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羅城門遺址



羅城門遺址(らじょうもんいし) 2008年05月18日訪問

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羅城門遺址

 東寺の南大門を出て、西寺址を目指し九条通を西に進む。歩いていては気が付かないが、南大門から西側部分の九条通は、徐々に南に折れている。東寺の境内の南端にある堀の幅を見るとよく分かる。千本通が九条通を交差する少し手前を北に入っていくと三角形をした小さな敷地の花園児童公園が現れる。この公園の中央に柵に囲まれて建つ石碑がある。これが明治28年(1895)の平安遷都千百年紀念祭の事業として建立された羅城門遺址である。
 古代都市を取り囲む城壁のことを羅城と呼ぶことから、羅城門とは羅城に開けられた門のことである。中国では外敵防禦のために羅城が築かれてきた。しかし日本では藤原京以来、京城の南面のみに限定されて造られ、それ以外の箇所は簡単な垣や土塁と溝が設けられていたようである。そのため日本での羅城門とは、京城の南に面する門のことを指し示す言葉となっている。
 平安京の羅城門は朱雀大路の南端に建てられた都の正門である。ちなみに平城京も平安京にも朱雀大路の南端に羅城門、北端に朱雀門が建てられている。平城遷都1300年祭の映像に現われてくる門は、平成9年(1997)平城京跡に復元された朱雀門である。

 羅城門の読み方は、呉音では「らじょうもん」、漢音では「らせいもん」となるが、当時は「らいせいもん」や「らせいもん」などと呼ばれていたことが宇治大納言物語や世継物語などから分かる。また「らいしょうもん」や「らしょう」というような俗称も生まれ、中世には謡曲「羅生門」によって羅生門と「らしょうもん」が一般化している。芥川龍之介の小説は羅生門であり、昭和26年(1951)ヴェネチア国際映画祭グランプリを受賞した黒澤明の映画も羅生門という表記を使用している。

 門は重層で入母屋造瓦葺屋根の両端には鴟尾が載せられていた。間口十丈六尺(約35メートル)、奥行二丈六尺(約9メートル)、高さ約七十尺(約21メートル)。間口:奥行:高さの比率が、およそ4:1:2.3と門としては当たり前かもしれないが、かなり薄っぺらな建物であることが分かる。

 正面柱間が七間で、そのうち中央五間に扉が入る七間五戸の構成であり、左右の一間は壁であったと考えられている。木部は朱塗、壁は白土塗の仕上げであったことから、現在では平安神宮で見ることができるような建物であった。もともと平安神宮は明治時代に平安京の建物を復元して建てられたのであるから似ていることは当然のことでもある。内と外は間口七丈(約24メートル)の五段の石段で通じていた。都の他の門が五間三戸である中、この羅生門と対となる朱雀門が七間五戸で造られていたからも都のシンボルであったことは間違いない。もともと南から都を訪れるものに平安京の威容を見せる目的で造られた表玄関である。特に外国からの使節には、中国の都を訪れるのと同じ荘厳さを感じさせたであろう。
 重層の高層建築にも関わらず間口4に対して奥行1というような極端な比率であったことから、弘仁7年(816)には大風により倒壊している。これは延暦13年(794)の平安京遷都からわずか20余年後の出来事であり、建物の劣化や老朽化によるものとは考え難い。その後再建されているが、再び天元3年(980)の暴風雨で倒壊している。当時の建設技術では実現することが困難であった構造計画だったのだろう。
 この2度目の倒壊以降、寛弘元年(1004)丹波守高階業遠が羅城門と豊楽院造営の宣旨を請けたが、翌年には辞退しているため、天元3年(980)以降再建されることなかった。

 島原教王護国寺の項で触れたように、使節はこの羅城門から都に入り、すぐ近くに設けられた東西の鴻臚館に迎え入れられた。しかし延長4年(926)に渤海国が滅亡すると、鴻臚館も衰微し鎌倉時代の頃に消失したのか、あるいはそれ以前の延喜20年(920)の頃に廃止されたのか明らかではないが、その迎賓館としての機能は失われていたのであろう。いずれにしても天元3年(980)の羅城門の2度目の倒壊の時期には、海外からの使節を迎えるための平安京の正門としての役割もほぼ終了していた。そのため3度目の再興が成されなかったとも考えられる。
 都名所図会の後編として天明7年(1787)秋に刊行された拾遺都名所図会の羅城門には下記のように記されている。
     「大内裏の御時、平安城外郭南面の正門にして、朱雀通(今の千本通をいふ)九条大路にあり。今四つ塚の民家東頬の奥に礎石遺れりといふ。」

 四つ塚とは千本木通と九条通の交差する地点で、昔から交通の要所とされており、鳥羽伏見の戦いの際も薩軍本営が東寺に置かれ四つ塚には前線基地が置かれている。四つ塚の名は、同地点北方の杉塚と狐塚、南方の経田塚、琵琶塚に由来しているらしい。

