京都御苑 近衛邸跡 その5
京都御苑 近衛邸跡(きょうとぎょえん このえていあと)その5 2010年1月17日訪問
月照に続いては近衛家の老女で有志達と堂上方の調整役を果たした津崎矩子、すなわち村岡局について見て行く。
梅田雲浜が西郷吉之助と伊地知正治に送った安政5年(1858)2月29日と考えられている書簡(「西郷隆盛全集 第五巻」(大和書房 1979年刊)の三)に近衛家の老女・津崎矩子村岡が出てくる。
陽明家は御手を廻され候や。彼の家中大夫皆愚物のよし、老女村岡と申す婆これあり、此の人物欲は深く候得共、理非の能く分かり候器量者にて、女丈夫也。陽明家の清少納言と申し、此の者の事をば、左府公能く御聞き遊ばされ候て、御従いのよし、是は何とか御手を廻し候わば、貴意能く通り申すべく候。
この書簡は「春日潜庵伝」の所収されているもので、年月を欠いているが「西郷隆盛全集」では安政5年2月(「春日潜庵伝」では安政5年3月)としている。この頃、西郷は江戸にあり、3月には天璋院の近衛忠煕に贈る書簡を携え京に入り、密勅降下と将軍継嗣問題のために奔走している。梅田は近衛家周旋のために村岡を紹介しているが、西郷は既に面識があったのではないかと思われる。
村岡は天明6年(1786)嵯峨大覚寺の臣津崎左京の娘として生まれている。寛政10年(1798)より近衛家に仕え、中臈を経て老女となり村岡局と称した。京都府編「先賢遺芳」(京都府教化団体聯合会 1927年刊)には、天保11年(1841)正月27日に中臈おより他2名を従えて江戸に下った直指庵所有の日記の一部が掲載されている。清水家への御内用という名目ではあったが、徳川家斉の御台所茂姫様西丸へ御移徒御祝儀、右大将様御前髪被レ為レ執候御祝儀の為の下向であった。途中で尾張家へ立ち寄り、江ノ島、鎌倉に遊び2月17日に芝田町の御浜屋敷に入っている。そして3月2日に第11代将軍家斉に対面を果たしている。家斉は天保8年(1837)4月に二男の家慶に将軍職を譲っているので、大御所であった。 「茂姫様西丸へ御移徒」とは家斉に従い茂姫も西丸に入ったことを意味している。なお家斉は天保12年(1841)閏1月7日に死去しているので最晩年の対面となった。村岡は4月13日に江戸を発ち中仙道を経て善光寺への御参りも果たし無事に京に戻っている。家斉の御台所となった茂姫は薩摩藩8代藩主・島津重豪の娘で、名は寧姫、篤姫、茂姫。近衛家の養子となり養父の近衛経熙は忠煕の祖父にあたる。後に天璋院が篤姫を名乗ったのは広大院にあやかったものである。また、村岡は安政3年(1856)11月の篤姫入輿の際にも71歳の養母として江戸に下っている。この年、西郷も江戸にて入輿の準備のために奔走していたので、何らかの接点があったのかもしれない。
遂に村岡にも安政の大獄の影が及んだのは、安政6年(1859)正月7日の京都町奉行所からの召喚である。2月25日に三条家諸大夫森寺因幡守、同丹羽豊前守、同家士富田織部、一条家諸大夫入江雅楽頭、同若松杢権頭、久我家諸大夫春日讃岐守、御蔵小舎人山科出雲守、大覚寺門跡家士六物空萬等と共に江戸に送られる。3月24日に到着し江戸での取調べが行われ、同年8月28日に至り下記のような宣告が成された。「野史台 維新史料叢書 雑7」(東京大学出版会 1975年刊)の安政義獄による。
近衛殿老女 村岡 歳未詳
