六道珍皇寺
臨済宗建仁寺派 大椿山 六道珍皇寺(ろくどうちんのうじ) 2008年05月16日訪問
鴨川の東岸を南北に走る川端通から、松原通に入り東に進むと小野篁卿旧跡の碑とともに六道の辻と記された赤味を帯びた石碑が現れる。この石碑の奥に六道珍皇寺の山門が開いている。
六道珍皇寺の開基については諸説あり、いずれが真実かは判断しにくい。高津希和子氏の「珍皇寺鐘論 -『古事談』鋳鐘説話をめぐって-」の論文にはそのあたりの経緯が記されていたので、これを参考にしてまとめてみる。 平安時代前期の延暦年間(782~805)大和の真言宗大安寺住持であった慶俊僧都によって珍皇寺が建立されとする説がある。「本朝高僧伝」によると慶俊は、河内国丹比郡の河内藤井氏の出身で大安寺に学び、天応元年(781)に光仁天皇の勅命を受け和気清麻呂とともに愛宕神社を中興し、王城鎮護の社としている。これは平安遷都前に行われたことである。慶俊の没年は延暦年間で90歳だったとされている。「東寺百合文書」などには慶俊は空海の師に当たるとされているが、実際にどのような関係であったかは良く分からない。空海は20歳の時、大安寺の勤操を師とし槇尾山寺で出家したと説もあるように、勤操あるいは同じ讃岐の出身の大安寺の戒明から影響を受けていたことは間違いないと思われる。ちなみに戒明は慶俊に師事し、華厳経を修学している。
これ以外にも開基については承和3年(836)山代淡海による説と東山阿弥陀ヶ峰一帯に居住した鳥部氏の氏寺・宝皇寺が元となったという説もある。「東寺百合文書」には山代淡海が、鎮護国家を祈念して珍皇寺を建立したように記されているが、山代淡海の来歴等は分からない。
先の高津氏の論文では、珍皇寺の開基の特定は行っていないが、慶俊が空海の祖師として現れてくる経緯を勧進への効果を得るためと捉えている。すなわち空海に由縁のある寺であることを標榜することは、寺院や仏像などの新造あるいは修復や再建のために庶民から浄財の寄付を得ることが容易になるということだ。
いずれにしても珍皇寺の所領は鳥部郷・八坂郷・錦部郷の三つの郷に渡るためか、10世紀末頃には、近隣の大寺社としばしば境界論争を起こしていたようだ。平安時代末期から鎌倉時代にかけて東寺によって中興され、寺領も拡大したとされているが、その後兵乱等により珍皇寺は衰微していく。南北朝時代の貞治3年(1364)に臨済宗建仁寺の住持・聞渓良聡が再興され、臨済宗の寺院として現在に至る。
松原通から少し奥まった朱塗りの山門を潜ると、参道の正面に本堂とその前に三界萬霊塔が建つ。凡夫が生死を繰り返しながら輪廻する3つの世界、すなわち欲界、色界、無色界を仏教では三界という。俗界は、淫欲と食欲の2つの欲望にとらわれた有情の住む世界。色界は欲界の2つの欲望は超越したが、物質的条件である色にとらわれた有情が住む世界。そして無色界は欲望も物質的条件も超越し、ただ精神作用にのみ住む世界。万霊というのは三界の有情無情の精霊など全てをさしている。三界萬霊塔はそれらを供養するものである。
本堂の右側には、下で述べる小野篁の井戸を覗く小窓がある。
本堂に向かい左側には鉄骨の屋根の下に石仏が並んでいる。大きさも異なる石仏には、お揃いの赤い前掛けがかけられている。
本堂に向かい右側に六道の迎鐘が納められた鐘楼と閻魔堂が並んで建つ。鐘楼は壁で囲まれているため、中の鐘が見えない。鐘楼の中から綱が出ており、これを引くと鐘を撞かれるらしい。閻魔堂には閻魔王像とともに小野篁像が納められているが、六道参りのとき以外は拝観できない。
六道珍皇寺には、開基といわれている慶俊についての伝承は、盂蘭盆の時期に精霊を迎えるために行われる六道参りの際に撞かれる六道の迎鐘についてのものである。六道参りについては、コスモスさんの書かれたブログ つれづれ日記の 京都・「六道まいり」をご存知ですか(http://heianjin.cocolog-nifty.com/blog/2009/08/post-ff5d-1.html : リンク先が無くなりました )を参照させていただくと現在も京都の人々が、先祖の精霊を迎えることを大切にしていることが伝わってくる。
この六道の迎鐘についての話しは、鎌倉初期の建暦2年(1212)から建保3年(1215)の間に源顕兼によって編纂された説話集・古事談に掲載されている。
珍皇寺の鐘は慶俊僧都が鋳て埋めた。これを三年たって掘り出すように言い渡して僧都は入唐したが、寺僧が僧都の言い伝えを守らず一年半で掘り起こしてしまった。その鐘の音を遠く唐土で聞いた慶俊僧都は、人が槌かずとも六時の時に鳴る鐘にしようと思ったのに早く掘り起こしたために普通の鐘になってしまったと、仕掛けが台無しになったことを歎いたという話しである。
この迎鐘は、冥途にまで響き亡霊を婆婆に呼び寄せるといわれ、孟蘭盆の時期になると六道の迎鐘と称されるようになる。
承和元年(834)遣唐副使に任ぜられるが、承和5年(838)に正使である藤原常嗣といさかいを起こし、乗船を拒否する。その上、朝廷を批判する詩を作ったため嵯峨上皇の怒りを買い、官位剥奪され隠岐へ配流される。しかし承和7年(840)許されて帰京し本位に復する。
承和14年(847)に参議となり公卿に列せられる。仁寿2年(853年)従三位に叙せられるが、まもなくして薨じる。享年51であった。
篁の文才は天下無双と称されるものであったが、一度配流されたにもかかわらず再び官位に復せたのは、法理に明るく政務能力に優れた優秀な官僚であったからであろう。
小野篁は、昼は宮仕えをし、夜は冥府で閻魔大王の傍らで冥官を務めていたという話しが広く伝えられている。平安時代末期に中納言大江匡房の談話を藤原実兼が筆記した説話集・江談抄に「野豊為閻魔庁第二冥官事」と記されているのを始め、今昔物語集には「小野篁、依情助西三条大臣語第四十五」、三国伝記にも「小野篁事」で触れられている。
六道珍皇寺の本堂の背後には、小野篁が冥府への入口にしたといわれる井戸がある。木戸の子扉を開けると遠くに井戸らしき物が見える。残念ながらこの木戸を開けて近くに寄って見ることはできないようだ。篁が冥府から帰って来る井戸は、大覚寺門前六道町辺りにあった福生寺の井戸と伝えられる。つまり東の葬祭地・鳥辺野にある六道珍皇寺から入り、西の葬送地にある化野の福生寺から出てくることになる。そのため珍皇寺の井戸を”死の六道”、福生寺の井戸を”生の六道”と称していたと言われている。北の葬送地にあたる蓮台野入口にある千本閻魔堂の名で知れている引接寺も小野篁ゆかりの寺である。
小野篁の有り余る才能や何にも束縛されない性格の上に、配流から官界に返り咲いた経歴も生と死との間を行き来できる得体の知れない超人という印象を作り出したのであろう。そしてそれが、六道の辻という最も相応しい舞台を得て物語となったのであろう。
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