桂小五郎・幾松寓居跡
桂小五郎・幾松寓居跡(かつらこごろう・いくまつぐうきょあと) 2008/05/15訪問
三条小橋から木屋町通を北に進むと大村益次郎卿遭難碑と象山先生遭難碑が高瀬川の西岸に建つ。丁度2つの碑の正面に料亭旅館幾松があり、その門前に桂小五郎・幾松寓居跡の碑がある。
弘化3年(1846)新陰流剣術内藤作兵衛の道場に入門し、剣術を学ぶ。嘉永元年(1848)元服して和田小五郎から大組士桂小五郎となる。これ以降、剣術修行に人一倍精を出し、腕を上げ、実力を認められ始める。
小五郎は嘉永2年(1849)吉田松陰に出会い、兵学を学んでいる。この時期、松陰は長州沿岸の防備視察を行っている。松陰が佐久間象山に入門するのが嘉永4年(1849)とされているため、それ以前のことである。松陰は文政13年(1830)の生まれなので、小五郎より3つ年長になる。師弟と言うよりは兄弟関係に近かったのではないだろうか。
嘉永5年(1852)剣術修行に江戸へ向う。江戸三大道場の一つ、斎藤弥九郎の練兵館に入門し、神道無念流剣術の免許皆伝を得、入門1年にして塾頭となり、桃井春蔵の士学館の武市半平、千葉定吉の桶町千葉道場の坂本龍馬太江戸と共に、剣術界に名を轟かすこととなった。
嘉永7年(1854)再び来航したペリー艦隊に刺激を受けた小五郎は、江川太郎左衛門の付き人として実際にペリー艦隊を見聞する。その後、海外への留学願を藩政府に提出している。文久2年(1862)小五郎は、周布政之助、久坂玄瑞等と、吉田松陰の航海雄略論を長州藩の方針とし、藩論を開国攘夷に導いている。文久3年(1863)5月、小五郎は自らの留学は為し得なかったが、井上馨、伊藤博文、山尾庸三、井上勝、遠藤謹助の5人の公費留学を実現する。これは長州藩から英国への秘密留学である。
元治元年(1864)6月5日、新選組による池田屋事件が起こる。小五郎の自叙によると、到着が早すぎたので対馬藩邸で時間を待っている間に事件が起こったとされている。しかし長州藩京都留守居役であった乃美織江は、「桂小五郎議は池田屋より屋根を伝い逃れ、対馬屋敷へ帰り候由…」と手記に書き残している。どうも実情は乃美の手記に近かったのではないだろうかと思われる。 兎も角も池田屋事件での難を逃れた小五郎も、7月19日に勃発した禁門の変に再び巻き込まれる。小五郎も周布政之助や高杉晋作も反対していたにも係わらず、久坂玄瑞、来島又兵衛、福原越後が、朝廷に長州藩主父子や長州派公卿たちの雪冤を迫るため兵を引いて京に向う。一度は長州藩の交渉に屈しかけた朝廷ではあるが、一橋慶喜の恫喝が功を奏し中川宮朝彦親王などの佐幕派公卿によって、長州との交渉を打ち切り軍の退去を期限付きで通告する。長州藩先発隊は天皇直訴と集団諫死を目的に禁裏に殺到するが薩摩藩の奮闘により、禁裏への侵入を阻んだ。この戦の中、小五郎は因州藩に加勢を働きかけたり、孝明天皇への直訴を試みるも失敗に終わり、幾松や対馬藩士大島友之允の助けを借り市中に潜伏する。しかし探索が厳しくなり、これ以上京に留まることが不可能であることを知り、7月24日、対馬藩邸出入りの商人の手引きで出石に向う。
小五郎の京での潜伏生活は映画などで見る程は長いものでなかったようだ。小五郎が出石に潜伏している間に、第一次長州征伐が始まり、同年の12月には撤兵令が出て終わっている。翌慶応元年(1865)3月、小五郎の元に村田蔵六からの帰藩を促す手紙が届く。4月8日長州に帰るため出石を出発し、同月26日下関に入り村田蔵六と会見する。
慶応2年(1866年)1月22日に京で薩長同盟が結ばれる。小五郎は前年の12月27日に三田尻を出て、大阪を経由し、1月8日に京薩摩藩邸に入る。同盟締結後の1月27日には京を離れ、広島に着いている。この後、第二次長州征伐が慶応2年(1866)6月より始まり、7月20日の将軍家茂の薨去と小倉城炎上により実質的には終結する。この後、小五郎が再び京に上るのは、大政奉還が行われ、鳥羽伏見で戊辰戦争が始まった慶応4年(1868)1月21日のことである。
桂小五郎は木戸貫治、木戸準一郎そして明治になってから木戸孝允と名を改めている。維新後の木戸孝允は新政府において総裁局顧問専任として迎えられている。文明開化を推進する一方で、版籍奉還や廃藩置県など封建的諸制度の解体が明治政府にとっての急務であった。これに取り組む一方、予てからの念願であった海外視察を岩倉使節団で実現している。この視察で欧米と日本の国力そして文化の差の大きさを実感し、征韓論などの海外進出より内治優先の必要性を感じている。そのため帰朝後は、憲法や三権分立国家の早急な実施を推進している。
もとより病弱であった身体を苛酷な政務が蝕み、明治9年(1876)3月、病気療養のため参議を辞任している。明治10年(1877)1月、明治天皇とともに京へ出張する。同年2月、西南戦争が勃発する。孝允は京で戦況を気にしながらも病状を悪化させていく。明治天皇の慰問を受けるが、5月26日京都中京区土手町通竹屋町上る東入の木戸邸で病没する。享年46。
さて、標題の碑は現在、料亭旅館幾松の門前に建てられている。この碑には桂小五郎・幾松寓居跡と明治以降に改名した木戸孝允ではなく、幕末に使用していた名前を使用していることからも幕末に住んでいた事を想像させる。またこの碑には「長州藩控屋敷趾」とある。長州藩ほどの大藩ならば藩邸以外にも所有している邸宅があったであろうし、長州藩邸の目と鼻の先に位置しているので不思議ではない。これを証明できるものがないため、誰もここに長州藩の控屋敷があったと確定することができないでいる。
