貴船神社 本宮 庭園 その2
貴船神社 本宮 庭園(きぶねじんじゃ ほんみや ていえん)その2 2010年9月18日訪問
貴船神社 本宮 庭園では天津磐境の作庭家である重森三玲の生い立ちから戦前までの歴史を主に書いてきた。この項では三玲が何故、磐境を貴船神社の境内に作庭したかについて考えてみたい。
貴船神社 本宮から貴船神社 本宮 その5まで、いくつかの貴船神社に纏わる創建伝説を書いてきた。この中でも関連すると思われる説話は末社 梶取社でも取り上げたような遡源伝説である。第18代反正天皇の御代に初代神武天皇の皇母・玉依姫命が浪速の津に御出現になり黄色い船で淀川を遡り貴船に至ったという伝説である。貴船神社の公式HP内に掲載されている地図中では、以下のように説明している。
貴船神社創建伝説によると、約1,600年前(第18代反正天皇の御代)、初代神武天皇の皇母・玉依姫命(たまよりひめのみこと)が浪速の津(現在の大阪湾)に御出現になり、『われの留まるところに水源の神を大事にお祀りすれば、人々の願いには福運を与えるであろう』と告げられ、水源を求めて自ら黄色い船に乗り、淀川・鴨川をさかのぼってこられた。
反正天皇は5世紀前半に実在したと考えられている天皇である。その御世は5年(反正天皇元年1月2日~同5年1月23日)とされているので、西暦400年を越えた辺りの伝説が貴船神社創建の由緒として伝わっていることになる。ただし、黄色い船に乗船して貴船の地に至った玉依姫命が、現在の貴船神社の御祭神に祀られていない点は注意すべきであろう。一の鳥居の傍らに祀られている末社 梶取社の御祭神も現在では宇賀魂命となっているが、以前は遡及伝説の影響が残っていたようだ。京都出身の郷土史研究家の竹村俊則は「昭和京都名所圖會 洛北」(駸々堂出版 1982年刊)で次のように記している。
社伝によれば、玉依姫は浪花より舟にてさかのぼって来られたとき、ここで楫をとりはずし、貴船に向かわれたという。当社はそのとき、水手として奉仕してきた楫師を祀ったものといわれるが、現在は宇賀魂命を祀り、万福の楫がうまくとれるようにとの信仰がある。
これより、かつての梶取社は「水手として奉仕してきた楫師」を祀っていたことが分かる。またこの遡源伝説について、三浦俊介氏は「神話文学の展開 貴船神話研究序説」(思文閣出版 2019年刊)で以下のような貴船神社の歴史を提起している。
今で言う「鞍馬・貴船」の地に山人たちの崇敬を受けていた岩石や清水の聖地があった。そこに、やがて渡来系白髭族が白髭社や百太夫社を祀りながら瀬戸内海を通り、大阪湾から遡上して上賀茂・貴船へと到達し、定住した。平安時代に入り、大和国丹生川上社の「罔象女神」を勧請し、平安時代の洪水を経て「高龗神」奉斎へと進展した。「舌」を名乗っていた一族は、その後、強大なカモ族が祀る賀茂別雷神社との確執の中で、自らの存在意義を高めるためにも、神社神話を荘厳昇華させる必要があった。そのために、おそらく氏族内で伝承されていたであろう「白髭遡源神話」を基に、賀茂別雷神社の遡源神話を援用して「黄船遡源神話」を作り出した。その一方で「貴布禰大明神」の降臨神話をも整備していったものと思われる。
三浦氏は同書で貴船の神が祀られたのは奈良時代以前に遡ると推測している。その時点では荘厳な社殿などはなく、西側の山=貴船山を神体山とし清浄な湧水と巨石群を神聖なものと崇めていたのであろう。また、この頃貴船という地名が既にあったかも定かでないようだ。奈良時代以前の日本には黄という色名がなかったと考えている。日本古来の色名は黒青赤白の4色であり、黄帝や皇帝などを象徴する黄色は後に中国から輸入された色彩概念であった。猿田彦命を祀る白髭社や道祖神とされる百太夫を祀る百太夫社を信奉する人々が渡来人かどうかは確定できないまでも、奈良時代以前に舟を使い内陸に分け入り、この地に達していた人々が存在していたことは今に伝わる遡源伝説からも推測できる。