宝筐院
臨済宗単立寺院 善入山 宝筐院(ほうきょういん) 2008年12月21日訪問
清涼寺の仁王門を出て一条通を西に100メートル程進むと、一条通は宝筐院の山門に突き当たり終わる。傍らには小楠公菩提寺寶筐院という門柱が建つように、南朝の忠臣・楠木正行とその正行を敬慕した北朝を後押しした第2代将軍足利義詮の菩提寺となっている。
平安時代に白河天皇の勅願寺として建立された善入寺から、宝筐院の歴史は始まる。平安時代末から鎌倉時代にかけては、数代に亘って皇族が住持となっていたが、寺は衰微していく。南北朝時代に入り、第2代将軍足利義詮が黙庵周諭に帰依したことにより、寺は復興され黙庵は中興開山とされている。そして臨済宗に改められている。
黙庵は文保2年(1318)武蔵国に生まれ、夢窓疎石に師事している。元に渡ろうとしたが疎石にとめられ、雪村友梅や無極志玄について修行している。近江の金剛寺を経て等持院の住持となり、疎石の法嗣となっている。応安6年(1373)56歳で死去している。
楠木正行は大楠公・楠木正成の嫡男である。建武3年(1336)湊川の戦いに赴く正成が、西国街道の櫻井の驛(現在の大阪府三島郡島本町桜井 JR京都線の島本駅)で正行と今生の別れを行う。太平記の名場面のひとつである桜井の別れは、生年不詳の正行が11歳のときの出来事だったとされている。正成は湊川の戦いで足利軍の大軍に奮戦するものの包囲され、弟の楠木正季ら一族とともに自害する。足利尊氏は正成の首を丁寧に遺族へ返したとされている。
楠木正行もまた湊川の戦いから12年後の貞和4年(1348)河内国北條(現在の大阪府四條畷市)で行われた四條畷の戦いにおいて足利方の高師直・師泰兄弟に敗北する。そして弟の楠木正時と刺し違えて自害する。黙庵との交誼により、正行の首は善入寺に葬られたとされている。
足利義詮は室町幕府を開闢した足利尊氏の嫡男として元徳2年(1330)に生まれている。楠木正行より義詮の方が年少であった。元弘3年(1333)伯耆国船上山にて挙兵した後醍醐上皇討伐のために尊氏が鎌倉幕府軍の総大将として上洛する。この時、母の登子とともに北条家の人質として鎌倉へ留め置かれている。そして尊氏が丹波国で鎌倉幕府に反旗を翻し、京都の六波羅探題を攻略すると、義詮は足利家家臣に連れ出され鎌倉を脱出し、新田義貞に奉じられ鎌倉攻めに参加する。建武の新政では、叔父の足利直義に支えられて鎌倉に置かれ、尊氏が建武政権から離反すると、父とともに南朝と戦う。主に鎌倉において関東を統治する。
四條畷の戦いで勝利した高師直と師泰の勢力拡大を恐れた足利直義は、兄の尊氏に師直の執事を罷免させる。それに対して貞和5年(1349)に師直と師泰は直義を襲撃し、逃げ込んだ尊氏邸を大軍で包囲した。そして直義が出家して政務から退く事を条件に和睦する。この足利幕府の内訌である観応の擾乱により義詮は京都へ呼び戻され、直義に代わり幕府の政務を任される。
延文3年(1358)尊氏が没し、12月に義詮は征夷大将軍に任命される。そして貞治6年(1367)側室の紀良子との間に生まれた幼少の嫡男義満を細川頼之に託し、病により死去した。享年38歳。遺言に、逝去後は敬慕していた善入寺の楠木正行の墓の傍らに葬ることがあったため、楠木正行の墓の隣に宝筐印塔が建てられた。その後、第8代将軍義政の時、善入寺は義詮の菩提寺となり寺名を義詮の戒名である寶篋院瑞山道權に因み宝筐院と改められた。
宝筐院は備中や周防などに寺領を持ち、足利幕府歴代の保護もあり隆盛した。しかし応仁の乱以後は、幕府衰退と共に衰微して行く。江戸時代の宝筐院は天龍寺末寺の小院となり、幕末には廃寺となっている。