禁門の変の後、新選組に追われる桂小五郎を幾松が逃がしたというエピソードが有名である。これは頼山陽の山紫水明処の北、上京区三本木通にあった吉田屋での話しであるようだ。幕末当時、三本木通には遊郭があり、幾松は三本木の芸妓であった。この吉田屋の位置と来歴が正確には分からなくなりつつある。このことについては、nakaさんのブログ 「よっぱ、酔っぱ」の中で詳細に説明されているのでご参照下さい。わずか150年前のことでも忘れ去られていく、と言うか思い出せなくなるということであろう。だから確実に調べて後世に残るものに記しておく必要があるのだろう。
幾松については既に寺田屋と同じように、観光偽装ということでも有名になりつつある。もともと耐震偽装から始まった偽装疑惑の一つの展開のように見えたが、なかなか息の長い論争になりつつある。中村武生氏のブログによると、直接幾松から根拠となる資料の提示を受けたことが分かる。どのような資料であったか分からないが、中村氏は明治維新以降に木戸孝允と木戸松子がこの地に住んでいた可能性を考えていることがこのブログから分かる。真相が分かるまでにはまだまだ時間が必要なようだ。
初めまして。
拙ブログをご紹介頂きありがとうございます。
さて「控屋敷」についてですが本来は「下屋敷」という言葉が正しいように感じます。木屋町辺りで「控屋敷」という言葉を使い出したのは、昭和14年に毎日新聞社から発刊された「維新の史蹟」が最初のようです。
お書きになっているように「維新の史蹟」以前に幾松が「控屋敷」であったとする史料は見つかっていませんし、木屋町通りに「控屋敷」があったとする史料もありません。ですが長州藩の下屋敷と思われるものは現在の京都市役所の場所に存在しました。
http://yoppa.blog2.fc2.com/blog-entry-567.html
現在の幾松も含め木屋町通りには長州藩と密接な関係があったと思われる場所が複数あります。しかしいずれも常宿程度のものであったように感じています。
幾松が中村氏に提示した史料が何なのかは未だに明かされていませんが、どうも槇村が仲介した5番路地を示す史料のようです。しかし路地の番号は未だに確定できる史料も無く、もし確定されたなら大村益次郎が襲われた2番路地、翠香院が暮らした13番路地、池田屋惣兵衛の娘が再開した池田屋も一度に判明する事になります。
しかし仮に5番路地であったとすれば、幾松は一緒に暮らしていませんし現在施設で説明されている翠香院として孝允没後暮らした場所とも異なります。
nakaさん コメントありがとうございます。
「控屋敷」の件、私も初めて目にした言葉です。江戸では幕府から敷地を与えられて上・下屋敷は建てるのが普通だと思っていたのですが、京の各藩の藩邸はどのように建てられたのでしょうか?
土地が与えられるだけのものならば、勝手に藩邸を購入することも出来なかったのでは?と思います。控えという言葉からは、「藩としては公式の屋敷とは認めていません」というイメージを感じますので、そのまま使わせていただきました。
寺田屋にしても幾松にしても、ほんの50年あるいは100年前のことが簡単に忘れ去られていくことに驚きを感じます。確かに私の住んでいる町でも新しい建物が建つと、その前の風景を思い出せなくなっています。20年前ならば本を出版できる人だけが、証言する権利を持っていました。現在ではこのような自由に発言のできる場があり、その上、検索によって多くの証言を集めることも可能になっています。ですから、なるべく多くのことを残していく努力が必要だと考えています。
nakaさんは京都あるいはその周辺にお住みなのでしょうか?私は遠く離れた地に居りますので、なかなか訪問することもかないません。確かにこのように書いていると、見逃した場所や確認できなかったことが多く、自信を持って書くことが難しいものです。Googleのストリート・ビューを使いながら建物の数を確認するような状況です。
ところで、維新の史蹟 まだ未見です。ネット上のオークションに出ているのは見かけましたが、どうも購入する気にはなれず仕舞いです。今度、図書館で探して見ます。
拙ブログでも何度か書いていますが、京都市役所からそう遠くは無いところに住んでいます。
ブログユーザーが増えるとともにコピペだけの情報が氾濫している気がします。多く書かれた情報=史実であるかのように捉えられる方も多いですが、遡れば数冊の資料だったりもします。その資料が間違っていれば…。
幸い「維新を語る会」という中立な調査をされる団体や、歴史資料館の方と知り合える事ができたので、自身での確認がどれほど大切かを教えられました。メールでお聞き頂ければお役に立てる事があるかもしれません。
維新の史蹟も間違った情報が多い気がします。伊藤痴遊氏の著書を元にされている部分もありますし、作者の紀行文のようなものなのかもしれません。古書で500円ぐらいからあるようですが、購入される必要も無い気がします。
nakaさん コメントありがとうございました。ブログと言いながら1週間以上チェックできず申し訳ございませんでした。時間もかなり経ってしまいましたので、nakaさんのブログの方に少し書き込みさせていただきました。恐れ入りますがそちらをご参照下さい。
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