梨木神社 その3
梨木神社(なしのきじんじゃ)その3 2010年1月17日訪問
梨木神社 その2では、三条実萬、実美父子の事蹟を書いて行く上で参考とすべき史料から始め、安政の大獄の契機となった継嗣問題について書いてきた。この中で、天璋院入輿と将軍継嗣問題の関係について、「どちらが後か先かは判別が難しい」と記した。一般的には、島津斉彬によって将軍継嗣問題の打開策として天璋院入輿が行われたとされている。確かに御台所となった篤姫は一橋慶喜を儲君とすべく大奥において活動したことは事実である。しかし将軍家からの縁組申し入れ当初から継嗣問題が存在したわけではなかったようだ。この項では安政の大獄の引き金となった継嗣問題について少し書いてみることとする。そのため梨木神社や三条家から少し離れた内容となるだろう。
芳即正編の「天璋院篤姫のすべて」(新人物往来社 2007年刊)は、2008年に放映されたNHK大河ドラマ「篤姫」に合わせて出版された書籍の一つではあるが、尚古集成館元館長で長年に渡り鹿児島県史料の編纂してきた芳即正が編集しただけに、史実に沿った中身の濃いものとなっている。同書に所収されている芳の「篤姫とその時代」や松尾千歳氏の「篤姫の結婚」に拠れば、島津家から将軍家への入輿の話は既に嘉永3年(1850)頃より存在していた。斉彬が伊予宇和島藩主の伊達宗城に宛てた嘉永3年(1850)11月7日付の書の中で、以下のように記している。
(別紙三)
「藍山君 書添 麟洲拝」
別啓、来々年に候へは、例之西簾之事太差支も相見得申候、此は貴所様へ計り御内々奉申上候、以上、
七日
一老人故、仲へ逢候前ニ しかと御取固メ、可然奉願候事、
「島津斉彬文書 中巻」(吉川弘文館 1963年刊)に 91 十一月七日 伊達宗城並南部信順への書翰 として所収されている長文の書簡の最後に書き記されている。宗城とともに送っている南部信順とは、島津重豪の14男として生まれ、八戸藩の第8代藩主・南部信真の婿養子となり、天保13年(1842)に家督を相続している。つまり斉彬にとって叔父にあたり、実兄で筑前福岡藩第11代藩主・黒田斉溥と共に斉彬の藩主擁立に尽力した人物でもある。藍山君とは伊達宗城のことであるので、この部分は宗城だけに伝えたかったのであろう。この時期、斉彬は南部信順と伊達宗城との書簡のやりとりが頻繁に行われている。高崎崩れを経て、斉彬が第11代薩摩藩主に就任するのは嘉永4年(1851)の2月2日のことである。藩主になる以前から斉彬の便宜を図ったのは伊達宗城であり、叔父の黒田斉溥、そして老中の阿部正弘であった。
斉彬の書簡にある西簾とは江戸城西の丸の夫人を指す。元々西の丸は隠居した将軍か次期将軍が住まう場所とされており、この当時は後に将軍となる徳川家定の住まいとなっていた。そのため西簾とは独身の家定の夫人のことを意味する。そして斉彬の父である島津斉興の隠居が来々年に延びると入輿に影響を及ぼすという危惧を抱いていたことが分かる。しかしこの年の11月29日か晦日に隠居願いを出すことになったため、どうやら斉彬が心配していた障害は取り除かれたようだ。
松尾氏は「篤姫の結婚」の文中で芳の論文「天璋院入輿は本来継嗣問題と無関係 -島津斉彬の証言に聞く(研究余録)」(日本歴史(吉川弘文館)1994年4月刊)を挙げ、これに基づいて書いたと記している。つまり天璋院入輿の直接的な理由が将軍継嗣問題ではなかったする説は既に20年以上前に芳即正によって提唱されていたものである。それでも大河ドラマ等でも積極的に取り上げていないのには、入輿は将軍継嗣問題を一橋派にとって有利に進める目的で行われたとする方が複雑な幕末政治を説明する上で簡単であり、天璋院の生涯としてもドラマ性が高まるからであろうか。
徳川将軍家と島津家との関係は、毛利家の場合とは少し異なっている。西軍の総大将に就いた毛利輝元はほとんど戦闘を行うことなく本国へ撤退している。そして担ぎ上げられて就任した大将であったという弁明をしたものの、責任を問われ改易は免れたものの周防国・長門国に減封されている。一方、やはり西軍に属した島津義弘は伊勢街道で壮絶な撤退戦を繰り広げ、命からがら帰国を果たしている。敗戦後の島津氏は武備恭順路線を堅持し、最終的には討伐軍の撤退そして慶長7年(1602)には家康が本領安堵を決定している。ほとんど抵抗することがなかった毛利氏が減封され、撤退戦とはいえども関が原の戦いにおいて敵対した島津家は、その武力的な存在感を示すことによって安堵を得たということである。