皇国史観こそが正統な歴史観であるという思潮は、やがて楠木正成・正行親子の顕彰に連なっていく。明治9年(1876)正行に従三位が追贈されている。明治22年(1889)殉節地の地元有志等によって、正行初め楠木一族を祀る神社創祀の願いが容れられ別格官幣社として社号を与えられる。そして翌明治23年(1890)正行を主祭神とする四條畷神社の社殿が竣功する。明治24年(1891)京都府知事北垣国道により、宝筐院の首塚の由来を記した欽忠碑が建てられる。さらに明治30年(1897)には正行に従二位が追贈されている。
そして宝筐院自体も足利幕府第2代将軍の菩提寺というよりは、忠臣・楠木正行の菩提所が強調される。足利尊氏によって創建された天龍寺の管長・高木龍淵や神戸の実業家の川崎芳太郎によって、楠木正行の菩提を弔う寺として宝筐院の再興が行なわれる。境内地を買い戻し新築や古建築の移築によって伽藍が整えられる。大正5年(1916)古仏の木造十一面千手観世音菩薩立像を本尊に迎え、宝筐院の復興が成される。その後、更に茶室が移築され、本堂が新築される。なお現在の宝筐院の拝観の栞には白河天皇開創 楠木正行・足利義詮両菩提所と記されている。
菩提所は石の柵に囲まれて二基の石塔が立つ。右側の五輪塔は楠木正行の首塚、左側の三層石塔は足利義詮の墓と伝えられている。上記の再興の際に残されていた石塔は、この2つのみであったということは、荒廃していた時期に多くの墓石は石材として持ち去られた可能性もある。墓前には富岡鉄斎の揮毫による精忠と碎徳と記された石灯籠が置かれている。精忠は最も優れた忠という意味で正行の忠誠を讃えている。正行の忠義を褒め称えその傍らに自分の骨を埋めたことは、義詮の徳の大きさから比べると一片の徳であるということを碎徳は現している。
境内東側に建てられた山門の脇から入る。右手にある建物は庫裏であったように記憶する。正面にある木戸を潜り進むと、延段の敷かれた参道が西に向かって延びる。この参道の左右は美しい苔地となり、多くの植物が植えられているようだが、季節的には既に紅葉も終わり花もない庭であった。12月の午後もかなり廻り雨も降り始めたため、拝観者は数えるほどしかいなかった。静寂と言うよりは寒々としたという印象が強い。この寺院の印象は堂宇や庭園の構成ではなく、ここに植えられた木々や花々によっているところが大きいのだろう。恐らく紅葉の季節に訪れたら違う印象を得たと思う。
この参道に沿って北側に建物が並び、東側から、庫裏、書院、本堂が南面して連なるように見える。禅宗大寺院の軸線上に堂宇を配置する構成とはやや異なっている。参道は本堂の先まで伸び、楠木正行と足利義詮の墓所へと続く。宝筐院の公式HPには、下記のような記述がある。
当時は、東から西へ総門・山門・仏殿が一直線に建ち、山門・仏殿間の通路を挟んで北に庫裏、南に禅堂が建ち、仏殿の北に方丈、南に寮舎が建っていました。
さらに室町時代前期の嵯峨の寺院配置を記した応永鈞命図を参照した上で、現在地に室町時代の善入寺があったとしている。zaq*_qさんの地図の部屋には、天龍寺所蔵の応永鈞命図を模写した画像(鹿王院)(http://blogs.yahoo.co.jp/zaq1_q/17250262.html : リンク先が無くなりました )が鮮明に掲載されている。確かに善入寺の寺域とその山門が東に向かって開いていたことが確認できる。しかし上記の宝筐院の記述からは、当時の伽藍配置は現在のものと大きく異なっていることも分かる。当時の仏殿は東向きであったのではないだろうか?
本殿の西から北側にかけて枯山水の庭園が築かれている。本堂の高さから庭を眺めると、それ程大きい庭ではないが広がりが感じられる。
この記事へのコメントはありません。