正伝寺
臨済宗南禅寺派 吉祥山 正伝護国禅寺(しょうでんごこくぜんじ) 2008年05月19日訪問
山を背にして建つ法雲寺を見上げながら、道を進むと正伝寺の駐車場と山門が現れる。
正伝寺は、臨済宗南禅寺派で諸山の格式を持つ寺院で、山号は吉祥山、正式な寺号は正伝護国禅寺という。北条時宗が鎌倉幕府執権になる文永5年(1268)鎌倉の建長寺で学んだ東巌慧安が、師である兀庵普寧を開山として烏丸今出川に正伝寺を創建している。
慧安は、嘉禄元年(1225)播磨国に生まれ、播磨の書写山圓教寺で出家受戒し、天台教学を学ぶ。泉涌寺で学んだ後、正嘉元年(1257)中国の宋へ渡るため博多へ下ったが、悟空敬念に出会い渡宋を中止し、臨済宗に改宗している。その後、建長寺で宋よりきた兀庵普寧に参禅し、その法を嗣ぐ。兀庵は鎌倉幕府執権北条時頼の要請により建長寺2世となり、弘長3年(1263)時頼が亡くなると支持を失い、文永2年(1265)に帰国している。慧安が聖護院執事静成法印の帰依を受け、一条今出川に正伝寺を創建したのが文永5年(1268)とすると、兀庵は既に日本を去っていたこととなる。
元寇襲来に際して慧安は、石清水八幡宮で有名な異国降伏の祈祷を行っている。国難に立ち向かう、
「願わくば神明、国民の五体の内に入り、蒙古の敵を討ち滅ぼさせしめ給い、神は雲となり、風となり、雷となり、国敵を催破せしめられんことを」
という祈願文や
「すゑの世の末の末までわか国は よろづのくにゝすぐれたる国」
の歌が残されている。慧安の行動を賞賛した亀山天皇は、正伝寺に護国の山号を与えている。これにより正伝寺の寺運が隆盛したことからか、聖護院執事宣朝僧正と比叡山衆徒の恨みを買い、正伝寺の堂宇は破却される。そして東巌慧安は京を去り、再び鎌倉に下っている。
弘安5年(1282)賀茂社の社家・賀茂経久が現在地に荘園を寄付し、諸堂、伽藍を造営したとされている。そして後醍醐天皇の勅願所、3代将軍・足利義満の祈願所となり、室町時代には天皇家や将軍家の帰依を受ける。しかし応仁の乱(応仁元年(1467)~文明9年(1477))の兵火により衰退する。豊臣秀吉や徳川家康の援助を受け、金地院祟伝により再興される。さらに承応2年(1653)崇伝の法嗣である最岳元良により、伏見城の御成御殿を金地院から移し、正伝寺の方丈としている。江戸時代には塔頭5寺を有するようになる。
上記のように正伝寺の方丈は伏見城の遺構と言われている。天井に残る血痕は、関ヶ原の戦いの前哨戦となる伏見城の戦い(慶長5年(1600)7月18日~8月1日)に敗れた守将・鳥居元忠をはじめとする1800人と言われる守備軍が、落城の際に自刃して果てた跡とされている。伏見城の床板を供養するため血天井としている京の寺院には、三十三間堂の近くの養源院、鷹峯の源光庵、大原の宝泉院、宇治の興聖寺などがある。伏見城は豊臣秀吉隠居屋敷より始まり、秀吉によって指月山伏見城、木幡山伏見城が建設されている。そして伏見城の戦いで落城とともに炎上したとも言われている。もしこの時、伏見城が全焼したとすると血天井は残らなかったこととなるが、どうもそのあたりは明らかでないようだ。関が原の戦いの後、伏見城は徳川家康によって慶長7年(1602)再建され、翌年の慶長8年(1603)この地で征夷大将軍の宣下を受けている。そして慶長20年(1615)の大阪の役の後、伏見城の戦略的な役割が弱まり、元和5年(1619)に伏見城の廃城が決まり、元和9年(1623)徳川家光の将軍宣下が実施されたのを最後として完全な廃城となる。多くの伏見城遺構は、この時代のものであるとされている。さて正伝寺の血天井は慶長5年(1600)から承応2年(1653)までの50年間どこにあったのであろうか?ちなみに金地院の方丈は慶長16年(1611)に崇伝が伏見桃山城の一部を徳川家光から賜り、移築したものとされている。
