百々橋 その3
百々橋(どどばし)その3 2010年1月17日訪問
百々橋 その2の項では、応仁以前の京の景観を描いたとされる中昔京師地図を基に、小川沿いの社寺及び東西両軍の大名邸宅の位置と室町幕府第6代将軍・足利義教の恐怖政治が齎したものについていた。この項では応仁の乱の火種となった畠山家のお家騒動の続きを中心に文正の政変までの緊迫の状況を書いてみる。
享徳3年(1454)4月、畠山持富の子・弥三郎(政久)を擁立した神保親子は、義就派の遊佐氏の襲撃を受けて戦死、そして椎名、土肥等の神保の与党も京都から逃げ出している。このように当初優勢だったのは義就派であった。しかし畠山氏の弱体化を狙う細川勝元は家臣の磯谷四郎兵衛の邸宅に畠山弥三郎を匿わせ、また弥三郎派の家臣達も自らの邸宅を離れ、牢人となり山名宗全の庇護の元に入っている。このように細川、山名の二大大名が弥三郎支持を暗に表明したため、畠山家の家臣たちは弥三郎派に雪崩打つように走り形勢は逆転している。
享徳3年(1454)8月21日、弥三郎派の牢人達は畠山持国の屋敷を焼き討ちにしている。この事件により義就は京を出て伊賀へ逃れ、持国は建仁寺の西来院に移り隠居を表明している。9月10日、持国は西来院から自邸に戻り、義就と替わって上洛を果たした弥三郎の家督を義政は認めている。ただしその4日後、義政は細川勝元に弥三郎を匿った礒谷四郎兵衛の処刑を命じている。このことは、「史料大成 続編 第32 康富記. 第4」の享徳3年(1454)9月14日の条に下記のように記されている。
十四日壬戌 晴、(中略)
是日管領細川右京大夫勝元被官人磯谷四郎兵衛尉兄弟、於管領屋形囚之、被誅戮之、是畠山彌三郎没落之時寄宿之處、許容、引起今度大儀之間、上意有御憤之故、被仰付管領、為後毘之懲被誅之由風聞矣、
将軍・義政は畠山家の家督を弥三郎に移すことを認めたものの、自分が支持した義就の没落には納得していなかった。そして細川勝元等の行ったことに対して、このような方法で嫌悪を表したのであろう。尤も勝元もまた将軍の措置に不満を感じ、管領辞任を申し出ている。家格や人物より新たに管領となる者が見当たらなかったことから、義政は勝元邸を訪れ慰留しなければならなかった。
細川勝元に対する矛先は収めた将軍・義政ではあったが、山名宗全に対しては強烈な反撃を加えている。同年11月2日、義政は諸大名を集め宗全討伐の命令を下している。婿の細川勝元の執り成しによって討伐は免れたものの、家督を嫡子に譲り分国の但馬に隠退することになった。弥三郎にとっての後ろ盾であった山名宗全が但馬に下向するため京を離れると、将軍は再び河内の畠山義就に上洛を要請している。600騎の軍勢を率いた義就が上洛すると、今度は畠山弥三郎が大和の成身院光宣を頼って都を落ちることとなった。以上のような将軍・足利義政の行動は、細川、山名の連携による将軍家に対する圧迫への反撃でもあったことは明らかである。
光宣は大和国に於いて畠山持国に苦杯を舐めさせられてきたので、弥三郎を受け入れることには躊躇いが無かった。この時の大和の構図は、弥三郎派の筒井順永、箸尾宗信そして成身院光宣、これに対する義就派の越智家栄、古市胤栄であった。享徳4年(1455)3月に父の持国が死去した後。同年7月に畠山義就は弥三郎討伐のために大和に侵攻している。この戦闘で弥三郎は大敗、同年8月には筒井順永、箸尾宗信も敗走、成身院光宣は鬼薗山城を捨てて姿を晦ましている。