島津家が徳川家より得たものは単に所領の安堵だけではなかった。東南アジアでの朱印船貿易における朱印状の下賜も他の大名と比べても多かった。そして15代の将軍の内、二代の正室が島津家から迎え入れられている。つまり経済的に優遇するとともに姻戚関係の構築も成されている。これにより島津家の藩主は、12代の忠義を除き全て将軍から諱を賜っている。例えば初代島津藩主の家久は家康から家の字を慶長11年(1606)に賜っている。また2代光久以降は徳川家ゆかりの松平姓も許されている。このため島津藩主は松平薩摩守を称することとなっている。
さらに第8代将軍徳川吉宗の御内意により、島津藩5代藩主継豊の継室に将軍家養女竹姫(浄岸院)を迎えることとなる。竹姫は清閑寺大納言熈定の女で、宝永5年(1708)徳川綱吉の養女となり、同年7月には会津藩主松平正容の嫡男久千代と婚約している。しかし同年12月に久千代夭折したため、宝永7年(1710)11月に有栖川宮正仁親王と再び婚約を行っている。その正仁親王も享保元年(1716)婚儀を目前にして早世している。竹姫にとって二度も婚約者を亡くすこととなった。吉宗にとって綱吉の養女であった竹姫は大叔母に当たるため、自らの継室にすることもできず竹姫の嫁ぎ先を探していた。御内意とはいえども実質的には上意によるもので、島津家にとっと辞退できるのではなかった。将軍家の養女を迎えるという経済的な問題や嫡男(側室於嘉久の子の益之助、後の第6代藩主・宗信)もあり、当初反発した島津家ではあったが、将軍家よりの条件緩和により官位昇進や幕府のからの厚遇を引き出すことができるようになった。これにより島津家の婚姻政策も大きく変わって行った。一般的に外様大名に対する徳川家の政策は過酷を極めたと謂われているが、島津家に対する処遇からも、かなり柔軟性を持った運用が成されていたことが分かる。
嫡男益之助が藩主となり島津宗信を称すると、養母である竹姫は尾張徳川家より房姫を迎えたが、寛永元年(1748)に若くして亡くなっている。翌2年(1749)房姫の妹嘉知姫との婚約を行うが、今度は宗信が22歳の若さで逝去している。御三家との婚姻関係は築けなかったものの徳川家との関係を深めて行く道筋は出来上がってきた。家臣の娘を正室とした第7代島津重年も若くして逝去し、弟の重豪が第8代藩主に就任している。再び竹姫の計らいで一橋徳川家より保姫を迎えたが子供がないまま姫は亡くなっている。そのため重豪の継室に公家の甘露寺大納言規長の女・綾姫を迎えている。一見すると徳川家と関係ない婚姻にも見えるが、竹姫の実父である清閑寺大納言熈定の弟の万里小路尚房の孫にあたる。これも竹姫による徳川家あるいは自らの出身と島津家との結びつきを絶やさないようにする上での処置あったのであろう。そして竹姫は重豪に娘が誕生したら徳川家との縁組をすることを遺言として安永元年(1772)に逝去している。
浄岸院竹姫の死去の翌年の安永2年(1773)、側室・慈光院に於篤(あるいは篤姫)が鹿児島で生まれている。於篤は薩摩で養育され、3歳の時に一橋治済の嫡男・豊千代と婚約、薩摩から江戸に呼び寄せられている。その際に名を於篤から茂姫に改めている。茂姫は婚約に伴い、芝三田の薩摩藩上屋敷から江戸城内の一橋邸に移り住み、「御縁女様」と称されて婚約者の豊千代と共に養育される。
安永8年(1779)に第10代将軍徳川家治の嫡男徳川家基が死去している。幼年期より聡明で文武両道の才能を見せた家基は鷹狩りの帰りに立ち寄った品川の東海寺で突然体の不調を訴え、三日後に死去している。享年18。あまりにも突然の死であったため、田沼意次あるいは徳川治済による毒殺説も囁かれている。実子を失った将軍家治は、天明元年(1781)豊千代を養子とした。豊千代は江戸城西の丸に入り家斉と称し、天明6年(1786)の家治の急逝により、天明7年(1787)に第11代将軍に就任している。これにより一橋徳川家の当主の正室であった茂姫は、急遽御台所となるために近衛家の養女となることが幕府から求められた。つまり形式的には近衛家養女が将軍家斉に入輿したということになる。
第13代将軍徳川家定の正室を再び薩摩から迎えることとなった経緯には、幕閣及び大奥での茂姫に対する評価が高かったこと、茂姫(広大院)の子孫が長命で繁栄したことが大きな影響を与えている。家定の正室としては、既に文政11年(1828)に納采し、天保2年(1831)に入輿した関白鷹司政煕の女で兄の関白鷹司政通の養女となった鷹司任子、そして嘉永元年(1848)納采、翌嘉永2年(1849)婚姻した関白一条忠良の女・一条秀子が存在している。しかし任子は嘉永元年(1848)、そして秀子も嘉永3年(1850)6月10日に相次いで逝去している。つまり薩摩から正室を迎える動きが生じたのは2番目の正室であった一条秀子が亡くなった年のことであり、健康な世子を望んで既に大名家からの入輿の前例のある薩摩に申し入れたことが分かる。