其方儀 兼々主家へ館入致清水寺成就院隠居忍向引付を以 水戸殿家来鵜飼吉左衛門倅幸吉致二面会一候節 同人儀水戸前中納言殿 其外御慎御隠居等 被二仰出一候次第を被レ嘆 主家御取持を以 右御方之御慎解相成候様致二内願一置候間 猶取成之儀願候旨申聞るならハ 如何之儀と心付 取合申間敷候処 其儀無レ之 幸吉申聞次第 主家へ申立 右一条に付 幸吉より忍向之内状 其方へ向 差越候間 主家へ取次 差出可レ呉旨 幸吉頼と承り 追て同人方より上書小札其方宛にて 岩波と認有レ之文箱差越候を 右に有レ之 忍向変名月照之文通を 同人罷越候節相達 又ハ主家へ取次差出始末 幸吉等へ馴合筋ハ無レ之候共
右始末不埒に付 押込申付もの也
一 水戸殿御家来鵜飼吉左衛門儀は、此者遠縁有之候得共、是迄面会いたし候儀無之。音信通路等も不致候処
「近世日本国民史 安政大獄 後篇」に掲載されている津崎村岡に対する擬律を下記に記す。
近衛殿老女 むら岡
右差当り相当之例、相見不レ申、寛政十一未年 、小田切土佐守町奉行之節、伺之上御仕置申付候田安支配勘定田中喜三郎儀、知人大阪順慶町町人達三郎金銀貸付之儀に付、志願之趣申聞候節、右體之儀は、佐保山周助功之由、田中伴四郎申聞候儀も有レ之候迚、伴四郎方へ申通、周助を呼寄せ、達三郎と引合せし、殊帯刀人之身分に不レ預、右體之儀、彼是世話いたし遣り候段、不埒に付、五十日押込申付候類例に見合、此もの身分に不レ預儀を取次いたし候迄に而、例より品軽く御坐候間、三十日押込と御咎付仕候。
これは村岡が前将軍家定御台所天璋院の養母として江戸城に入場したための寛典と考えても良いだろう。同日に処罰された水戸藩士・茅根伊代之介を遠島から死罪に、水戸藩士・鮎澤伊太夫の中追放を遠島に、鷹司諸大夫小林良典を重追放から遠島に、儒学者・池内陶所の洛中洛外御構いを中追放にしたのは井伊大老の差配とされている。特に水戸藩家老・安島帯刀の切腹は大老の専横といっても良いだろう。その中で村岡がこの程度の処罰に留まったのは幕府内部からの圧力以外には考えられない。この頃、村岡は以下のように詠じている。自らの力では助かりようのないことを思った歌である。
おぼろ月思ひの外にくもはれて
つきに一声なくほととぎす
村岡は京に戻った後、程なくして近衛家を辞して、生まれ故郷嵯峨の直指庵に入り、庵の再興に力を注ぐ。明治5年(1872)には政府より維新の功績が認められ、賞典禄二十石が下賜されている。明治6年(1873)8月23日に死去。享年88。明治24年(1891)12月17日には従四位が贈られている。近衛忠煕隷額、重野安繹撰並書で明治24年(1891)3月建立の故津崎村岡刀自碑が大沢の池の畔の望雲亭にある。 また、嵐山亀山公園内の村岡局像は、昭和3年(1928)に昭和御大典記念事業として嵯峨町婦人会によって建立されたものである。
安政6年(1859)1月10日に左大臣・近衛忠煕、右大臣・鷹司輔熙が辞官落飾、太閤・鷹司政通と前内大臣・三条実萬が落飾を願い出ている。この四公落飾一件に決着が付いたのは、4月22日の勅許によってである。四公落飾に3ヶ月余りの時間を要したのは、主上を中心とした寛典活動が行われたためである。この後、参内が許されるのは文久2年(1862)4月30日と3年を経ていた。同日、入れ替わるように九条尚忠が関白と内覧の辞退を申し出ている。そして5月29日に薨去した三条実萬を除く、鷹司政通、近衛忠煕、鷹司輔熙に復飾が命じられる。鷹司政通は高齢を理由に辞退している。さらに6月23日に九条尚忠が関白から退き、近衛忠煕が関白、内覧の宣旨を賜っている。左大臣は安政6年(1859)3月28日に就任した一条忠香が留任した。なお文久2年(1862)1月4日に右大臣・二条斉敬、内大臣・久我建通が任じられている。