以上のように、畠山家内での後継者選びの迷走が細川勝元や山名宗全の介入を許し、さらには将軍・義政をも巻き込むこととなる。康正3年(1457)7月、大和の争乱が起こると義就は将軍の上意と偽って自らの家臣を派遣している。これが義政の怒りに触れて所領没収となった。また同年9月には細川勝元の所領の山城木津にも上意の詐称で攻撃するなど、次第に義政の信頼を失っていった。この康正3年(1457)から文正元年(1466)までの畠山家そして斯波家のお家騒動については既に、応仁の乱勃発地の項で書いているのでそちらをご参照ください。 長禄2年(1458)6月、細川勝元の執り成しによって山名宗全は義政より赦され8月には京に戻っている。しかしこの復帰と引き換えに赤松氏再興を了承させられたことにより、宗全は勝元に対して不信感を抱くようになっていく。翌長禄3年(1459)5月には、やはり勝元の斡旋により、筒井順永、箸尾宗信、成身院光宣の赦免が実現している。そして7月には畠山弥三郎も赦され上洛を果たしている。しかし弥三郎は同年9月に死去したため、光宣等は弟の弥二郎(後の政長)を擁立している。
色々な曲折があったが、最終的には将軍・足利義政による強引な当主変更に、諸大名が反発したことが応仁の乱へとつながっていった。呉座勇一氏著の「応仁の乱 戦国時代を生んだ大乱」(中央公論新社 2016年刊)は、応仁の乱勃発の直前、文正元年(1466)の政治状況を3つの勢力の力関係の上で説明している。
第一は伊勢貞親を中心とする将軍の側近集団。貞親は義政の子・義尚(後の第9代将軍)の乳父(養育係)であったため、義政の弟の足利義視の将軍就任には反対していた。つまり義政が将軍を続け、成長した義尚が次期将軍になることを望んでいた。ちなみに義政の妻である日野富子は、自らの妹が義視の妻であった関係から、義尚が将軍となるまでの中継ぎとして義視の将軍就任を容認する立場を取っていた。この点は伊勢貞親と意見を異にしていた。
また、この将軍側近集団は細川家でも山名家でもない管領候補として斯波義敏の復権を後押ししていた。享徳元年(1452)9月、斯波義健が18歳で死去している。義健には嗣子が無かったため、義敏が室町幕府及び重臣に推されて武衛家の家督と越前・尾張・遠江守護を継承した。しかし家臣筆頭であった甲斐常治との対立が表面化し、ついに長禄2年(1458)6月、領国越前で長禄合戦という形で交戦状況に陥った。ただし、守護斯波義敏は関東に、守護代甲斐常治は京都の病床にあったため、実質的には守護側の堀江利真と守護代側の朝倉孝景・甲斐敏光による代理戦争であった。当初、守護側が優勢であった。しかし長禄3年(1459)になると将軍・義政が常治に肩入れするようになり、義敏本人が関東出兵の命令に背いて甲斐方の金ヶ崎城を攻めて大敗している。これに激怒した義政は義敏から家督を奪って周防に追放、義敏の息子松王丸3歳を斯波氏の当主としている。
このあたりの義政の対応は、将軍家に権力を集中させるため大守護の勢力を削ぐための行動であった。上記の「応仁の乱」でも、畠山氏に対しては家督争いを煽り、山名氏には宿敵の赤松氏を配し、斯波氏に対しては重臣の甲斐氏を支援するという義政の手法が記されている。しかし、「情勢に流される傾向があり、その優柔不断さが混乱に拍車をかけた。」という指摘通り、決して貫徹した方針ではなかった。第6代将軍・義教ほど徹底したものでなかったのは、義政の性格によるものか、あるいは義教の最期を教訓としたものだったのかは分からない。中央集権化を目指した義教の在位12年余に対して、他を圧倒する軍事力を持たなかった義政が24年余も権力の座にあったことは確かな事実である。
将軍側近集団に続く第二の勢力の中心には山名宗全がいた。この勢力は、赤松政則を後押しする側近集団に敵対し、義政の政界引退、義視の将軍就任を望んでいた。また管領には娘婿の斯波義廉を押し込もうと考えていたようだ。斯波義廉は足利氏一門の渋川氏出身で、三管領筆頭の斯波武衛家を寛正2年(1461)10月16日に相続している。つまり甲斐氏と紛争を起こした斯波義敏の家督が息子の松王丸に渡り、さらに義廉に廻ってきたということである。ここでも義政あるいは伊勢貞親等と対立する路線を目指していた。
