アーカイブ:2011年 2月 20日
嵯峨小倉陵(さがのおぐらのみささぎ) 2008年12月21日訪問
嵯峨小倉陵
去来墓と西行井戸から再び鳥居本に連なる道に戻り、北へ進む。二尊院の門前を過ぎ、祇王寺・滝口寺そして檀林寺へ入っていく道を左手に見ながら、さらに200メートルくらい北へ向かう。左手に分かれる道の入口に、生垣を前にして後亀山天皇嵯峨小倉陵参拝道の道標が建つ。小倉山の斜面に向かって参拝道はやや上っていく。200メートル近く西に入っていくと右手に嵯峨小倉陵の石造の鳥居が現れる。陵形は五輪塔。
嵯峨小倉陵 参拝道の始まり
嵯峨小倉陵 参拝道の道標
嵯峨小倉陵に葬られているのは、南朝第4代で最後の天皇となっ… ►続きを読む
西行井戸(さいぎょういど) 2008年12月21日訪問
西行井戸
去来墓の入口を通り過ぎ、「西行井戸百人一首歌碑」を眺めながら進むと、西行井戸という駒札が建つ。 東山に残る西行庵の項でも触れたように、西行は平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武士、僧侶そして歌人である。永元年(1118)左衛門尉佐藤康清の元に佐藤義清として生まれている。父は秀郷流武家藤原氏の出で、藤原秀郷の8代目の子孫となる。代々衛府に仕える裕福な家庭であったと考えられている。西行も16歳の頃より徳大寺家に仕え、保延元年(1135)18歳で左兵衛尉に任ぜられている。そして同3年(1137)鳥羽院の北面の武士としても奉… ►続きを読む
去来墓(きょらいのはか) 2008年12月21日訪問
去来墓 中央の青緑の自然石
落柿舎と有智子内親王墓の前を戻り、再び野宮神社から来た道を100メートルくらい北に進むと、右手に去来墓と西行井戸がある。
去来墓 墓地の入口 右に去来塚百人一句句碑 西行井戸百人一首歌碑の石碑が見える
落柿舎の項で触れたように、宝永元年(1704)向井去来は聖護院近くの岡崎村で死去している。 落柿舎は去来の別邸であり、本邸は京都の中心にあった。伊藤洋氏の制作されたHP・芭蕉DBの芭蕉総合年表の元禄4年(1691)4月21日の項には、「朝、凡兆夫妻、夕方、去来、市中に帰りる。」という記述がある。また… ►続きを読む
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