貴船神社 本宮 庭園
貴船神社 本宮 庭園(きぶねじんじゃ ほんみや ていえん) 2010年9月18日訪問
貴船神社 本宮の北参道を上り中門から境内に入ると、その南の端に社務所が見える。この社務所に向かう手前に、重森三玲が昭和40年(1965)に作庭した石庭「天津磐境」がある。規模も大きくなく水も白砂も使わず、ただいくつかの石と赤い鞍馬石の砂を敷いただけの空間であるため、この場所を庭と思わない人もいるかもしれない。それでも、三玲の作品系譜の上でも異質でありまた重要な庭となった「天津磐境」について調べてみる。
重森三玲は昭和を代表する作庭家であり、かつ「日本庭園史大系」を著した庭園研究家である。三玲は明治29年(1896)に岡山県上房郡賀陽町に生まれている。大正3年(1914)の21歳の時、上京し日本美術学校に入学したと「重森三玲-永遠のモダンを求めつづけたアヴァンギャルド」(京都通信社 2007年刊)は記している。日本美術学校は美術学者で美術評論家の紀淑雄が創設した私立専修学校である。淑雄は大正6年(1917)4月に美術研究所を豊多摩郡戸塚町(現在の新宿区西早稲田)に開設し自ら所長となっている。そして翌大正7年(1918)4月に日本美術学校に改称している。日本美術学校からは林武、中原淳一、瑛九そして井伏鱒二や田河水泡等を輩出している。第二次世界大戦の戦時措置により一旦は閉鎖されるが、昭和25年(1950)に日本美術学校の名で再び開校するものの平成30年(2018)に閉校している。三玲が上京した時は、前身の美術研究所が存在し、ここで日本画を学び生け花を研鑽したと思われる。そして2年後の卒業時には日本美術学校に改称されていた考えてよいだろう。さらに三玲は日本美術学校の研究科に進んでいる。この時、東洋大学のインド哲学と美術史を聴講している。そして大正10年(1920)24歳で日本美術学校研究科を卒業する。
画家を志し上京したものの、全国から集まったライバル達との才能の差を知り三玲はかなり意気消沈したようだ。この挫折の中から、技術面よりも思想面を鍛え、総合的に日本の思想や美術史を学ぶことを決意したと謂われている。恐らくインド哲学や美術史の聴講はその顕れであり、そして終生変わらぬ研究者としての姿勢や幅広い日本文化への造詣は、既に20代の内に身についたものであった。
日本美術学校卒業後、文化大学院の創設を企図し、通信講座による講義を始め自らの講義も担当している。当時、既に茶の湯、いけばな、書は茶道、華道、書道など各分野毎に独立した文化を形成していた。これら日本古来から連携して向上してきた芸術を総合的に学べる場所=大学を作り上げようという発想が文化大学院の創設の基になったようだ。そして大学の本格的な創設に向け、スポンサーも見つけ支援の内諾ももらっていた。しかし大正13年(1923)に突如発生した関東大震災により、文化大学院創設を断念せざるを得ず三玲は岡山に帰郷している。
故郷に戻った三玲は農業に従事しながら、絵画制作、文筆そして村の青年団に対して哲学や美術史の講座を開くなどの活動を行っていた。10年近い東京での生活で得た流行や知識を整理し、自らの思想を再構築するための思索の期間に充てられた。そしてこの時期、当時の流行に背を向け古典に対する審美眼を磨くことに注力した。同時に主であったいけばなの研究から徐々に庭園史の研究や作庭に興味が向いていったようだ。
三玲の処女作とされる生家の天籟庵は大正13年(1924)の作品である。自宅の茶室前に作った枯山水庭園で、築山の上に石を3段に組み最上段に2石を直立させている。そして石組の前には白砂によって川を表現するなど、その後の三玲のスタイルが既にここから現れている。この庭は、郷里の吉川八幡宮の文化財指定のために東京から来る関係者を接待するために作られたとされている。何もない片田舎の八幡宮が文化財指定を受けるために、三玲は鄙びた中に文化の香りのする生活を行っている人々の姿を見せたかったのではないだろうか。つまり自らの作品を世に問う場を作ったのではなく、あくまでも自らが仕掛けた文化財指定を得るためのものであったと思う。吉野八幡宮は大正14年(1925)に特別保護建造物に指定され、現在も重要文化財となっている
