
この2009年の訪問した時期にも、大雅の残りの作品や妻・玉瀾の作品を展示していたようだが、残念ながら開館時間前であったようで建物は閉ざされていた。その後、2014年1月12日付の産経新聞で「池大雅美術館閉館 58作品、府立総合資料館に寄贈」という記事を目にした。開館半世紀の節目を目指して取り組んできた図録作りが完成したのであろうか、今後の作品の散逸を防ぐために残りの作品を府に寄贈した旨が記されている。個人が美術館を開館し、それを長く維持運営し、さらに作品を散逸させないという事は、単に資金力だけの問題でないことが良く分かる。先に紹介した「大雅美術館開く」では、大雅堂が凡そ120年位の歴史を以て姿を消したのに対して、「池大雅美術館は出来得る限り永い歴史を持たしめたいと念じている。」と佐々木米行は記している。そのために個人の所有から財団法人組織への移行を計っている。
日本美術工芸の昭和37年(1962)2月号に掲載された「続・美術館めぐり7 池大雅美術館」で、美術評論家で大阪芸術大学名誉教授を勤めた村松寛は、金本耕三による耕三寺とともに財閥でも経済界の大物でもない個人が建てた美術館の稀有な例として賞賛している。さらに耕三寺と比べ、「美術館としては大雅美術館の方が小なりと雖もずっと筋が通っているといえよう。」と評している。それでも米行の夢が果たせなかったのは残念なことではあるが、村松寛の言うように一般の民間人がこのような施設を公共に開放できたことを忘れてはいけないと思う。
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