 拾遺都名所図会では、羅城の謂れを説明した上で、外郭の番兵を羅卒と呼ぶとしている。さらに小世継物語から、羅城門建立時の桓武天皇と工匠の門の高さについてのやり取りを引用している。
 桓武天皇は造営中の平安宮をご覧になるため、長岡京から行幸されることがしばしばあった。羅城門の前で輿を止めさせ、工匠を呼び寄せ門の高さを1尺低くするように言い渡す。これは風が強い場所に建設するので倒壊の危険を考えての指示であった。
 やがて遷都が近くなった頃、天皇は再び門の前で輿を止めさせた。既に瓦は葺かれ白壁は塗り終わり、金物も取り付けられていた。天皇は工匠を呼び寄せ、前回は1尺低くするように言ったが、今見るとまだ5寸高い。あの時1尺5寸切らせるべきであったと嘆いた。これを聞いた工匠は驚きと恐れで取り乱してしまう。問い質すと、確かに1尺低くするように指示されたが、それでは余り低くなり見苦しくなるため、5寸だけ低くしただけであり、最初の見立ては正しかったと答えている。既に遷都まで日もなく、このまま建設は続けられたが、強風が吹けば門は倒壊する恐れが残った。
 後に羅城門は、強風により3回倒壊するが、円融天皇の頃(安和2年(969)~永観2年(984))に倒壊してからは再建されなかったと記している。天元3年(980)の暴風雨で2度目の倒壊が生じている。これが「円融院の御とき」に一致する。

 また、安永9年(1780)に刊行された都名所図会に掲載された羅城門の旧蹟 (羅城門跡)では、下記のように記されている。
     「楼上に毘沙門天を安置す、これ伝教大師の作なり、今東寺の観音堂にあり」

 羅城門の上層には空海作の毘沙門天を安置されていたが、門の倒壊などにより東寺に移されたことが記されている。これは国宝に指定されている東寺の兜跋毘沙門天立像である。都名所図会では続いて梅城録から羅城門に関する説話を紹介している。
 平安時代前期の漢詩人・文人である都良香(承和元年(834)~元慶3年(879))が詩作を行いながら羅城門の前を通りかかる。良香が「気霽風櫛二新柳髪一」と詠じると、楼上より声があり「氷消浪洗二旧苔鬢一」と続けた。これを菅相丞の御前で詠じると、相丞は自歎し、下の句は鬼詞であると言われた。菅相丞とは、もちろん菅原道真(承和(845)~延喜3年(903))のことである。
 この説話については類似したものがあり、黒木香氏が「都良香像の変質と「天神縁起」 : 鬼の付句をめぐって」(http://ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/metadb/up/kiyo/AN00090146/kokubungakukou_104_10.pdf : リンク先が無くなりました )で、その推移が検証されている。都良香と菅原道真との年代的な関係や当時の位階を考えると上記のような菅相丞と都良香の上下関係はなかったように思われる。従五位下文章博士兼大内記であった良香より上位である従五位上に、道真が昇叙したのは元慶3年(879)と良香の死去した年のことである。黒木氏の指摘どおり、もともとは良香の詩作の素晴らしさに鬼神も感じ入ったという説話であったのだろう。それが変遷し、道真が良香の詩の中に鬼が作り出した部分を見抜くという道真の超人性を讃える説話に仕上がっている。いずれにしても羅城門には鬼神が棲みつく怪異の多い場所とされていた。
 もともと平安京の西側の右京部分は、桂川の形作る湿地帯にあたり、9世紀に入っても宅地化が進まなかった。10世紀に入ると律令制の形骸化が進み、本来京内では禁じられている農地への転用も行われるようになっている。そのため貴族の住む宅地は大内裏に近い右京北部を除き、藤原氏の宅地が左京北部へ密集し始める。貧しい人々は平安京の東限である東京極大路を越え、鴨川の河畔に住み始めている。さらにその東岸には寺院や別荘が建設され市街地は東へと拡大していく。このようにして著しく東に偏った中世・近世の京都の街へと移っていく。
 そして治安3年(1023)藤原道長が法成寺造営に際して羅城門などの石を運ばせている。この頃の羅城門は、礎石がかろうじて残っている程度に荒廃していたと考えられている。

 さて現在の羅城門遺址について考えてみる。この碑は明治28年(1895)平安遷都千百年紀念祭の事業の一つとして建立されている。既に都名所図会や拾遺都名所図会で、四つ塚の地に羅城門があったことは記されていたが、それを証明する考古学的な発見はなかった。

 教育者で郷土史家であった湯本文彦は、明治21年(1887)より京都府属となり「平安通志」60巻の編修執筆行っている。紀念祭では企画や立案から携わり、平安京実測事業を提案し、羅城門の位置を確定している。その方法は、延暦15年(796)の創建以来、不動とされている東寺の南門を基準点とし、曲尺で計測して九条通の南端の位置を決定。さらに朱雀大路の中心線を求め、これを羅城門の中心としている。

 この地では現在も京都市埋蔵文化財研究所によって発掘調査(http://www.kyoto-np.co.jp/article.php?mid=P20100327000083&genre=M2&area=K00 : リンク先が無くなりました )が行われている。今回の調査地は、羅城門児童公園の南東で最も遺構があった確立の高いとされていた場所であった。70平方メートルを1.7メートルほど掘り下げたが、江戸時代の石敷きが見つかったのみだった。既に1960年から77年にかけて5回に渡り一帯を調査したが、門につながる遺構は見つかっていない。
 平安建都千二百年を記念して平成6年(1994)に造られた10分の1復元模型は京都駅前のぱるるプラザで展示されていた。メルパルク京都に名称変更されても地下1階メディアパークで見学が可能のようだ。また30分の1模型は、中京区三条通高倉の旧日本銀行京都支店の北側に建設された京都府京都文化博物館の2階に展示されている。2010年12月からリニューアルによる閉館が予定されているようだ。

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羅城門遺址 花園児童公園

「羅城門遺址」 の地図





羅城門遺址 のMarker List

No.名称緯度経度
 羅城門遺址 34.9793135.7426
01  東寺 金堂 34.9803135.7476
02  西寺址 34.9807135.7379

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