二条城
二条城(にじょうじょう) 2008/05/12訪問
平安神宮神苑の出口は平安神宮 神楽殿の脇にある。応天門をくぐり冷泉通を東に進むと岡崎道に行き当たる。平安神宮神苑の東神苑の塀を左手に見ながらしばらく北へ歩いていくと丸太町通に出る。京都市バス 岡崎道停留所からバスに乗り、丸太町通を西へ移動する。堀川丸太町通で下車して南に下ると二条城の正門前に出る。
二条城と呼ばれるものは、歴史書において複数現れてくる。朱雀大路が廃れた後、二条通は都一の大路となり、足利尊氏から義満まで3代の将軍が二条に屋敷を構えるようになった。そのため将軍家の屋敷は「二条陣」または「二条城」と呼ばれていた。以後、二条通から離れた地に建てられた将軍家の屋敷も二条陣または二条城と称した。
第15代将軍 足利義昭は織田信長の後ろ盾で将軍に就任し、六条本圀寺を居所としていた。永禄12年(1569)三好三人衆による襲撃を受けると、織田信長は防備の整った城郭が将軍の邸宅として必要であると考え、13代将軍 足利義輝が室町中御門邸(現在の上京区武衛陣町、平安女学院の辺り)に築いた邸宅の地に二条城を再び築城した。約400メートル四方の敷地に2重の堀や3重の「天主」を備えるものとなった。これを信長は普請奉行として陣頭指揮を執り、約70日で造り上げたと言われている。
しかし足利義昭と織田信長の関係が悪化し、元亀3年(1572)、義昭が出した信長追討令に応じ、西上した武田信玄が三方ヶ原の戦いで勝利を収めるのを確認し、義昭は天正元年(1573)3月二条城において信長に対し挙兵する。信長は上京の町屋を焼き払い二条城包囲の形はとったが攻撃をせず、正親町天皇の勅命を得て和議を成立させた。
同年7月義昭が宇治の槇島城で再び挙兵する。二条城には義昭の守備隊が置かれていたため、またも信長軍に包囲される。戦闘が行われず幕府軍の降伏で終わる。この後、この城の天守や門は築城中の安土城に運ばれて使われた。
天正4年(1576)4月に京に滞在した信長は、二条晴良・昭実父子より二条邸を譲り受け、上洛時の宿所として利用するために改装した。その後2年間、この二条御新造を使用したが、天正8年(1580)に、信長はこの邸を誠仁親王に献上した。
誠仁親王は正親町天皇の第五皇子であり、後の後陽成天皇の父に当たる。信長は親王との関係を通して朝廷との関係を親密なものとしようと考えていたため、二条御新造の献上につながったのであろう。誠仁親王とその皇子である五の宮(信長の猶子となった邦慶親王)がこの二条新御所に転居した。天正10年(1582)、本能寺の変が起きると隣地の妙覚寺に滞在していた信長の嫡男・織田信忠は防御能力に優れた二条新御所へ移り、明智軍と対峙することになる。二条新御所は明智軍により包囲されるが、信忠と光秀との話し合いがまとまり、誠仁親王らは御所へ移動し難を逃れることができた。その後、信忠はここに籠城し、包囲する明智勢と奮戦するが、信忠を始め将兵は討ち死にし、二条新御所も隣接する妙覚寺と共に灰燼に帰した。
現在は烏丸御池の西北には「二条殿町」「御池之町」「上妙覚寺町」「下妙覚寺町」の地名と「二条殿御池跡」「二条殿址」の石碑が残る。
織田信長に続いて豊臣秀吉も二条に城を構えていた。二条御新造の隣接地に屋敷を有していたが、天正8年(1580)に信長によって没収され、前関白・近衛前久に献上されている。信長亡き後、天正11年(1583)秀吉は妙顕寺を移転させ、その跡地に堀を巡らし天守を持った二条第を構えた。天正15年(1586)聚楽第完成までの間、秀吉の政庁として使われた。現在の二条城の東200メートルあたり、中京区小川押小路付近には「古城町」「下古城町」という地名が残されている。
慶長6年(1601)関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康は上洛時の宿所として大宮押小路に築城を決め、造営総奉行に京都所司代板倉勝重を任命した。これが現在の二条城である。造営の費用および建設労務は西国諸大名に割り当てられた。慶長7年(1602)より造営に着手し、翌慶長8年(1603)には、天守を残し落成した。家康は征夷大将軍の拝賀の礼を行うため、竣工後間もない二条城に入城し、御所への行列をこの城より発した。拝賀の礼に続き、二条城では徳川家の重臣や公家衆を招いて祝賀の儀を行われた。このような将軍就任の儀式は第3代将軍家光まで行われた。慶長19年(1614) 大坂の役が勃発すると二条城は家康の本営となり、伏見城から出撃する将軍秀忠の軍勢に続き、大坂へ向かった。
再び二条城が将軍を迎えたのは、文久3年(1863)14代将軍家茂の上洛である。この上洛により義兄にあたる孝明天皇に攘夷の実施を誓うこととなった。それまで荒れ果てていた二条城の二の丸御殿は修復され、天明8年(1788)の大火で焼失した本丸御殿には仮御殿が建てられた。家茂は慶応元年(1865)に再び上洛するが、第二次長州征伐の指揮を執るため大坂城へ移る。ここで病に倒れ、翌慶応2年(1866)夏に大阪の地で死去する。将軍職後継を頑なに辞退していた徳川慶喜も慶応2年(1866)の暮れには、朝廷からの将軍宣下を受け、二条城において将軍に就任した。
