白峯神宮 その7
白峯神宮(しらみねじんぐう)その7 2010年1月17日訪問
白峯神宮 その6では、崇徳天皇の鎮魂のために造営された崇徳院廟の所在地の特定について見て来た。この項では、幕末維新期の白峯神宮創建の経緯について調べてみる。
崇徳上皇の怨霊鎮魂に一番熱心であったのは、保元の乱の当事者である後白河法皇だったことは当然の結果とも言える。法皇はかつて戦場の地となった白河北殿の地に崇徳院廟を造営し、元暦元年(1184)4月15日に遷宮を行っている。しかし建久3年(1192)11月16日に後白河法皇が崩御すると、朝廷の崇徳院怨霊に対する恐れは次第に弱まっていく。つまり後白河法皇以外の者が、天変地異を崇徳院の怨霊の仕業と考えなくなってきたのである。それでも菅原道真、平将門とともに日本三大怨霊の一人として江戸時代の人々の記憶の中に残っていった。例えば上田秋成の「雨月物語」の白峯では西行と対面し、曲亭馬琴の「椿説弓張月」では主人公の鎮西八郎源為朝を救うために現れるなど歌舞伎や能の形を借りて庶民の生活の中にしっかりと入り込んでいった。
そして崇徳上皇の700回忌が幕朝関係の混乱を深める文久3年(1863)に巡って来る。讃岐国の崇徳天皇陵において、永禄6年(1563)の400回忌には行空による三十首和歌の奉納が行われた。寛文3年(1663)の500回忌には松平頼重による奉修、宝暦13年(1763)の600回忌にも松平頼重による和歌奉納の他に石燈籠一対の奉献が為された。そして直前の文化10年(1813)650回忌には仁和寺総法務官の教示により松平頼儀による奉修が行われた。今回の700回忌にも松平頼該による奉修と勅使門が造立されている。また、大濱徹也編の「近代日本の歴史的位相 国家・民族・文化」(刀水書房 1999年刊)に所収されている山田雄司氏の「国家の造型と解釈 崇徳天皇神霊の還遷」によれば、中川宮朝彦親王が崇徳天皇年忌には必ず公武の変が生じるため、朝廷から山陵奉行戸田大和守に命じて讃岐の白峯寺を修復させたという記述が見られる。典拠は明らかではないものの同様の主旨の記述を他でも幾つか見かけた。残念ながら山田氏も同書で出典を示していないので、これ以上確認することができなかったが、あるいは朝彦親王が門主を務める青蓮院が崇徳院廟のあった粟田宮を管理してきたからかもしれない。
何れにしても朝廷及び天皇陵が所在する高松藩は上皇に対する崇敬を何時の時代も忘れてはいなかったようだ。しかし700回忌の翌年にあたる元治元年(1864)7月19日、禁裏内での銃撃戦が始まり京都市内の大部分を焼き尽くす甲子戦争が発生する。戦闘はほぼ一日で終了したものの、朝彦親王の憂慮していたことがついに現実のものとなってしまった。
「孝明天皇紀」(平安神宮 1981年刊)慶応2年(1866)11月16日の条に白峯神宮創建が以下のように簡潔に記されている。
慶応二年丙寅十一月十六日辛未崇徳天皇の社殿を京師に営す是日木作始の儀あり
これは神宮造営の起工式が行われたことを示す記事である。この後、「孝明天皇紀」には興味深い史料が数点掲載されている。
先ずは「光愛卿記」の五月十五日の条。「光愛卿記」は幕末に議奏を務めた柳原光愛の日記である。光愛は文久2年(1862)10月14日に議奏・正親町三条実愛と同野宮定功と共に山陵修補用掛に任じられている。同18日には議奏・中山忠能も追加されている。さらに文久3年(1863)8月24日に議奏に任命されている。これは八月十八日の政変直後の人事である。そして慶応3年(1967)12月9日の摂政・関白・征夷大将軍・議奏・伝奏・国事掛・京都守護職・所司代等の官職及内覧・勅問・摂籙・門流を廃すまでの間、議奏を勤めている。上記の日記は「五月十五日癸酉」とあるので慶応2年(1866)の5月15日のことである。
五月十五日癸酉下神辺主税入来面会崇徳院御祠上御霊辺可被建先達御治定光林屋敷旧地当時薮也尤狭少間更南方少々町家地面可被買得也然而汚穢地之旨有風聞可被改地所也