天璋院篤姫の入輿の準備を見てゆくと茂姫の時とほぼ同じ形で行われたことが分かる。異なった点としては茂姫が側室の子とはいえ藩主の実子であったことに対して、篤姫は島津斉彬の子ではなく今和泉島津家の当主・島津忠剛の長女であったことであろう。忠剛は第9代藩主の島津斉宣の子であり、斉彬の父である斉興とは兄弟である。つまり斉彬と篤姫は従兄妹関係となる。斉彬は徳川家定の正室には島津家藩主の実子でないといけないと考え、篤姫を自分の娘であると偽っていた形跡が残されている。嘉永4年(1851)4月上旬に宇和島藩主・伊達宗城に送った書簡(本文は失われている)に下記のような一文が残されている。
「内容書そゑ「薩娘の事」」
無拠訳ニて一門江遣候義は、其比初之丞様御養子之恐れ有之、娘有之候ては猶更との事ニて、極密ニ相成候事ニ御座候、猶拝眉可申上候、以上、
一行目には「奥封ウハ書」と「宗城筆」とあるので、これは宗城が後に記したという意味であろう。初之丞様とは文政8年(1825)に第12代将軍・徳川家慶の五男として生まれた徳川慶昌のことで、天保3年(1832)に広大院経由で斉彬の養子縁組が申し入れられている。初之丞は第13代将軍となる徳川家定の弟にあたる。そのため斉彬に実娘がいたら「猶更との事」になると記している。島津家は縁組を徳川家康の故事を持ち出して辞退したため、天保8年(1837)初之丞は一橋家に入り第6代当主となるが、翌年に逝去している。ちなみに一橋家はこの後の二代も養子を迎え、第9代が徳川慶喜となる。
一 此節国元出生之女子壱人、江戸出生之女子壱人、妻養之御届仕候処、右は国元ニ罷在候娘は、先年始下向之節出生仕候処、其節無拠訳合有之、一門娘之姿ニいたし<預ケ置、一門方ニて自分娘之弘メいたし置候処、此節少々内存之義も有之候故、表向弘メ致、妻之養之御届仕り、当秋比出府為仕候筈ニ御座候、是迄極秘ニいたし御座候間、人々実正疑惑も可仕候得共、実前文通之訳ニて、一門娘ニいたし置事ニ御座候間、極御内々申置候、万一人尋候ハヽ、御含ニて御はなし奉願候、名は篤と申候、江戸出生之娘は名暐、右之通りニて、両人共同腹ニ御座候間、御内々御はなし置申上候事、
斉彬は天保6年(1835)の帰国の時に国元で実娘を産ませたが、将軍家との養子縁組のため一門、すなわち今和泉領主の島津忠剛に預け遣ったとしている。そのような理由があった娘を将軍家入輿のために、実子として届け出たという内容である。縁組の話は天保3年(1832)のことであり、篤姫の誕生年と合っていないことは明白である。書簡は下記のように結んでいる。
一 極密は御存之通り安藝娘ニ候得共、云々故、いつ方迄も実之処ニ申候筈、此節方々ニて承り候もの御座候間、此段申上候間、前文之趣ニて御含奉願候、以上、
御一条、未タ黒白不相分候得共、吉之方七分位之様子ニ相成申候、御内々奉願候、以上、
建前は実子ではあるが御存知の通り安芸すなわち島津忠剛の娘であると真実を記している。この辺りから篤姫実子説が出ているようだ。松平春嶽が明治3年(1870)より起稿し10年掛けて纏めた「逸事史補」(「幕末維新史料叢書 4」(人物往来社 1968年刊))に「島津家の内訌」として天璋院の出自について2つの話を記している。一つは上記のように国元に帰った際に生まれた実女であり、二つ目は自らの妹を養女として届けたとしている。その上で「末家の女を養女になせし事は、深く秘する所なり。」としているので、春嶽も篤姫の出自を知った上で当時の噂を書いているように見える。
続けて春嶽は篤姫入輿の目的を、「幕府の威権を借りて、前述せしゆら並久光を圧倒し、其党をも鎮定せんため」と記している。これに対して芳は「天璋院入輿は本来継嗣問題と無関係」で、琉球問題の解決のために幕府の力が必要だと考え行ったことと見ている。弘化元年(1844)3月フランス軍艦が琉球に寄航し開国を要求している。同3年(1846)4月には遂にイギリスも開国要求を表明している。斉彬は同年6月に琉球問題解決の幕命を以って帰国している。幕府に対して警備兵派遣の員数を過大に報告したり、英国船渡来の報告を故意に行わなかったり等、琉球問題に関しては多くの偽装があった。そして最大の問題点は、英仏の開国要求への対応が難航し武力を以って琉球に押し寄せてきた際、薩摩一藩で受け止められなくなる点であろう。将軍家入輿によって得た威権が薩摩藩及び日本国の安全保障の上で重要な役割を果たすと斉彬が考えていた。恐らく、このあたりが初期の入輿の直接的な目的であったのであろう。また芳は斉彬の父である島津斉興の隠居を早めるため、従三位への官位昇進もまた目的あったとしている。
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