そして、第三の勢力のリーダーは12年間管領を勤めてきた細川勝元であった。勝元は寛正5年(1464)に管領を畠山政長に譲っているが、実権は完全に掌握していた。穏健中道を貫くことで長く政治の中心にあったことから、政治的立場は将軍側近集団と山名宗全の中間にあった。つまり勝元にとって伊勢貞親のように義視を排除することなく、また山名宗全のように義政を引退に追い込む必要性も感じてなかったようだ。
今一度、文正元年(1466)夏の勢力関係を整理しておく。
畠山家のお家騒動は、長禄3年(1459)に畠山弥三郎が亡くなると、成身院光宣らの支持を受けて弟の弥二郎が後継している。寛正元年(1460)9月20日、義政より偏諱を受けて政長と名乗る。将軍の上意と偽って大和国に派兵した畠山義就が、足利義政の不興を買い同月16日に家督を弥二郎に譲るように命じられた結果である。つまり寛正元年(1460)時点で畠山の家督は義就から政長に移り、義就は再び河内に没落、さらに綸旨により討伐対象に定められている。同年10月から2年間、大和から下ってきた政長、光宣、細川軍、大和国人衆らの兵と嶽山城の戦いを繰り広げる。寛正4年(1463)嶽山城は陥落し、義就は紀伊を経て吉野へ逃れている。同年11月、義政の母・日野重子の死去に伴う大赦により、吉野に逼塞していた義就も赦免されている。翌寛正5年(1464)政長は細川勝元から譲られ、管領職に就任している。義就もも山名宗全、斯波義廉の支持を得て、寛正6年(1465)8月に再び挙兵。文正元年(1466)8月25日に大和から河内に入り諸城を落とし勢力を挽回してきた。
一方、家督を競い合う斯波義敏と斯波義廉の間でも、浮沈が繰り返されている。長禄2年(1458)2月、斯波義敏は将軍や管領細川勝元の仲裁によって、義敏は自らの家臣である甲斐常治との紛争に和解している。しかし長禄3年(1459)5月、義敏は再燃した甲斐派との衝突のため、義政の命による関東への出兵を行わず越前に兵を進めている。そして甲斐方の金ヶ崎城を攻めたにもかかわらず敗退してしまった。この命令違反に怒った義政は家督を義敏の息子の松王丸に移し、義政を周防の大内家へ追放している。
一旦は斯波家の家督は、幼少の松王丸に移されたが2年後の寛正2年(1461)8月2日に松王丸が廃され、同年10月16日に義政の特命により、義廉が斯波氏の家督を継承することとなった。この時、義廉は尾張、越前、遠江の守護にも任命されている。これは義廉の実父である渋川義鏡が関東政策の重要な役割を担っていたためであった。しかし松王丸が廃嫡された寛正2年(1461)から翌3年(1462)にかけて遠江で反乱が起こるなど、関東の情勢が大きく変化し、義鏡は影響力失い失脚している。そこに上記のような重子死去による大赦が行われ、畠山義就とともに義敏と松王丸の父子も復活している。また義鏡の失脚により、義廉の価値が下落するとともに、義政側近の伊勢貞親、季瓊真蘂等は斯波義敏を用いて関東政策の再構築を考えるようになってきた。更なる状況の悪化を恐れた義廉は山名宗全、畠山義就との連携に奔走することとなった。
このようにして、文正元年(1466)夏の時点で、畠山義就と斯波義廉が山名派と結びつきを強め、対抗する畠山政長は細川勝元から管領を譲られているように、細川派に属していた。斯波義敏は足利義政の側近集団と通じたことで、文正元年(1466)7月23日に武衛家家督に復し、さらに8月25日には尾張、遠江、越前3ヶ国の守護に任じられている。勿論、家督と領地に関しては同日に斯波義廉から取り上げたものである。元々斯波義敏の支持者だった細川勝元も側近衆のこのような振る舞いに反感を抱いていたため、直接義敏を支援することはなかったようだ。この状況下で文正の政変が起こる。
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