また「貴布禰大明神」の降臨神話は、貴船神社に伝わる秘伝書「黄舩社秘書」に収められている「貴布祢雙紙」にも現れている。貴船明神が天下万民救済のために天上界から貴船山中腹の鏡岩に御降臨された。その時に随伴したのが牛鬼とも呼ばれた仏国童子であった。貴船明神から戒められていた神界の出来事を仏国童子が悉く他言したため、怒った貴船明神は童子の舌を八つ裂きにし貴船から追放した。童子は吉野の山に逃げ、そこで五鬼を従えて首領となった。ほどなく貴船に戻り密かに鏡岩の蔭に隠れて謹慎していた。ようやく罪が許されたが、ある時貴船明神の鉄製の御弓を2張も折ってしまった。余りの悪事に怒った大明神はいろいろな罰を与えたが効かず、仏国童子は130歳で亡くなった。この仏国童子には僧国童子という子がいた。僧国童子は丹生大明神に奉仕していたが、吉野から五鬼を従えて貴船に帰り父に代わって貴船明神に仕え102歳で亡くなった。僧国童子の子は法国童子と云い、さらにその子が安国童子と名付けられた。ここまで四代は鬼の形をしていたが五代目よりは普通の人の形となり子孫代々繁栄して貴船明神に仕えた。祖先が貴船明神から受けた戒め忘れぬために名を「舌」と名乗った。以上のように貴船大明神が降臨されたのは貴船山の中腹にある鏡岩であった。現在、この鏡岩を確かめることは難しいが、貴船神社の公式HPで以下のように記している。
貴船山の中腹にある、太古の伝説を秘めた鏡岩。いくつかの大きな岩が積み重なり、中央が室となっている。磐座(いわくら)と呼ばれ、神社(社殿)ができる以前の古代の祭場であったと考えられる。太古の昔、貴船大神が丑の年の丑の月の丑の日の丑の刻に、この鏡岩に天上から天降ってこられたとの伝説が残っている。それゆえに神聖な岩であり、現在は禁足地となっていて行くことも出来ず、誰も間近に見ることは出来ない。まさに貴船の旧跡、伝説の場所である。
つまり、①白髭神を奉ずる集団(=白髭族)が、船を使って海浜から川の源流まで開拓しながら遡上してきた ②初代神武天皇の皇母・玉依姫命が浪速の津に御出現になり水源を求めて自ら黄色い船に乗り、淀川・鴨川を遡って来られた ③貴船明神が天下万民救済のために天上界から貴船山中腹の鏡岩に御降臨された という3つの説話が貴船神社に残されている。①と②は乗船してきた「船」、③は降臨した「磐座」が説話の重要なポイントとなる。「天津磐境」を作庭した重森三玲は、現在の神社内に古代から続く祭祀の場所である磐境を復元することを意図したと考えられる。それは名称の「天津磐境」からも伝わる。その上で貴船神社に残る遡源伝説を想い浮かべるように、船を連想できる形状にデザインしたのであろう。神社が作成した駒札は下記のように説明している。
石庭 天津磐境(あまついわさか)
昭和の作庭家の第一人者・重森三玲氏が昭和四十年に古代の人々が神祭りをおこなった神聖な祭場「天津磐境(あまついわさか)」をイメージして造った石庭。貴船川から産出する貴船石は、緑色や紫色をした美麗な水成岩で、庭石、盆栽石の名石として、その数も少なく珍重されている。
この庭は、貴船名石保存のため、すべてを貴船石で石組されているのが特徴で、庭全体が船の形になっている。中央の椿の樹がマストで、神が御降臨になる樹籬(ひもろぎ)でもある。
神武天皇の母神様・玉依姫が、浪速の津から水源の地を求めて黄色の船に乗ってこの地に来られたとの神社創建の伝承に因んでいる。その貴船は今も奥宮に船形石として残っている。
三玲の造った船はカツラの御神木の方向に向かっているのであるから、船首は北を指している。つまり貴船川を遡上し元の本宮のあった地、現在の奥宮を目指しているようにも見える。
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