法輪寺
真言宗五智教団 智福山 法輪寺(ほうりんじ) 2008年12月21日訪問
阪急電鉄嵐山線の終点・嵐山駅の駅前広場から西に進むと京都府道29号に入る。府道29号宇多野嵐山山田線は、府道67号西京高槻線すなわち物集女街道に接続し、松尾駅と嵐山駅を通過し渡月橋を渡り、清涼寺で東に折れる。広沢池の南畔を通り、福王子神社のある宇多野の福王子交差点に至る。
物集女街道は樫原で山陰街道、そして向日市物集女町を通って寺戸で西国街道に合流している。そのため昔から西国街道と山陰街道をつなぐバイパスとして利用されてきた。元治元年(1864)6月28日、長州藩家老国司信濃は兵を率いて山崎から嵯峨の天龍寺に入っている。この後、兵は増強され7月19日の夜2時頃に御所に向けて進軍する。すなわち禁門の変である。恐らく国司隊は西国街道から山崎に入り、この物集女街道を北上して天龍寺に至ったのであろう。また19日の戦いで敗れた国司隊の兵達は、一度天龍寺門外まで戻り、再び山崎方向に去っていったとあるから、やはり物集女街道を南下したのであろう。
府道29号を渡月橋方面に100メートル程度進むと「右 虚空蔵 法輪寺」の石標が建つ。現在、法輪寺は真言宗五智教団に属し、山号を智福山と称する。真言宗五智教団の本山は、仏法僧で有名な愛知県新城市の鳳来寺山である。法輪寺は虚空蔵法輪寺あるいは嵯峨虚空蔵とも呼ばれ、奥州会津柳津の円蔵寺、伊勢の朝熊山の金剛證寺とともに日本三大虚空蔵のひとつとされているらしいが、どうも明確には定まっていないようだ。
虚空蔵とは虚空蔵菩薩のことであり、広大な宇宙のような無限の智恵と慈悲を持った菩薩という意味がある。そのため智恵や知識、記憶といった面での利益をもたらす菩薩として信仰されている。そのため法輪寺で行われている十三詣りも、数え年13歳に成った少年少女が元服を迎え、大人と成ったことに感謝し、これから先の万物の福徳と英知を虚空蔵菩薩に授かるための行事とされている。なお、御参りの帰り道、渡月橋を渡るまで後ろを振り返ると知恵が本堂に帰ってしまうという言い伝えがある。
寛政11年(1799)に刊行された都林泉名勝図会に掲載されている渡月橋と法輪寺を描いた図会には下記のような文が記されている。
近年下嵯峨法輪寺に三月十三日、十三才なる男女都鄙より来て群集大かたならず。本尊虚空蔵菩薩に福智満の智恵を貰ふとて、年々に増て参る也。これを十三参といふ。
法輪寺の公式HPによると、西暦300年頃には法輪寺の寺域に三光明星尊を祀った葛野井宮が存在していたと考えられている。嵐山の項で触れたように秦氏がこの地を開発に着手したのは、日本書紀に記されている応神天皇の時代よりやや下った5世紀後半の頃と思われる。脇田修・脇田晴子著の「物語 京都の歴史」(中央公論新社 2008年刊)によると、樫原、向日そして長岡に古墳が造られ始めたのは4世紀前半から中葉とされている。これに対して嵯峨野に古墳が造られるようになるのはその後のことである。上記の5世紀後半頃から、この地が繁栄してきたことが分かる。
和銅6年(713)元明天皇の勅願により、行基を開基として葛野井宮の地に五穀豊穣、産業の興隆を祈願する寺院が創建された。当時は古義真言宗の木上山葛井寺と呼ばれ、その後歴代天皇の勅願所となっている。この葛井寺が現在の法輪寺の起源とされている。
桓武天皇の時代に入ると、この葛野の地は富み栄え産業の中心地となっていった。そして山城の長岡から葛野と愛宕の両群にまたがる地に都を遷したのが延歴13年(794)の平安遷都である。本来ならば葛野京とすべきところを、長岡京での騒動が再度起こらないでほしいという願いから「平らかで安らかな都」と名付けたとされている。
この平安遷都から間もない時期に僧道昌が現れている。道昌は延暦17年(798)讃岐国香川郡の秦氏に生まれ、14歳で奈良元興寺の明澄に三論教学を学んでいる。弘仁9年(818)東大寺で受戒した後、天長5年(828)神護寺あるいは東寺で空海に真言密教を学び灌頂を受けている。そして承和年間(834~848年)には大堰川の堤防を改築し、橋を架け、船筏の便を開いている。先祖の秦氏が桂川に大堰を造ったのに習い、道昌もまた桂川の治水に着手したこととなる。さらに桂川の流れを灌漑用水に利用することによって、嵐山より下流の桂・川岡・向日などの荒野を田畑に開拓し、農産物の収穫量を高めることにも寄与している。
貞観10年(868)葛井寺は法輪寺に改められ、道昌が少僧都となった貞観16年(874)山を開き堂宇を改修し、法輪寺の再興を果たしている。このため道昌は法輪寺の中興開山とされている。ところで道昌が架設した橋は法輪寺橋と呼ばれていたらしいが、亀山上皇の時代に「くまなき月の渡るに似たり」として渡月橋と命名している。
さらに天慶年間(938~947年)空也上人が参篭し、勧進によって新たに堂塔を修造したと伝えられている。しかし応仁元年(1467)西軍畠山義就は東軍の筒井光宣を法輪寺の門前で迎撃したため、建物の多くが類焼したといわれている。その後の長い間、寺勢の衰退が続いている。
慶長2年(1597)後陽成天皇は法輪寺再興勧進の勅旨を下賜され、諸国から造営の浄財を募ると共に加賀前田家の帰依を得て堂を再建改築している。応仁の乱以来の荒廃した寺観は一新すると共に、智福山の勅号を賜わり、山号も木上山から改めている。そして慶長11年(1607)盛大な落慶法要を営まれた。以後堂塔修理の際は朝廷より大勧進の勅旨を与えられることが慣例となり、幕末まで前後七回改修が行われてきた。
そして先にも触れたように元治元年(1864)の禁門の変の翌日に行われた薩摩藩等の掃討戦により、法輪寺の建物も天龍寺と同様に灰燼に帰してしまう。現在の本堂は明治17年(1884)再建、客殿と庫裏、玄関、回廊そして山門等も順次竣工し、大正3年(1914)に往事の寺観を復興している。
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