御髪神社
御髪神社(みかみじんじゃ) 2009年12月20日訪問
大河内山荘から北に向かって進む。JR西日本山陰本線のトンネル上を越え、トロッコ嵐山駅に出るところで道が分岐する。左手に小倉池が広がる。既に3時近くになり日が傾き、池面に山の影が落ち始めていた。人出はあるもののなんとなく薄寒い感じのする場所である。御髪神社はこの小倉池の西岸にある。トロッコ嵐山駅から落柿舎や常寂光寺、二尊院に向かう観光客は池の東岸を進むため、比較的人通りの多い場所の近くにあるにも係わらず訪れる人があまり多くないのかもしれない。そのため参道の入口には「奉納 御髪神社」の幟が何旒も立てられ、御髪神社の謂れを記した駒札が設置されている。雨露に晒され、少し読みにくくなっているが、なかなか面白い文章なので下記に記しておく。
御髪神社は日本唯一の髪の神社です
皆様もっと美しくなりませんか もっと豊かになりませんか
皆様古(いにしえ)から女性の命と言われてきました
男性も同じで髪の形を変えるだけでイメージを
大きく変わることを想像すれば納得されるでしょう
髪は皆様の頭を守ってくれているヘルメットの変わりです。
御客様の大切な髪により生活の糧としている業種の方々は
皆様に対する日々の感謝の心をこめて、又健康、長寿を
祈願致しましょう
御髪神社は理容、美容、洗髪剤、育毛剤、毛染カツラ等
髪に関係する業を始祖を祭神とする神社です
神官
鳥居の脇に掲げられた由緒によると、祭神は従五位 藤原采女亮政之公。
長谷川金左衛門が大正14年(1925)に纏めた「日本帝国理髪歴史誉之栞」(日本帝国理髪歴史宝讃会 1925年刊)によると藤原采女亮政之とは藤原鎌足の末裔・北小路左衛尉藤原晴基の三男。弘長元年(1261)毎年恒例の御宝庫の虫干しの際、宝物の内数点の紛失が発見される。上官の大江某は島原への遠島、晴基は職を免ぜられ富之小路屋敷を立ち退くこととなった。長男の大内蔵亮元勝は反物商、次男の元春は染物師となり、晴基は三男の采女亮を連れて文永2年(1265)失われた宝物の捜索に出た。丹波・但馬・因幡を経て文永5年(1268)9月10日に長門国下関に到着している。前年の文永4年(1267)に高麗の使者がモンゴル帝国クビライの国書を持ち来航している。まさに下関は軍備の真最中、朝鮮との開戦の直前であった。この地で采女亮は新羅人より髪結法を教わり、父の扶養を行うため文永5年12月17日に髪結を始めている。これが日本における髪結の最初とされている。 采女亮の店の内には幅三尺丈五尺三寸の床之間を設け歴代天皇の御霊を祭祀していた。現在の床屋という名称はこの床之間から来ている。父晴基は弘安元年(1278)8月16日に没すると、翌日采女亮は荼毘に付している。このことより、毎月17日は理髪師の先祖の霊魂を祀るための休日となった。正安2年(1300)采女亮は宝物の手掛かりを見つけることなく下関を後にして京に戻る。京で2人の兄に再会した采女亮は戦乱の京には定住せず、大和、摂津、近江国を遍歴し手掛かりを求めた。
さらに長谷川は元応2年(1320)には後醍醐天皇が比叡山延暦寺に逃れ、執権の北条高時と戦に及んだと記している。采女亮は3月17日に鎌倉に向けて京を発った。戦争の最中であったため鎌倉に到着したのは実に10月中旬であった。鎌倉には長男の藤七郎がおり、采女亮は元応3年(1321)より鎌倉で髪結を始めている。しかし後醍醐天皇が隠岐に配流されたのは元弘2年(1332)であるので、もしかしたら元応と元弘という年号の記述に誤りがあるのかもしれない。
この後、采女亮は建武2年(1335)7月17日に85歳で鎌倉で亡くなっている。病死とも殉死あるいは戦死とも謂われている。この年の7月に護良親王(大塔宮)が足利直義によって殺害されているので、これに関係したとされている。采女亮の死後も藤七郎は父の業を継ぎ大塔宮の墓を護っている。藤原采女亮の一族は代々藤七郎を襲名する。元亀3年(1572)12月23日、三方ヶ原の戦いに敗れた家康の天竜川渡河の手助けを、藤七郎が行っている。その褒美として銀一銭佩刀一口そして徳川の天下となった暁には望みを適えるという御墨付が下される。