その後、京都に居を構えたのは昭和4年(1929)33歳の時であった。昭和9年(1934)に発生した室戸台風により西日本の建物や文化財に大きな被害が生じている。大阪では四天王寺の五重塔と仁王門が吹き砕かれ全壊している。京都府でも京都西陣小学校が全壊だけではなく、木造校舎の倒壊・大破が相次いだ。「京都市風害誌 昭和9年9月21日」(京都市役所 1935年刊)でも賀茂別雷別神社、賀茂御祖神社の国宝建物の倒壊を始めとし、建仁寺、知恩院、西本願寺、醍醐寺等で数多くの建物が倒壊損傷している。被害規模は174社、952寺とも謂われ(同書 9月末調)、なんと社寺全体の68.4%(1126/1646件)、そして神社の77.0%(174/226社)、寺院の66.9%(952/1422寺)が被害にあったとされている。直接強風により建物が倒壊したよりは、鬱蒼とした景観を作ってきた境内の古木が倒壊したことによってもたらされたものが多かったようだ。同書には、特に著しい損害を受けた29社49寺について被害箇所が記述されている。松尾社も祓殿と末社金刀比羅社の倒壊と一挙社の半壊が記録されている。 京都市中の社寺が受けた損害は建造物などに留まらず、多くの庭に甚大な影響を与えた。しかし破壊された庭を修復しようとしても資料が少なく難渋した。このような状況に危機感を抱いた三玲は、被災した年に日本全国の庭園の実測調査を提唱している。しかし賛同するものが現れなかったため、ついに昭和11年(1936)より実測調査を開始したというのが実情のようだ。昭和14年(1939)までの3年間に実に全国の約300庭の実測を行っている。この時期までに重森が手掛けた庭園は、上記の天籟庵と春日大社そして正伝寺の補修など数えるしかなかった。これに対して「寺院の庭園」、「日本茶道史」や「挿花の鑑賞」など、既に何冊もの書を著している。さらに上記のような庭園に対する調査・実測を基に昭和14年より「日本庭園史図鑑」の刊行を開始している。つまり三玲の前半生は後に有名になる作庭家ではなく、庭園や茶道・華道の研究家としての性格が強く表れたものであった。
作庭家・三玲の生涯の代表作となる東福寺本坊「八相の庭」は昭和14年(1939)43歳の時の作品である。この年は同じ東福寺の塔頭である普門院庭園の復元と芬陀院庭園の復元と新たなる作庭、そして光明院の「波心庭」の作庭も手掛けている。本坊「八相の庭」は荒々しくそして厳しい印象を見る者に与えるのに対して、この「波心庭」はどこまでも優しくそして美しさを兼ね備えている。全く正反対の性格を持つ庭園を作庭家としての出発点となる年に表現している。例えば画家や工芸作家ならば、同じデザインモチーフを繰り返して表現することで作家としてのアイデンティティを確立するような行動をとる。しかし三玲の初期の作品は実に多様性に溢れている。このことは、全国の庭園を研究し、その成果を自らの引き出しに収めてきたことの表れのように思える。そして今まで溜め込んできたアイデアを発揮できる初めての機会を与えられたのが、昭和14年だったということであろう。この機会を自らの方向性を定めるために使わず、現代の日本庭園の可能性を問うことに用いたとも謂える。華々しくデビューした三玲には多くの作庭の機会が与えられ、その中から今後の三玲のスタイルが確立されるはずであった。しかし、ここから石清水八幡宮や岸和田城の庭園を手掛ける昭和25年(1940)までは個人住宅の作庭以外主だった作品がない。第二次世界戦争とその後の混乱期に、三玲の充実しつつあった作庭家としての創作時期が重なったということだ。この作庭の少ない間、三玲は執筆活動に集中し、多くの書物を世に出している。また戦後間もない昭和23年(1948)には著書の「日本庭園史図鑑」が第一回京都文化院賞を受賞している。ここでも研究家・重森三玲の側面が現れている。
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