真宗本廟(東本願寺)
浄土真宗大谷派本山 真宗本廟(東本願寺) (しんしゅうほんびょう) 2008年05月18日訪問
西本願寺の阿弥陀堂門から続く正面通を東に進み、新町通に突き当たると南に下る。やがて大きな七条通に出ると、東本願寺の境内を区切る塀が現れる。この塀を回りこむように堀川通を北上すると東本願寺の正面に出る。
西本願寺に対して東本願寺と呼ぶが、正式には真宗大谷派の本山で山号はなく、真宗本廟という。
第8世の蓮如は本願寺を再興し、現在の本願寺教団の礎を築いたことより中興の祖とされている。この後、第11世顕如の時代に戦国時代を向え、本願寺の教勢も大いに発展する。それと同時に日本有数の大教団に留まらず、幕藩制度を超えた強力な社会的勢力に発達している。西本願寺や智積院の項でも触れたように、この急激な勢力拡大は天下統一を目指す織田信長の最大の障害となり、元亀元年(1570)から10年間、石山合戦という形で織田信長軍との間に交戦状態が続く。 後に東本願寺を創設する教如は、第11世顕如の長男として永禄元年(1558)摂津国石山(現在の大阪城の地)にあった石山本願寺で誕生している。もともと石山本願寺は蓮如の隠居所とされており、当時は大坂御坊あるいは大坂本願寺と呼ばれていた。天正8年(1580)顕如は信長との間に講和が成立させ、4月に石山本願寺を去り、紀伊鷺森に入っている。しかし信長を信用しない教如は、顕如に反し徹底抗戦を主張し、石山本願寺に籠城する。この時、教如は20歳を越えたばかりの若者であった。顕如は教如を義絶し、最終的には新門跡の教如も雑賀に退去し、この年の8月に石山は信長のものとなっている。しかし引き渡し直後に石山本願寺は出火し、三日三晩燃え続けた火は石山本願寺を完全に焼き尽くしている。
この後、天正10年(1582)本能寺で織田信長が討たれると、後陽成天皇は顕如に教如の赦免を提案し、義絶は赦免され、顕如と共に住し寺務を幇助するようになる。顕如は豊臣秀吉と和解し天正13年(1585)には摂津中島に転居して天満本願寺を建立する。さらに天正19年(1591)京都の七条堀川の地に寺地が与えられ、京都に本願寺教団を再興することとなったが、豊臣政権の強い影響下に置かれたともいえる。
文禄元年(1592)顕如の示寂に伴い、教如は本願寺を継承する。その際、石山合戦で籠城した元強硬派を側近に置いたことや、准如は顕如直筆の譲状を持っているということで、教団内に対立が発生する。文禄2年(1593)秀吉は、本願寺内の対立を調停するため教如を大坂に呼んでいる。Wikipediaの教如には、その際に秀吉が以下の十一か条を示したとしている。
1 大坂ニ居スワラレ候事。
2 信長様御一類ニハ大敵ニテ候事。
3 太閤様の御代ニテ、雑賀ヨリ貝塚ヘ召シ寄セラレ、貝塚ヨリ天満ヘ召シ出サレ、天満ヨリ七条ヘ遣シアゲラレ候事、御恩ト思シ召サレ候事。
4 当門跡不行儀のこと、先門跡時ヨリ連レント申上候事。
5 代ユヅリ状コレアル事、先代ヨリユヅリ状モコレアル由ノ事。
6 先門跡セツカンノ者メシ出サレ候事。
7 メシ出サレ候人ヨリモ、罷リイデ候者ドモ、不届キニ思シ候事。
8 当門主妻女ノ事。
9 ソコ心ヨリ、トドカザル心中ヲ引キ直シ、先門跡ノゴトク殊勝ニタシマミ申スベキ事。
10 右ノゴトクタシナミ候ハバ、十年家ヲモチ、十年メニ理門ヘアイ渡サルベキ事、是ハカタ手ウチノ仰付ラレ様ニテ候得共、新門跡コノウチ御目ヲカケラレ候間、カクノゴドク由ニ候。
11 心ノタシナミモナルマジキト存ゼラレ候ハバ、三千国無役ニ下サルベク候アイダ、御茶ノ湯トモダチナサレテ候テ、右メシイダシ候イタヅラモノ共メシツレ。御奉公候ヘトノ儀に候。
秀吉は1から8で教如の非を弾劾し、10で10年後に弟の准如を法主を譲ることを命じている。教如あるいは教如の側近達がこの命に服しなかったため、秀吉は即刻、准如に本願寺第12世法主を継承させ、教如を退隠させている。
慶長3年(1598年)豊臣秀吉が亡くなり、慶長5年(1600)の関が原の戦いに徳川家康が勝利すると天下人と本願寺の関係は新たな時代を迎えることとなる。
家康と本願寺の関係は、三河一向一揆から始まっているとも言える。
織田信長と顕如による石山合戦の始まる以前から各地で、浄土真宗の信徒たちによって一向一揆が頻発していた。文正元年(1466)に発生した近江・金森合戦が最初の一向一揆とされているが、家康が統治している三河国の西三河全域で永禄6年(1563)翌年にかけての半年間、三河一向一揆が発生している。
家康の家系である安祥松平家は初代の親忠から6代目当主の家康まで、松平宗家の当主となっているが、必ずしも安祥松平家によって安定した統治が行われてきたわけではなく、一族の間にも内紛が続いていたようだ。この安祥松平家が勢力を拡大する際に、もともと真宗門徒でもあった安城譜代を家臣団化している。また家康の時代も今川氏の人質として駿府に送られていたので、松平氏の三河支配は実質的に中断されている。永禄3年(1560)の桶狭間の戦いで今川義元が敗死し、松平家は今川氏から独立している。三河一向一揆は家康が三河・岡崎城に戻った3年後に起きた事が分る。