既に長州藩士、土佐藩士による過激な政治活動を背景とした三条実美、姉小路公知等の激派公卿によって宮廷政治は完全に牛耳られ、青蓮院宮、近衛忠煕及び薩摩藩が主張する公武合体策を実行する余地は無かった。文久3年(1863)正月12日、前年12月9日に制定された国事御用掛16名の内、左大臣・一条忠香、右大臣・二条斉敬、内大臣・徳大寺公純、青蓮院宮、鷹司輔熙、近衛忠房、一条実良が辞職している。そして同月23日に近衛忠煕が関白を鷹司輔熙に譲っている。さらに3月25日には内覧も辞している。この後の近衛家の政治活動は忠房が担うこととなる。忠煕は明治初年も京都にあった。東京に移ったのは忠房が36歳で亡くなった後の明治11年(1878)である。明治31年(1898年)3月18日、薨去。享年91。
近衛忠房が内大臣となったのは、文久3年(1863)12月23日のことである。この日、鷹司輔熙が関白を辞している。同年に起きた八月十八日の政変において、鷹司関白が長州派の意見を持っていたため、島津久光の建言によって関白を罷免されている。関白及び左大臣に二条斉敬、右大臣に徳大寺公純が任じられている。慶応3年(1867)9月27日に摂政・二条斉敬の左大臣を忠房が引き継いでいる。同日、右大臣の徳大寺公純が辞職し、右大臣に一条実良、内大臣に大炊御門家信が就いている。しかし同年11月30日には右大臣・一条実良と共に忠房は左大臣を辞している。王政復古の前夜のことである。今まで宮廷政治を主導してきた公武合体派あるいは穏健派の退場の時期でもあった。忠房は五摂家による特権が漸次削減されて行き、岩倉と結んだ中山忠能や正親町三条実愛等が勢力を拡張してきたことを実感していたことと思う。徳富蘇峰の「近世日本国民史 皇政復古篇」(時事通信社出版局 1963年刊)に忠房が辞職3日前に朝彦親王に贈った書簡の一部分が掲載されているので引用(久邇宮文書)しておく。
摂関一列の沈淪、口惜しき次第なり。此末は誰か三公に昇進せんも計り難し。朝威衰頽して、強き者の勝つべき世の中となりて、規則、修理の立たざるは嘆ずべく、此先の形勢、深く案ぜられぬ。定めて、中山、正親町三条は勿論、山階宮、帥宮など大出頭せん。恐るべし。恐るべし。
忠房の予想とは少し異なり、二条摂政は続投、左大臣に九条道孝、右大臣には内大臣の大炊御門家信が移り、広幡忠礼が内大臣に就いている。しかしこの人事も12月9日の王政復古によって、総裁・議定・参与の三職に移行するまでの一時的なものであった。忠房に下された沙汰は「復古記 第一冊」(内外書籍 1930年刊)によると以下の通りであった。
御沙汰有之候迄、参朝被止候事、王政復古ニ付、国事掛自今被廃候事、勅問御人数被止候事。
このように国事掛を免じられ御沙汰あるまでは参朝が停止されている。しかし参朝は慶応4年(1868)正月16日に許されている。
なお九条道孝、大炊御門家信、近衛忠煕、鷹司輔熙、徳大寺公純、一條実良、広幡忠禮、日野資宗、柳原光愛、広橋胤保、飛鳥井雅典、葉室長順、六條有容、野宮定功、久世通煕、豊岡随資、伏原宣諭、裏辻公愛も同日に許されている。近衛忠房は2月2日には神祇事務総督に任じられ、2月20日には議定職刑法事務局督となっている。世襲廃止後の最初の伊勢神宮祭主を務めたが、明治6年(1873)7月16日に逝去。享年36。
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