方丈の東庭は、小堀遠州作の枯山水と伝えられている。岩倉幡枝の円通寺と同じように比叡山を借景とした庭となっている。皐月の刈り込みが右側から七五三に配され、獅子の児渡しの庭園と呼ばれている。虎は三匹の子を産むと一子は彪となり、母虎がいないと他の二子を食ってしまうとされている。母虎は川を渡る時は彪を先に渡す。次に一子を渡して彪を連れて帰る。そして彪を残して残りの子を渡した後に豹を最後に渡すという有名な説話である。
方丈は東に開き、白い築地塀が北と東の2面を囲む。南は斜面が庭に迫っているため、塀ではなく刈り込みを数重に設けることで庭の領域を作り出している。その結果、山の緑と庭の皐月が一体化する効果を引き出している。2つの門が北と東の塀の端に近いところに造られている。北の瓦葺の門は庫裏の前から直接庭に入るように造られている。東の門は、桧皮葺の浅い勾配を持った屋根を載せている。少し開きすぎに感じられる屋根は、左右に広がる庭に合わせたものであろう。この門から細い延段が方丈の方向に続く。この延段を境にして北側は白砂が敷かれ、南側は斜面と一体化した刈り込みへとつながっていく。方丈の足元は敷石が敷き詰められている。その先に屋根からの雨水を受ける鉢が置かれ、溢れた水を流す溝が切られている。その先は白砂との間にボーダーが巡らされている。北の門の脇には背が高い緑色の植物が植えられ、単調になりやすいこの庭の景色に変化を与えている。
中田氏のHP 中田ミュージアム には、昭和10年(1935)重森三玲によって行われた修復で、古図に従い白砂に置かれた石が取り除かれたことが記されている。確かに比叡山の借景とバランスよく配置されているが刈り込みだけでは、コンセプチュアルで単調な庭となってしまう。その強迫観念に負けて石を置いてしまう心情は十分に理解できる。しかし、それでは作庭者の意図を否定し、普通の庭園となってしまったから、重森三玲は敢えて排除したのだろう。
借景の比叡山は、円通寺と比較してやや小さく見える。比叡山からの距離が正伝寺の方が遠いため、当たり前のことではある。しかし円通寺のように中景の木立がないため空が広く見え、比叡山への集中力が欠けてしまったのかも知れない。逆に円通寺の借景は木立によって余分な空は切り取られ、比叡山に対する集中は増す一方、美しい稜線が幹によって遮られている。
正伝寺は船山と釈迦谷山の稜線上にある。現在は京都ゴルフ倶楽部舟山コースに三方を囲まれている。確認することは出来なかったが、山門から庫裏の間の参道からはゴルフカートが見えるとも聞く。北賀茂神社の本殿の北には京都ゴルフ倶楽部賀茂コースがある。この2つのゴルフ場は終戦後に進駐した米軍によって造られている。
日経BPnetには京都ゴルフ倶楽部の歴史(http://www.nikkeibp.co.jp/style/golfers/special/kyoto/060726.html : リンク先が無くなりました )が簡潔にまとめられている。
「進駐聯合軍将兵ノ聖地ニ對スル個々ノ不法侵犯ヲ防止シ聖域ノ尊厳ヲ堅守スル為ノ不法立入禁止区域」
として、京都御所、歴代天皇陵に加え、神社4社が指定されていたにも関わらず、上賀茂神社の社地にゴルフ場が計画される。進駐軍による建設工事は一時期中断するが、今度は近畿観光株式会社という民間の手によって工事は続行される。日経BPnetはゴルフ場の紹介として書いているため、淡々とした論調になっている。この正伝寺と上賀茂神社の目と鼻の先にゴルフ場が作られていることは、日本と米軍の関係は終戦後から平成の時代まで変わらずに続いていることが確認できる出来事である。
庫裏を出て参道を下り始める時、鐘楼が見えた。この鐘楼の屋根は方丈の庭越しに少しのぞいている。あまり多く見えると比叡山の眺望を邪魔してしまうので、少し離れた場所に置かれている。この鐘楼の足元は畑となっているので、正伝寺の住職家族の自給分なのだろう。
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