木作始の儀の半年前のことであり、当時上御霊神社の近くの「光林屋敷旧地」に崇徳院御祠を創建しようとしていたことが分る。「光林屋敷旧地」とは、かつて尾形光琳の屋敷のあった場所と考えられる。当時は既に薮になっていたようだ。現在、光琳屋敷は京都史蹟会・三宅安兵衛遺志建立の緒方光琳宅蹟碑から凡そ80~100メートル位西側の烏丸鞍馬口附近にあったと考えられている。この敷地が狭小な上、「汚穢地」ということで換地を考えなければならなかったようだ。早速、翌16日に議奏の広橋胤保と武家伝奏の野宮定功と協議し、武家伝奏から上御霊の敷地の立退指示を停めさせている。そして凡そ1か月後の6月12日には、今出川通西入ル北の現在の白峯神宮の敷地に変更している。この地は飛鳥井町という町名通り権中納言・飛鳥井雅典の拝領地であったが、それを召上げて御祠造営の示談ができたようだ。柳原光愛が神宮造営のために周旋したのは議奏であったというよりは山陵修補用掛であることが大きかったのではないか。
「孝明天皇紀」には続いて「吉田家日記」が付けられている。神楽岡の吉田神社の神職を相伝している吉田家のことである。これによると、慶応2年(1866)8月15日吉田良義が柳原光愛を訪ね、柳原光愛、広橋胤保、飛鳥井雅典、野宮定功宛の書簡を提出している。「諸神記」や「吉記」には、かつての粟田宮は卜部兼友が社司に補せられて以降、卜部家が社務を務めてきた。この度崇徳天皇の御宮を造立するならば、兼友の系譜を引き継ぐ吉田家が社務を務めたいという請願であった。翌16日に光愛に「諸神記」と「吉記」の書抜きを贈っている。
崇徳院の社殿を京に創建することが粟田宮再興と捉え、その祭祀権を吉田家が独占しようと考えての行動である。それに対して、朝廷は祭祀権を吉田家から切り離し、神祇体系の再編成を行うことを目指した。つまり特定の家により支配から国家管理に移行していくという考えは平田派国学を強く現わしている。そのため朝廷は粟田宮の再興ではなく、新たに崇徳天皇を祀る神社を建立して、朝廷のもとで祭祀を行うという方針を最終的に出している。つまり吉田家が白峯神宮の祭祀権を独占する事はなかった。後で触れることとなるが、白峯神宮創建に貢献した中瑞雲斎は慶応3年(1867)9月に上げた王政復古の建白書の中でこの問題に触れている。吉田家は逆賊である足利氏に媚びへつらったことで取り立てられた者で、徳川氏の世になっても祀官を配下に治め官位を私に授け、金銀を貪り神祇を疎かにしていると痛烈に批判している。この悪弊を改め神祇官を再興すべきとは、まさに平田派国学者の説である。
次に「孝明天皇紀」に所収されている史料は中山忠能による「忠能卿記」である。中山忠能は元治元年(1864)7月19日の甲子戦争で長州藩を支持したため、同月27日に参朝を停止され謹慎を命じられている。以後慶応2年(1866)12月24日の孝明天皇崩御まで赦されることはなかった。忠能は甲子戦争が始まる前の元治元年5月19日から6月21日にかけて柳原光愛と尊号について書簡の遣り取りを行っている。これは「日本史籍協会叢書 中山忠能日記1~4」(東京大学出版会 1916年発行 1973年覆刻)の「正心誠意」で経過を追うことが出来る。
十九日 戊午 晴
一光愛卿来状 執要 寛政自在王院宮太上皇尊号 光格帝御懇願之処其比幕威強終ニ不被遂 叡慮恐入君臣共無念之至ニ候実ハ 光格帝御廿五回忌ニ付風ト心付候昨朝此義御先代格別御精勤人口ニ鱠灸之事ニ候全体賢考如何可被為在候哉何卒無御腹蔵御示教希入候
以上、柳原光愛が中山忠能に送った書簡の依頼内容であろう。ここでは光格天皇が父である典仁親王に対して太上天皇の尊号を贈ろうとした尊号一件について相談を持ち掛けている。寛政の尊号一件については、既に慶光天皇廬山寺陵 その4とその5で書いているので、詳しくはそちらをご参照ください。光格天皇が父に尊号を贈ることに至った背景には、慶長20年(1615)7月17日に公布された禁中並公家諸法度がある。その第二条に「一 三公之下親王」とあるように、親王を太政大臣、左大臣、右大臣の下位と定めている。ただし第三条「一 淸花之大臣、辭表之後座位、可爲諸親王之次座事」とあるので、親王の上位は現役の摂関家の三公のみということだろう。光格天皇にとっては臣下である三公より実父を下に扱わなければならないことに憤りを感じたのであろう。天明8年(1787)4月には議奏であった中山愛親が後堀河天皇と後花園天皇の尊号宣下の経緯を調べている。そして交渉は典仁親王の実弟でもある関白・鷹司輔平と老中首座・松平定信の間で行われた。輔平は寛政3年(1791)8月20日に関白職を辞したため、同日に関白に就任した一条輝良が引き継いでいる、朝廷内で寛政4年(1792)11月上旬に尊号宣下を実行する旨を幕府に伝えたところ、幕府から10月朔日付で正親町前大納言、中山前大納言、広橋前大納言の召喚を伝えた。この申し入れが京に届いたのが10月4日であり、同日評議が行われ尊号宣下の御取り止め、新嘗祭御親祭の御中止、三卿下向の不認可が決する。この後、幕府との交渉が続きついに寛政5年(1792)正月26日、議奏・中山愛親と武家伝奏・正親町公明が江戸に向かって出立した。江戸では喚問が行われ、帰洛した後に議奏・武家伝奏を罷免され蟄居となった。
