知恩院 友禅苑
知恩院 友禅苑(ちおんいん ゆうぜんえん) 2008年05月16日訪問
知恩院には昭和29年(1954)に改修造園された友禅苑と江戸時代初期に僧玉淵によって作庭されたと伝わる方丈庭園がある。友禅苑の入口は三門の南側にある階段を登ると現れる。ここで2園共通拝観券を購入するとかなり安くなる。
友禅苑は、宮崎友禅斎生誕300年を記念して、昭和29年(1954)に京都の染織業界の寄進により改修造園されている。
友禅斎の詳しい来歴は明らかではないが、江戸時代前期の承応3年(1654)に生まれ、後に知恩院前に住居を構えたと考えられている。花鳥画や源氏物語の姫などの人物画を得意とし、始めは扇絵師として活躍するが、そのうちに小袖などの衣装の染模様に「友禅の絵を」と多くの注文がされるようになり、染めものの図案を手がけるようになる。そのため友禅の考案者とされている。
友禅の人気が高まると、「友禅ひいなかた」「余情ひなかた」という絵柄集を出版される。これが全国に友禅の人気を広げるとともに、友禅染を広めることとなる。友禅の絵には、通人に好まれるような、ある種の“遊び”や絵の奥に意味が隠された様な粋があった。また扇絵師らしく非常に優れた構図を構成する力を持っていた事が流行につながったと思われる。
友禅染が出現するまでは、刺繍や箔の貼り付け、絞り染や板じめなどが行われてきた。これらの染色方法は、生地の風合いを損なう物だった。一方友禅染は、絵を書くように、思いのままの絵柄を布に染められるため、当時としては画期的なものであった。これを可能にしたものは染料と防染技術の改良であった。
友禅斎は正徳2年(1712)頃より、加賀藩主である前田家の招待を受けて金沢で加賀友禅の発展に力を尽くし、元文元年(1736)に金沢で没する。これにより抽象化された文様を得意とする「京友禅」と絵画的な「加賀友禅」の2つの流れが生まれる。
奢侈禁止令により、豪華な織物や金銀の箔が使えなくなった町人達の装飾への欲求を満たすものとして友禅が時代に歓迎されたという見方もできる。
友禅苑に入るとすぐに東山の湧き水を引き入れた補陀落池が現れる。この池の中央に高村光雲作の聖観音菩薩像が配されている。池の左側には石橋が掛けられ、その先に石段が続くが通行止めとなっているが、鎮守八幡宮と拝殿につながるようだ。池の右手側の上部には裏千家ゆかりの茶室・華麓庵と第86世中村康隆猊下の白寿を記念して移築された茶室・白寿庵がある。
宮崎友禅斎の銅像を過ぎると友禅苑の西側の2/3は枯山水形式となっている。そのまま苑の奥に進むと位置的には知恩院前の広場へとつながっていく。
元治元年(1864)に刊行された花洛名称図会の知恩教院には、華頂道から三門に至る図会が残されている。この図会より鎮守八幡宮へつながる石段とその前に広がる反橋のかけられた池泉に、現在の友禅苑が造られたことが分かる。ちなみに花洛名称図会には知恩院に関する図会が5枚あるが、そのうちの1枚目から3枚目が神宮道側から知恩院の広大な境内をパノラマ的に描写している。
友禅苑は閉鎖された有料の庭園ではあるが、上記の通り三門の南側の八幡宮への参道に造られている。どちらかの方が書かれているように、この場所に庭園を作るのならば無料で開放してよいような気もする。
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