長谷川金左衛門は「日本帝国理髪歴史誉之栞」の中で、徳川秀忠、家光、家綱などの歴代将軍を始めとし、水戸光圀、大岡越前などと藤七郎の子孫との関係を延々と記述している。序文において、この600年近くに及ぶ壮大な歴史ドラマを書くにあたって、その基となるべき参考資料は既に失われ、「史実を古老の言にきゝ、史実を探りて漸く理髪道の歴史を完成せり 其の実蹟たるや極めて他職に対して誇るに足るの者歴然たる事」と記述している。恐らく、長谷川は各地に伝わる「一銭職由緒書」という史料をもとにこの歴史物語を綴ったと推測される。江戸時代にある種の特権を得ていた髪結を代々勤める家には、その由来を記したものが残されていたようだ。
藤原采女亮の父・晴基は弘安元年(1278)に下関で亡くなり、当地に葬られている。現在、下関市にある亀山八幡宮の境内には、全国の理容関係者の醵金によって建立された床屋発祥の記念碑がある。平成7年(1995)7月17日に除幕されている。下関理容美容専修学校長の小野孝策氏の研究成果を下関美容組合がまとめた記念碑建立パンフレットが配布されている。ここに記されている藤原采女亮の経歴は、ほぼ長谷川金左衛門が記した「日本帝国理髪歴史誉之栞」と同じものである。
さらに小野氏は「床屋の歴史にロマンを求めて 床屋の発祥地は下関」(海虹 2000年刊)を出版している。この書籍については国立国会図書館に収蔵されていることは確認したものの、未だ実物を見ていないので、その内容について触れることはできません。
山太娘さんが管理されているおちゃっぴぃ(http://www.geocities.jp/ochappy_l/index.html : リンク先が無くなりました )に、長門に伝わる蒙古襲来伝承を記した元寇長門襲来説(http://www.geocities.jp/ochappy_l/genko/g_index.html : リンク先が無くなりました )が掲載されている。この中で山太娘さんは蒙古襲来と同時期のことを記した「髪結職分由緒書(http://www.geocities.jp/ochappy_l/genko/s_8/kamiyui_01.html : リンク先が無くなりました )」と「職分由緒書之事(http://www.geocities.jp/ochappy_l/genko/s_8/kamiyui_02.html : リンク先が無くなりました )」についても考察されている。確かに山太娘さんが指摘するように、髪結の発展の歴史を史実として捉えるならば、先ずは藤原基晴の実在を証明することが必要となる。どうも「髪結職分由緒書」等がありきで、その内容に関して無批判のまま藤原采女亮の経歴を構築している点に不自然さを感じる。
京都新聞の観光アーカイブの「ふるさと昔語り(http://www.kyoto-np.co.jp/info/sightseeing/mukasikatari/index.html : リンク先が無くなりました )」の中に(166)御髪神社(京都市右京区)(http://www.kyoto-np.co.jp/info/sightseeing/mukasikatari/071011.html : リンク先が無くなりました )がある。ここには御髪神社が昭和36年(1961)に京都市の理美容業界関係者らが、基晴に縁のある亀山天皇の御陵近くに髪を収める髪塚を設けて、創建されたと記述されている。その後も業界関係者らが社殿を建立し境内を整備している。また理美容ニュースの2009年10月12日のニュースには、全国理容生活衛生同業組合連合会によって御髪神社に新たな記念碑が建立されることを知らせている。
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