教王護国寺 観智院
教王護国寺 別格本山 観智院(かんちいん) 2009年1月11日訪問
東寺の北大門を潜ると櫛笥通に出る。この通りは、西の壬生大路と東の大宮大路の中間に造られた平安京の小路にあたる。平安京の東市の西側に面し、二条大路から九条大路の間に造られた小路と推測されるが、神泉苑や平安時代末期には平清盛の西八条邸により分断されている。さらに平安時代中期以降の右京の衰退に伴い、朱雀大路やこの小路も衰退していった。現在では、途切れ途切れの細い道となっている。
以前の訪問の時に触れたように、櫛笥小路はもともと4丈(約12メートル)で造られ、北大門の前の部分は、現在も創建当初の幅員を持つといわれている。 北大門の北側に走る掘割の先、櫛笥通の東側に観智院が建てられている。現在は針小路通の北側に位置する宝菩提院も、櫛笥小路を挟んで西側に建てられていた。しかし明治14年(1881)真言宗の教育機関として総黌が開学するのに伴い現在地に移転している。総黌は幾多の変遷を経て、現在では洛南高等学校となっている。
鎌倉時代の徳治3年(1308)後宇多法皇が東寺に帰依され、西院の御影堂に籠もって真言教学の研鑽に努めている。その際、法皇は二十一ヶ院の建立を発願し観智院はその一つとされている。杲宝を開基とし、延文4年(1359)に創建される。
開基の杲宝は、まさに後宇多法皇が参籠した徳治3年(1308)に下野国あるいは但馬国に生を受けている。幼いころに出家して高野山にのぼり、その後は東寺宝菩提院の頼宝に真言密教を学んでいる。ついで、槙尾山の浄宝に三宝流の灌頂を受け、貞和2年(1346)勧修寺慈尊院の栄海に師事して伝法灌頂を受けている。貞和4年(1348)に東寺勧学会学頭、延文4年(1359)大僧正を歴任する。大僧正となった年に観智院が創建されている。一方、真言教学の研究に専念し、高野山の宥快とともに真言教学の中興の祖と称される。杲宝は、師の頼宝と弟子であり観智院の第2世となる賢宝と共に東寺三宝と称せられ、東寺教学の基礎を築いた。
永和2年(1376)第2世の賢宝は観智院の本尊とし、山科安祥寺から五大虚空蔵菩薩像を移して修理を行い、院内に虚空蔵堂を建立している。五大虚空蔵菩薩とは、虚空蔵菩薩のみ5体を群像として表したものであり、虚空蔵菩薩の五つの智恵を5体の菩薩像で表したもの。五大虚空蔵菩薩像は、息災・増益などの祈願の本尊にもなっている。中央に法界虚空蔵、東方に金剛虚空蔵、南方に宝光虚空蔵、西方に蓮華虚空蔵そして北方に業用虚空蔵を配置するのが一般的とされている。観智院の五大虚空蔵菩薩像は空海の孫弟子にあたる恵運が唐から招来した像とされている。法界、金剛、宝光、蓮華、業用の各像はそれぞれ馬、獅子、象、金翅鳥、孔雀の上の蓮華座に乗っている。法輪寺の項で記したように、虚空蔵菩薩の福徳と英知を授かる十三詣りが行われているが、この観智院でも祈願を受け付けている。
櫛笥通に面した西門を潜ると左手に庫裡、右手に客殿が現れる。拝観受付は西門の正面で、ここから客殿に廻っていく。現在私達が目にする客殿は、文禄5年(1596)の伏見大地震によって倒壊した後に、慶長10年(1605)北政所の寄進により再建された建物である。入母屋造、車寄は軒唐破風、中門廊を突出させる。桁行6間半、梁行7間の桃山時代の書院造。南東の上座間に違棚、棹縁天井、南西の次の間とは竹の節欄間で間仕切りする。付け書院、帳台構など住房機能を備えている。そして北東の羅城の間、中間に暗の間、北西の使者の間の5室からなる。国指定文化財等データベースによると、以下の点に特色があるとしている。
国宝の滋賀県光浄院客殿、勧学院客殿とならんで、桃山時代の一般的な住宅形式を示すが、又僧侶の私房の様子をよく示した遺構として貴重なものである。
またこの客殿の床の間には宮本武蔵の筆と伝えられる鷲の図が描かれている。
観智院は、この客殿を中心に東側に本堂と礼拝堂、北側に書院と庫裡、庫裡の先には茶室・楓泉観が建てられている。そして本堂の南側に金剛蔵、庫裡の東側に宝蔵がある。これらの建物はいずれも江戸時代に再興された建築である。
昭和52年(1977)に観智院の客殿南庭として「五大の庭」が造られている。南大門から客殿に続く空間に新たに庭を築いたように思える。この五大の庭の解説する額が客殿に架けられていた。右隅には署名と落款があるが、誰のものか分からなかった。この庭の作庭者のものかもしれない。
この庭は、大同元年(806)10月、遣唐使として渡った空海が法具経典とともに日本に帰国する様が描かれている。向かって右手の築山の洞窟石組は、唐の長安・越州を現し、左手の築山である日本に向け、白砂の荒海を石組の渡海船が進む。船の先頭に独鈷※(※は 金に午)、船を守護する摩竭魚、船の奥には神亀、そして船の手前後方に龍神、そして縁の一番近いところに水鳥がそれぞれ石で表されている。
摩竭魚とはインド神話の海獣マカラの音写で、ガンガー女神の乗り物とされ、ワニ、サメ、イルカなどの姿を取るという。この場合は空海の乗船する船を先導するような役割を果たしているのであろう。左手の日本を表わす築山には、五大虚空蔵菩薩像を表す5個の石があり礼拝石が建てられている。観智院の本尊である五大虚空蔵菩薩像が、空海の孫弟子にあたる恵運が唐から招来したことを暗示しているのだろう。
五大の庭については、拝観時に確認しても誰が作庭したかも分からず仕舞いであった。南大門の両脇の築山は、中央部分の枯山水の庭と同時期に造られたものであろうか。先の説明には描かれていないが、右手の築山の中には社がある。また洞窟状の石組も、空海の事跡紹介のための作庭には必要のない表現のようにも思われる。そのように考えていくと、南大門から客殿へ続く通路の両側には、既に昭和の作庭以前に築山があったのではないかと思えてくる。それを改装して現在の庭としたのではない?
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