しかし翌慶応3年(1867)になると薩摩藩と長州藩による討幕運動も活発になり、このまま政権を維持することが困難であることは明白であった。坂本龍馬が発案したの建白書が土佐藩主山内豊信を通じて提出された。これを受けて慶喜は10月13日に二条城に上洛中の40藩の重臣を招集し、大政奉還を諮問し、翌14日に大政奉還上表を朝廷に提出する。そして10月15日に、大政奉還勅許の沙汰書が慶喜に授けられ、大政奉還が成立した。諸侯会同召集までは緊急政務の処理を引き続き慶喜に委任し、将軍職も従来通りとしたため、実質的には慶喜による政権掌握が続くことになった。この時は討幕派の機先を制する形となったが、同年12月9日に行われた小御所会議において徳川慶喜の官職辞職および徳川家領の削封が決定され、二条城にいる慶喜のもとに伝えられた。京にいる幕府軍は討幕派の挑発に暴発しかねない状態になったため、慶喜は兵を引き連れ大阪城へ移り、さらに政治的逆転の機会を待った。その中で江戸薩摩屋敷の焼き討ちが発生し、幕府軍内の暴発を止めることができなくなり鳥羽伏見の戦いへとつながっていった。
このような状況のもとで二条城には水戸藩士が留守役として置かれていたが、鳥羽伏見で戦端が開かれると1月5日には朝廷に引き渡され、太政官代が設置された。その後、二の丸御殿が京都府庁舎となったり、陸軍省の所管に移されたりしたのを経て、明治17年(1884) 宮内省の所管となり二条離宮と改称した。戦後、宮内省より京都市に下賜され、元離宮二条城という名称となる。 平成6年(1994)ユネスコ世界遺産に登録される。
現在の二条城は外堀と内堀の二重の堀の中に本丸御殿と天守閣跡ある。本丸御殿は後水尾天皇の行幸の際に増築されたが、天守閣は寛延3年(1750)に雷火で、御殿は上記のように天明8年(1788)の大火で類焼している。現在の本丸御殿は明治27年(1894)に京都御苑内にあった旧桂宮御殿を移築したものである。この御殿は弘化4年(1847)に建てられたもので宮御殿の遺構としては完全な形で残されている貴重な建物でもあり、重要文化財に指定されている。本丸御殿の南側には御殿に築後の明治29年(1896)に作庭された芝生と植樹を中心とした回遊式の本丸御殿庭園がある。
二の丸御殿の西側には二の丸御殿庭園が広がる。これも後水尾天皇の行幸の際に小堀遠州によって作庭された。宮元健次氏の「[図説]日本庭園のみかた」には書院造系庭園の例として二条城二の丸庭園復元図(図84 P71)が掲載されている。池の中央に蓬莱島、その左右に鶴島、亀島を配した書院造庭園である。行幸当時は庭の南側に行幸御殿と池に面した釣殿が建てられ、中庭を意図して作庭したものであった。行幸御殿へは大広間から渡ることのできるように廊下が作られている。また車寄せ左側から二の丸庭園に向かう現在の苑路は閉ざされ、能舞台とその楽屋が建てられている。この舞台は大広間南面から鑑賞するように造られたのであろう。すなわち現在の二の丸庭園は、南側の行幸御殿と釣殿から、東側の大広間から、そして北側の黒書院の三方から鑑賞出来るように造られた事が分かる。その後御殿は移築や撤去で無くなったため、現在のような東側からの鑑賞となった。また大正天皇即位式饗宴の儀の後、小川治兵衛によって復元作業が行われている。 二の丸御殿庭園は規模、密度の点で他の庭園と一線を画している。これは天下人である徳川家が既存の権威の象徴である朝廷に対して実力を誇示するために造り上げたものであるからだろう。確かに醍醐寺三宝院につながるような桃山文化を華やかさを兼ね備えているが、それ以上に見るものを圧倒する力を感じる。 この庭は東向きのため午後の遅い時間帯に訪問すると完全な逆光となる。角度を変えて見ることもできないため、太陽が二の丸御殿の屋根より高い位置の午前中に訪問すべきだろう。
二の丸御殿と本丸御殿の北側に3つ目の庭園 清流園がある。もともとこの地には天守閣があったと推定されている。家光による行幸のための改修工事の際に淀城に移築され、同心の住む家が建てられていた。明治前期にこの建物も撤去され緑地となり、二の丸御殿庭園と同様、大正天皇即位式の後に小川治兵衛の作庭による疎林式庭園が造られた。
現在の庭は昭和25年(1950)進駐軍によりテニスコートに転用されたものを、昭和40年(1965)に清流園として、河原町二条にあった旧角倉了以の屋敷(旧田中市兵衛別邸茶庭)の一部、庭石、庭木等を無償で譲りうけて造営されたものである。東半分が芝生を敷き詰めた洋風庭園、西半分は二棟の建物(和楽庵と香雲亭)を含めた池泉回遊式山水園からなる和洋折衷庭園。普段は立ち入りができなく、内堀沿いの南側通路からの鑑賞のみとなっている。
平成17年(2005)、米国の日本庭園誌「THE JOURNAL OF JAPANESE GARDENING」では、清流園が5位に、二の丸庭園が10位となっている。ちなみに1位は足立美術館、2位は桂離宮、3位は東京の山本邸そして4位は無鄰菴となっている。既成概念に囚われない、変わった並びに順になっているのが面白い。
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