このように寛政の尊号宣下は朝廷の完全な敗北に終わった。蟄居となった中山愛親は、柳原光愛が尊号について意見を求めた中山忠能の曽祖父にあたる。なお光格天皇は天保11年(1840)11月18日に崩御されているので、元治元年(1865)が25回忌にあたる。これを期して再び典仁親王への尊号宣下の可能性をかつての当事者であった中山家と協議したということであろうか。翌20日、忠能は光愛に寛政秘記という書一冊を貸したようだ。
さらに「正心誠意」によれば、6月4日に柳原光愛が中山忠能を訪ね、やはり寛政尊号から後桃園天皇の内親王で光格天皇の中宮となった新清和院についての話し合いを行っている。また6日には光愛からの書簡が忠能に届いている。そして10日の書簡には、「皇政復興ハ不容易儀存念無之候へとも奉散彼 宸怒候ハヽ聊国家御祈祷ニも可成哉追尊宣下ハ如何ト存候」と光愛は記している。山田雄司氏は「崇徳天皇神霊の還遷」(大濱徹也編「近代日本の歴史的位相 国家・民族・文化」(刀水書房 1999年刊))において、光愛は重仁親王に尊号宣下を行うことを検討していたと述べている。これは重仁親王に皇位を継がせたかった崇徳上皇の怨念を慰める目的であり、それにより王政復興を行うということらしい。これに忠能は「重仁親王之事尚熟考可及返答」し、「崇徳帝御憤可被宥尊事」と考えを示している。これが光愛と忠能との一連の遣り取りの中で崇徳院に対して何等かの対応が必要であるとした最初の段階のように見える。
忠能は同月15日に崇徳帝と重仁親王の伝記を記した大日本史を光愛に返却し、早良親王伝を借りている。このことは「日本史籍協会叢書 中山忠能履歴資料 6」(東京大学出版会 1934年発行 1974年覆刻)の巻二十一の二一に掲載されている大日本史抜書二則に該当するのではないだろうか?大日本史 四十七 上皇鳥羽院 今上崇徳院とあるので、この光愛との遣り取りの間に必要箇所の抜書きを行ったと思われる。
そして21日に忠能は光愛に書簡を送り、崇徳天皇の怒りを宥めるため荒廃した粟田宮を再興し、崇徳天皇の命日にあたる8月26日に勅使を派遣して祭祀を執り行うことを提案している。
崇徳帝為御宥憤御追尊就テハ重仁親王御追敬之事尊慮御尤ニ承候
中略
何レ粟田宮御追祟八月廿六日 御勅使御再興ハ勿論と存候
後半部分の山塊記 治承四年十二月廿二日の条には近衛通子の准三宮宣下について記されている。始め同月25日に宣下の予定であったが、21日の大貮入道・藤原重家の崩御によって生じた服喪により治承5年(1181)2月17日に繰り延べられている。この時の前例として、二条天皇の中宮・姝子内親王の院号宣下が記されている。
関白藤原忠道の次女・育子が入内したのは応保元年(1161)12月17日で同日に従三位に叙されている。そして応保2年(1162)2月19日に立后、中宮を号す。この育子の中宮宣下のためには、姝子内親王が后位を退かなければならなかった。そのため同年2月5日、在位中の天皇の后妃・姝子内親王が院号宣下を受けるという前例のないことが生じている。内親王は永暦元年(1160)に入ると心労により禁裏に入ることができなくなり、出家を望むようになった。そして夏頃には病がかなり重くなり、ついに8月19日には出家せざるを得ない状態に陥った。その後、病状は奇跡的に回復するものの、二条天皇との関係は元に戻ることはなく別居状態となった。育子が中宮となったのには上記のような姝子内親王の事情があったためである。中山忠親の日記・山槐記では、応保2年(1162)正月28日の重仁親王の崩御によって、姝子内親王と育子の宣下が上記のように2月に行われたと記している。確かに山槐記には重仁親王のことが記されているものの、光愛と忠能が話し合っていた崇徳上皇の鎮魂に関係するものではないように思われる。
「孝明天皇紀」の「崇徳天皇の社殿を京師に営す」の条の最後に付けられている史料は「史談速記録」の中瑞雲斎に関するものである。白峯神宮創建に尽力した中瑞雲斎については項を改めて書くこととする。
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