本願寺(西本願寺)
浄土真宗本願寺派本山龍谷山 本願寺(西本願寺) その1(ほんがんじ) 2008年05月18日訪問
四条烏丸から地下鉄烏丸線に1駅乗車し、五条駅で下車する。東本願寺の北側の花屋町通を東に進み、堀川通に出ると、目の前に西本願寺の堂宇が現れる。
西本願寺は、浄土宗本願寺派の本山で山号は龍谷山、寺号は本願寺である。数多くの国宝、重要文化財を保有し、平成6年(1994)ユネスコの世界遺産に登録される。
浄土真宗の宗祖親鸞は、日野誕生院の項で触れたように承安3年(1173)現在の法界寺、日野誕生院付近で、日野有範の長男として誕生したとされている。治承5年(1181)青蓮院において、後の天台座主・慈円のもと9歳で得度している。その後、叡山に登り横川の首楞厳院の常行堂において、天台宗の堂僧として不断念仏の修行をしたとされている。建仁元年(1201)親鸞29歳の時に叡山を下山し、六角堂で百日参籠を行う。そして岡崎の地に草庵を結び、吉水にあった法然の草庵へ通い、専修念仏の教えを聴聞し入門を決意する。
元久元年(1204)叡山の衆徒は、専修念仏の停止を訴える決議を行う。これが、安楽寺の項でも記した承元の法難の始まりとなる。そして建永元年(1206)後鳥羽上皇が熊野行幸中に、上皇が寵愛する松虫と鈴虫という側近の女性がし、鹿ケ谷の念仏法会に参加する。建永2年(1207)松虫と鈴虫が出家し尼僧となると後鳥羽上皇は憤怒し、専修念仏の停止を決定する。住蓮房と安楽房は死罪、法然ならびに親鸞を含む7名の弟子を流罪に処する。法然は土佐国番田(現在の高知県)へ、そして親鸞は越後国国府(現在の新潟県)へ配流される。結局、法然は九条兼実の庇護により、九条家領地の讃岐国(現在の香川県)に配流地が変更される。建暦元年(1211)法然は入洛の許可が下り帰京する。やはり同年に赦免の宣旨が下った親鸞は、法然との再会を願うが豪雪地帯の越後から京都へ戻ることができなかった。建暦2年(1212)親鸞が雪解けを待つ内に法然は死去する。 親鸞は越後に留まることを決め、建保2年(1214)以降、約20年間にわたり東国の布教にも注力することになる。その後京に戻り、著作活動に励む。法然を師と仰いでから真の宗教である浄土宗の教えを継承し、さらに高めて行く事に力を注ぎ、親鸞には自らが開宗する意志は無かったように思われる。独自の寺院を持たず、各地に念仏道場を設けて教化している点は師の法然の行動と同じである。
弘長2年(1262)宗祖親鸞が90歳で入滅すると、京都東山の鳥辺野の北、大谷に石塔を建て遺骨が納められている。実に簡素なものであったと考えられている。そこで聖人の死後10年経った文永9年(1272)末娘の覚信尼と関東の門弟達が吉水の北の地、現在の知恩院塔頭・崇泰院付近に六角の廟堂を営み、親鸞聖人の影像を安置し遺骨を移している。これが大谷廟堂であり、本願寺の発祥とされている。
本願寺の公式HPでは、本願寺の寺号は、元亨元年(1321)頃より使われてきたとされている。また第3世の覚如上人の晩年から次の善如上人の頃、親鸞聖人の影像の横に阿弥陀仏像を堂内に安置している。これが現在のように御影堂と阿弥陀堂の両堂に別置するのは、第7世の存如上人の頃である。5間四面の御影堂を北に、3間四面の阿弥陀堂を南に並置して建てられている。
応永22年(1415)第七世存如の長子として第8世蓮如が生まれる。この時期の本願寺は、青蓮院の末寺に過ぎず、他宗や特に浄土真宗他派の佛光寺教団の興隆に対し衰退の極みにあった。その本願寺を再興したのが蓮如であった。永享3年(1431) 17歳の時、青蓮院で得度し、法名を蓮如と称する。文安4年(1447)に関東、宝徳元年(1449)に北国へ存如とともに布教活動を行う。長禄元年(1457)第7世存如の示寂により、本願寺第8世を継職する。この時期は本願寺にとっても最も困難な時期であり、青蓮院の本寺であった比叡山延暦寺から、宗旨についても弾圧が加えられている。