文書と写真・地図による「記憶」の再現

大徳寺 総見院



大徳寺 総見院 (だいとくじ そうけんいん) 2008年11月22日訪問

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大徳寺 総見院

 興臨院を出て、三門、仏殿そして法堂を左手に見ながら北に進む。孤篷庵へと続く東西路を西に曲がると右手に総見院の山門が見える。通常非公開の塔頭であるが、何かの催しが行われているのか、門が開いているので少し中を覗いてみる。
 総見院は、大徳寺117世住持古渓宗陳と開山として、天正11年(1583)織田信長の一周忌の追善のために秀吉によって創建されている。そのため寺名は信長の戒名 総見院殿贈大相国一品泰厳大居士に由来している。しかし天正16年(1588)後で触れるように古渓は秀吉の怒りに触れ九州に配流される。そして130世住持玉甫紹琮が継いだため、総見院は古渓と玉甫を両祖としている。

 天正10年(1582)6月2日の早朝、本能寺は明智光秀軍に包囲される。最早逃れることが無理だと悟った信長は、小姓の森蘭丸に火を放たせ自刃したとされている。変の後、明智軍は信長の遺骸を捜索したが、ついに発見されなかった。それは信長と信忠の遺骸あるいは遺灰を、西ノ京蓮台野芝薬師西町(現在の今出川通大宮)にあった阿弥陀寺の住職玉誉清玉上人が密かに運び出し、荼毘に付したからとされている。この説は、阿弥陀寺に残されている信長公阿弥陀寺由緒之記録に因っている。しかしこの由緒之記録自体が、古い記録が焼けたため享保16年(1731)に記憶を頼りに作り直したとされている。また堀と塀で守られている本能寺に僧侶が入り込んで遺骸を持ち帰ることが本当に出来たのか?信長の長男である信忠は二条御所で自刃しているため、清玉上人は本能寺の他にも二条御所にも出向き、信忠の遺骸を捜し出したのか?等等、そのまま信用することが容易でない内容である。

 信長公阿弥陀寺由緒之記録の真偽はさておき、山崎の戦いに勝利した秀吉は、清玉上人に信長の法要を依頼したとされている。上人は既に葬儀を行っているので不要であると退けている。さらに秀吉は法事料として300石の朱印や永代墓所供養のための寺領を与えるなど上人を懐柔しているが、功を奏しなかった。阿弥陀寺は8町四方の境内と塔頭11寺を構える大寺院であった。そして正親町天皇は清玉上人に深く帰依し、東大寺大仏殿の勧進職を命じるとともに、阿弥陀寺は勅願所としていた。そのような背景があったので清玉上人は秀吉の申し入れを拒絶することができたのであろう。
 この後、秀吉の都市改造の一環によって、阿弥陀寺は天正13年(1585)寺町今出川に移転している。現在も阿弥陀寺に織田信長公本廟が残る。大正6年(1917)信長公を正一位に追贈するために宮内省が調査を行い、阿弥陀寺の信長公墓が廟所であると確認されたため、勅使の来訪があったとされている。

 さて清玉上人に拒絶された秀吉は、天正10年(1582)10月大徳寺で盛大な葬儀を挙行している。後に総見院の開山となる古渓宗陳は、この葬儀において導師を務めている。

 古渓宗陳は天文元年(1532)越前朝倉氏の一族に生まれ、出家後足利学校で学ぶ。大徳寺102世住持江隠宗顕に師事し、後に堺の南宗寺の住持となる。この時期に千利休と知り合う。天正元年(1573)107世住持笑嶺宗訢の法を嗣ぐ。
 総見院が建立された翌年の天正12年(1584)秀吉は信長の新たな菩提寺として、大徳寺の南にある船岡山に天正寺の建立を企図している。年号を寺名とする元号寺は延暦寺、建長寺、建仁寺、寛永寺など、天皇によって下賜される格の高い寺院であるため多くはない。天正寺建立事業は古渓に任され、正親町天皇揮毫の扁額まで下賜されている。しかし天正16年(1588)石田三成との衝突がきっかけで秀吉の勘気に触れ九州博多に配流となっている。後に起こる千利休の切腹と同様、真相の分からない配流である。この天正16年(1588)は紀州、四国、越中の攻略、そして九州征伐が終わる時期にあたり、既に秀吉の天下統一は時間の問題となっていた。この時期にわざわざ信長の権威を得る必要がなかったことは事実である。ということで天正寺建立の必要性は天正12年(1584)から薄まっていたのだろう。
 古渓は千利休の援助により京へ戻り、天正19年(1591)豊臣秀長の葬儀の導師を務める。この年に発生した千利休の切腹事件に絡んで、千利休の木像を大徳寺山門に祀った責任をとらされる。激怒した秀吉は大徳寺の破却を命じるが、古渓が体を張って守ったため、今日のように大徳寺は残ったとも言える。晩年は洛北の市原にある常楽院に隠遁している。

 そして約300年後の明治13年(1880)天正寺が企図されたのと同じ船岡山の東麓に建勲神社が創建される。正に平安京の真北に位置する船岡山は、四神相応において玄武と見なされ、その守りとして信長に任せたという見方もできるだろう。
 寛政11年(1799)に刊行された都林泉名勝図会には総見院について以下のように記している。
     「総見院〔白毫院旧跡建之、大慈広照禅師古渓和尚、大悲広通禅師玉甫和尚の両祖とす、聚光の西にあり。天正年中秀吉公右大臣信長公の為に建レ之、信長は天正十年六月自殺、四十九歳、号二総見院殿従一位太政大臣一。○秀吉公は慶長三年八月十八日薨ず、六十三歳〕」

     客殿中ノ間   墨画山水    長谷川等伯筆
     礼ノ間   墨画山水猿猴鶴 同筆
     檀那ノ間  墨画芦鴈    同筆

 創建時は広大な境内に豪華絢爛な堂宇が建ち並んでいたといわれているが、神仏分離令後の廃仏毀釈により、大規模な破却が行われ、堂塔、伽藍、寺宝など多くが失われ、廃寺となっている。大正年間(1912~1926)に堂宇は再興され、昭和36年(1961)信長380年忌に、本山に遷され安置されていた信長木像が本堂に戻されている。

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大徳寺 総見院

「大徳寺 総見院」 の地図


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大徳寺 総見院 のMarker List

No. 名称 緯度 経度
 大徳寺 総見院 35.044 135.7446
01  大徳寺 仏殿 35.0431 135.7461
02  大徳寺 法堂 35.0435 135.746
03  大徳寺 正受院 35.043 135.7451
04  大徳寺 三玄院 35.0432 135.7454
05  大徳寺 聚光院 35.044 135.7451

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