蓮如の孫に当たる本證寺の空誓が中心となり、三河三ヶ寺と呼ばれる本證寺、上宮寺、勝鬘寺と本宗寺および、桜井松平氏、大草松平氏、吉良氏、荒川氏などの反家康勢力、そして門徒として家康の家臣の本多正信、蜂屋貞次や夏目吉信、そして今川の残党までも加わり、三河国内の内紛の様相も呈するようになる。一時は松平氏の本城である岡崎城まで攻め上り、家康を窮地に陥れるが、馬頭原合戦の勝利により徳川家康は優位に立ち、和議に持ち込み一揆の収束に成功する。
一揆衆を完全に解体させた後、家康は本願寺教団の寺院に他宗への改宗を迫り、これを拒んだ寺院は破却している。この本願寺教団に対する弾圧とは対称的に、離反した家臣には寛大な処置で臨み家中の結束を高める事に注力している。
この後、天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いの前年に真宗禁制を解いている。これは、秀吉と顕如の関係への分断工作、あるいは家康の顕如に対する支援の申し入れと考えられているが、どうも効を奏さなかったようだ。既に触れたように、秀吉と顕如は天正13年(1585)に和解し、天正19年(1591)京都の七条堀川に寺地を寄進されている。既に本願寺と秀吉の間には強い関係が出来上がっていた訳である。
秀吉によって排除された教如は、関が原の戦いの前から家康に接近するようになる。家康も顕如や准如との関係が深められなかったため、教如との関係構築には期待するものが大きかったと思われる。教如は家康の東軍のための諜報活動も行っている。この活動は石田三成派に露見し、教如は慶長5年(1600)8月関東からの帰りに安八郡の光顕寺(現在の岐阜県安八郡安八町森部)で西軍に襲われている。この時は、辞世の句を詠むほどの状況だったが、門信徒のお陰で危機を脱している。これらの人々には東本願寺の直参という特別待遇と土手組の名称を与えられている。
家康は関ヶ原の戦いの後、教如を本願寺の法主に再任させようと考える。しかし本多正信の「徳川家は教如を支援、勢力を二分したまま本願寺の対立状況を持続させる」という案を採用し、本願寺の分立を企図する。本願寺勢力の拡大を阻止する考えは、三河一向一揆で窮地に陥れられた経験から来ていることは明らかである。また再び本願寺との対立関係に巻き込まれることは、天下統一を果たせないまま世を去った織田信長を思い起こされる。
慶長7年(1602)後陽成天皇の勅許を背景に、教如は烏丸六条の四町四方の寺領が寄進され、七条堀川の本願寺の一角にある堂舎を移すともに、本願寺を分立している。この本願寺の分立により、准如を第12世法主とする浄土真宗本願寺派と、教如を第12世法主とする真宗大谷派とに分裂する。慶長8年(1603)阿弥陀堂の落成とともに、上野厩橋(群馬県前橋市)の妙安寺より親鸞上人木像を迎え、東本願寺が分立する。翌慶長9年(1604)御影堂が落成する。承応元年(1652)規模拡大のため再建に着手に入る。そして万治元年(1658)に御影堂、寛文10年(1670)阿弥陀堂が落成する。しかし元治元年(1864)の蛤御門の変による兵火に罹災し、御影堂・阿弥陀堂・渉成園など伽藍の大部分を消失している。現在の御影堂と阿弥陀堂は明治28年(1895)、御影堂門と阿弥陀堂門は明治44年(1911)に完成した建物である。この境内でもっとも大規模な建物である御影堂は、間口76メートル、奥行き58メートル、高さ38メートルと西本願寺の御影堂よりも大きく作られている。また北に御影堂、南に阿弥陀堂という配置は東西で異なっている。
現在、本願寺派の末寺・門徒が、中国地方に特に多いのに対し、大谷派では北陸地方・東海地方に多くの門徒を抱えている。つまり尾張門徒や三河門徒などによって構成されている訳である。この傾向は上記のような東西分派にいたる歴史的経緯に因っている。また中国地方に多くの門徒を持つ西本願寺と長州藩の幕末の結びつきにもつながっていく。
東本願寺の公式HP(http://www.tomo-net.or.jp/cere/history.html : リンク先が無くなりました )では、このあたりの経緯を以下のように簡潔にまとめている。
織田信長の死後、豊臣秀吉は本願寺に京都七条堀川の地を与え、1591年、御影堂と阿弥陀堂が移築整備されました。1602年、徳川家康は本願寺第12代・教如上人に現在地の東六条に寺地四町四方を寄進、これによって東本願寺が誕生。
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