これに対して蓮如は延暦寺への上納金支払いを拒絶するなどしている。そして寛正6年(1465)延暦寺は本願寺と蓮如を仏敵と認定し、西塔の衆徒は大谷本願寺を破却する。蓮如は祖像を奉じて近江の金森、堅田、大津を転々とする。更に真宗高田派の専修寺とは絶縁状態となる。 文正2年(1467)蓮如の隠居と長男・順如の廃嫡を条件に延暦寺と和議を結ぶ。文明3年(1471)越前吉崎に赴き、同所に吉崎御坊を建立する。文明15年(1483)山科本願寺の落成、文明18年(1486)紀伊に下向し鷺森別院の基礎を築く。明応5年(1496)大坂石山の地に石山御坊を建立し、居所とする。これが後の石山本願寺となる。そして明応8年(1499)山科本願寺において、85歳で示寂。
蓮如は本願寺を再興し、現在の本願寺教団の礎を築いた中興の祖とされている。この後、戦国時代を向えるが第11世顕如の時代に本願寺の教勢は大いに発展し、日本有数の大教団に留まらず、幕藩制度を超えた強力な社会的勢力に発達する。智積院の項でも触れたように、この急激な勢力拡大は天下統一を目指す織田信長の障害となり、元亀元年(1570)から10年間、石山合戦という形で織田信長軍との間に交戦状態が続く。 天正8年(1580)信長との間に講和が成立し、4月に顕如は石山本願寺を去り、紀伊鷺森に入っている。しかし信長を信用しない教如は、父である顕如に反し徹底抗戦を主張し、石山本願寺に籠城する。顕如は、教如を義絶する。最終的には新門跡の教如も雑賀に退去し、この年の8月に石山は信長のものとなっている。そして引き渡し直後に石山本願寺は出火し、三日三晩燃え続けた火は石山本願寺を完全に焼き尽くしている。
この後、天正10年(1582)本能寺で織田信長が討たれると、後陽成天皇は顕如に教如の赦免を提案し、義絶は赦免され、顕如と共に住し寺務を幇助するようになる。さらに顕如は豊臣秀吉と和解し天正13年(1585)には摂津中島に転居して天満本願寺を建立する。さらに天正19年(1591)京都の七条堀川の地に寺地が与えられ、京都に本願寺教団を再興することとなったが、豊臣政権の強い影響下に置かれたともいえる。文禄元年(1592)顕如の示寂に伴い、教如は本願寺を継承する。その際、石山合戦で籠城した元強硬派を側近に置いたため教団内に対立が発生する。文禄2年(1593)秀吉は教如を大坂に呼び、10年後に弟の准如に本願寺法主を譲る旨の命が下される。教如はこの命に服しなかったため、秀吉は准如に本願寺第12世法主を継承させ、教如を退隠させている。この後の本願寺分裂の歴史は東本願寺で触れることとする。
「本願寺(西本願寺)」 の地図
本願寺(西本願寺) のMarker List
No. | 名称 | 緯度 | 経度 |
---|---|---|---|
01 | ▼ 西本願寺 阿弥陀堂 | 34.9921 | 135.7516 |
02 | ▼ 西本願寺 御影堂 | 34.9914 | 135.7516 |
03 | 西本願寺 書院 対面所 | 34.9908 | 135.7509 |
04 | 西本願寺 書院 白書院 | 34.991 | 135.7509 |
05 | 西本願寺 書院 黒書院 | 34.9912 | 135.751 |
06 | 西本願寺 北能舞台 | 34.9911 | 135.7509 |
07 | 西本願寺 虎溪の庭 | 34.9909 | 135.7512 |
08 | ▼ 西本願寺 唐門 | 34.9903 | 135.751 |
09 | ▼ 西本願寺 飛雲閣 | 34.9905 | 135.7524 |
10 | ▼ 西本願寺 大玄関門 | 34.9903 | 135.7502 |
11 | 西本願寺 百華園 | 34.9927 | 135.7526 |
12 | ▼ 西本願寺 太鼓楼 | 34.9927 | 135.7526 |
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