落柿舎
落柿舎(らくししゃ) 2008年12月21日訪問
有智子内親王墓の東側には落柿舎が並ぶ。残念ながら素屋根を架け工事を行っているため見学することは出来なかった。
落柿舎は、松尾芭蕉の弟子である向井去来の別荘として使用されていた草庵。去来が著した落柿舎ノ記に、この草庵について書いている。このことは、天明7年(1787)に刊行された拾遺都名所図会にも以下のように掲載されている。
嵯峨にひとつのふる家侍る。そのほとりに柿の木四十本あり。五とせ六とせ経ぬれど、このみも持来らず代かゆるわざもきかねば、もし雨風に落されなば、王祥が志にもはぢよ、若鳶烏にとられなば、天の帝のめぐみにももれなむと、屋敷もる人を常はいどみのゝしりけり。ことし葉月の末、かしこにいたりぬ。折ふしみやこより商人の来り、立木にかい求めむと、一貫文さし出し悦びかへりぬ。予は猶そこにとゞまりけるに、ころくと屋根はしる音、ひしくと庭につぶるゝ声、よすがら落もやまず、明れば商人の見舞来たり、梢つくぐと打詠め、我むかふ髪の頃より白髪生るまで、此事を業とし侍れど、かくばかり落ぬる柿を見ず、きのふの価かへしくれてむやと詫。いと便なければゆるしやりぬ。此者のかへりに友どちの許へ消息送るとて、みづから落柿舎の去来と書はじめけり。
落柿舎の庭には40本の柿の木があり、葉月の末に都から商人が来て柿の実を一貫文で買う約束をする。ところがその晩に大風が吹き、柿の実のあらかたは落ちてしまう。翌朝再び訪れた商人に昨日の金を返すこととなった。それ以降、友に送る手紙に落柿舎の去来と書くようになったとしている。
向井去来は慶安4年(1651)儒医向井元升の二男として肥前国に生まれている。父の元升は長崎に聖堂を建て祭主となる儒者であった。萬治元年(1658)天満神霊の夢の御告により、向井家は京へ上っている。青年時代の去来は武芸に専心し、軍学や有職故実そして神道を学び堂上家に仕えている。しかし若くして武士を棄てている。去来が俳諧に入ったのは貞享年間(1684~87年)の初年と考えられている。落柿舎の公式HPでは、去来が嵯峨に別宅を構えたのを貞享2年(1685)としているから、俳諧士となったのもこの時期のことだった。元禄2年(1689)頃から落柿舎と呼ぶようになったのは、上記の落柿舎ノ記の「五とせ六とせ経ぬ」に一致する。ちなみに先の拾遺都名所図会には、
小倉山下緋の社のうしろ山本町にあり、俳士落柿舎去来の旧蹟なり。
としているが、小倉山下緋の社は有智子内親王墓のこととされている。恐らく現在の庵とは異なった地にあり、柿の木が40本植えられていた大きな敷地であったのだろう。この元禄2年の12月24日に芭蕉は去来とともに落柿舎で鉢叩きを聞いている。鉢叩きとは空也念仏を唱えながら行われる勧進であり、空也堂の行者が空也忌から大晦日までの48日間、鉦や瓢箪をたたきながら行うもののことである。これを含めて芭蕉は3度、落柿舎を訪れている。特に元禄4年(1691)4月18日から5月4日まで滞留し、嵯峨日記を著している。元禄7年(1694)閏5月22日に再び芭蕉は落柿舎を訪れている。芭蕉は伊賀上野に帰郷した後、大阪で発病している。そして10月12日に南御堂前花屋仁右衛門宅で死去している。享年51歳。
宝永元年(1704)向井去来は聖護院近くの岡崎村で死去している。享年54歳。真如堂で葬儀が行われ、向井家の墓所に葬られた。落柿舎の北にある天龍寺の塔頭弘源寺境外墓地内にある去来の墓は遺髪が納められている。 蕉門十哲とは、宝井其角、服部嵐雪、森川許六、向井去来、各務支考、内藤丈草、河合曽良、杉山杉風、立花北枝、志太野坡、越智越人そして野沢凡兆とされている。
現在の落柿舎は、僧で俳人であった五升庵蝶夢の門下 井上重厚が明和7年(1770)に再建したものである。重厚は全国を行脚し、寛政4年(1792)近江粟津の義仲寺無名庵の7世住職となる。義仲寺は芭蕉の遺言により木曾義仲の墓の隣に葬られた寺である。そして翌寛政5年(1793)蝶夢の後援で芭蕉百回忌を営んでいる。
さらに拾遺都名所図会には次の記述が続いている。
柿ぬしや木ずゑはちかきあらし山 去来
〔近年去来の支族俳士井上重厚、旧蹟に落柿舎を修補し、其傍に此句を石に鐫こゝに建てすまひし侍る〕
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