東福寺 退耕庵
東福寺 退耕庵(たいこうあん) 2009年1月11日訪問
東寺の南大門を潜り、九条通に出る。次の東福寺退耕庵は、徒歩でも行ける距離ではあるが、何回か歩いたことがあるので、今回はバスに乗車することとした。比較的待たずにバスは来たが、車庫に入るため途中の九条車庫前で一度下車させられた。時間が押していたので、バスの方が早く着くと考えたが、どうも徒歩と変わらなかったようだ。 九条通の陸橋に登り鴨川を渡り、JR奈良線、京阪電鉄そして伏見街道を越えると、万寿寺の前にある東福寺停留所に至る。東福寺の大きな「大本山東福寺」の寺号標石の脇を抜け、そのまま南に進むと退耕庵の前に出る。
退耕庵は、貞和2年(1346)東福寺第43世性海霊見によって創建されている。性海霊見は生年未詳だが、信濃の出身。南禅寺の虎関師錬に師事し、その法を嗣ぐ。康永2年(1343)元に渡り、その帰国後、第2代将軍・足利義詮に招かれて三聖寺の住持となる。ついで東福寺、天龍寺、南禅寺などの住持を務める。応永3年(1396)没する。三聖寺については、万寿寺や東福寺の塔頭・東光寺で触れたように、現在の万寿寺の辺りに位置した禅宗の寺院であった。鎌倉時代には大伽藍を持つ有力寺院であったが、次第に衰微し、明治6年(1873年)に万寿寺に合併されている。そして明治19年(1886年)には万寿寺も東福寺の塔頭となっている。なお万寿寺は、当初十刹の第4位であったが、後に五山に昇格し更に京都五山の第5位に数えられている。しかし永享6年(1434年)の火災で衰微し、天正年間(1573年-1592年)に、この地に移ってきた。そのため性海霊見が、退耕庵を開創し、三聖寺や東福寺の従事を務めた頃には、万寿寺は下京区万寿寺町や万寿寺中之町の町名が残るあたりにあった。
この退耕庵もまた応仁の乱により荒廃する。慶長年間、禅僧で大名であった安国寺恵瓊が、第11世住持であった時期に再興している。現在の客殿は慶長4年(1599)に建てられている。
安国寺恵瓊の生年は諸説があるが、天文8年(1539)あるいは天文6年(1537)に安芸に生まれたとされている。父は安芸武田氏の一族である武田信重の子とも、同じく安芸武田氏である武田元繁の娘婿・伴繁清の息子とも伝わる。天文10年(1541)毛利元就の攻撃で安芸武田氏が滅亡すると、家臣に連れられて脱出し、安芸の安国寺に入り出家している。その後、京都の東福寺に入り竺雲恵心の弟子となる。天正2年(1574)に安芸安国寺の住持となり、さらに東福寺、南禅寺の住持にもなっている。上記の退耕庵の最高と時期を同じにして、慶長4年(1599)建仁寺の再興にも尽力している。
もともと恵瓊の一族は毛利元就によって滅ぼされているが、毛利家が師である恵心に帰依していた関係から、恵瓊も恵心と同様に毛利家に仕える外交僧となっている。元亀元年(1570)には豊後国の大友家との和睦を取りまとめることに成功するなど、早い時期から外交僧としての能力を発揮している。
恵瓊と豊臣秀吉との関係において、天正10年(1582)毛利氏が羽柴秀吉と対陣する備中高松城の戦いが有名である。本能寺の変により織田信長が横死する。秀吉はその事実を隠し、高松城主・清水宗治の切腹を条件に、毛利氏に対する備中・備後・美作・伯耆・出雲の割譲要求を、備中・美作・伯耆とする和睦案を提示し、恵瓊が和睦を取りまとめている。天正13年(1585)毛利氏が秀吉に正式に臣従する際の交渉を務めて、秀吉から賞賛されている。このころ既に恵瓊は秀吉側近となっていたと考えられている。
慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは、懇意であった石田三成と通じて西軍に与し、毛利一族の当主・毛利輝元を西軍の総大将として担ぎ出すことに成功している。しかし密かに徳川家康に通じていた吉川広家によって、恵瓊は戦闘に参加することなく、西軍の一員として敗北している。
戦後、一旦は毛利本家の陣に赴くが、鞍馬寺に逃れ本願寺に匿われ京都の六条辺に潜んでいたが、東軍に発見され、六条河原にて斬首され、石田三成、小西行長と共に梟首に処せられている。
なお、建仁寺本坊内の庭に恵瓊の首塚がある。これは建仁寺の僧が恵瓊の首を持ち帰り、方丈裏に手厚く埋葬したためとされている。
退耕庵は非公開寺院であり、特別公開時も堂内、庭園を含めて撮影禁止である。またWeb上にも資料となる画像も少ないため、2年前の拝観時の記憶をもとに書いて行くこととする。北側にある山門を潜り、南へと続く短い参道を歩く。左手に客殿、右手に小野寺の額を掲げた地蔵堂が建てられている。そのまま進むと、参道はやや左手に折れ、客殿の南に位置する書院の玄関へと続く。先に記したように、この客殿は慶長4年(1599)に建てられている。これは安国寺恵瓊が関ヶ原の戦いに敗れ、斬首される前年にあたる。
書院の北面と南面にはそれぞれ異なった印象を与える庭園が造られている。書院北庭園は客殿との間に白砂を大きく敷き、客殿の東面には大きな池泉を設けている。比較的新しい作庭のように見える。書院南庭園は、退耕庵を創建した性海霊見が修行した中国の地を模して作庭したと伝えられ、真隠庭とよばれているようだ。緩やかな起伏のある庭全体は苔で覆われ、中央に樹齢300年ともいわれる霧島つつじが植えられている。冬のこの時期に鑑賞するとは苔も枯れ、荒涼とした印象を強く与える。
南庭に面して四畳半台目の茶室・作夢軒がある。秀吉の死後、この茶室で石田三成や宇喜多秀家、恵瓊らが度々徳川家康討伐の謀議が行われたと伝えられている。そのため「忍び天井」や護衛の武士が控えたとされる「伏侍の間」が付属している。
山門の脇にある地蔵堂の中央には高さ3メートル、右手に錫杖、左手に宝珠を持った、白い顔の地蔵菩薩坐像が安置されている。玉章地蔵と呼び、もとは東山区の渋谷越えにある清閑寺近くの小野寺に祀られていたが、廃寺となったため明治8年(1875)に退耕庵に移されたという。地蔵体内には小野小町あての恋文を多数納めていると伝えることから、良縁をもたらすといわれている。脇壇に薬師瑠璃光如来像と十一面観音像を安置している。堂の前には小野小町百歳井があるが、これも地蔵尊とともに移転してきたものだろう。
また退耕庵の山門前には、戊辰役殉難士菩提所の碑が建つ。退耕庵は東福寺境内の北端に位置し伏見街道の要所にある。安国寺恵瓊が住持したため、毛利氏との縁も深いこともあり、慶応3年(1867)鳥羽伏見戦で長州藩の本陣となっている。そして戦後、長州藩戦死者の菩提所となっている。この石標は、その戦死者菩提所を示すものである。この碑や鳥羽伏見戦防長殉難者之墓について説明員に確認したが、どうも用意されているマニュアルには、そのあたりの事が触れられていないようで、明確な回答が得られなかった。hiropi1700さんのブログ 京都を感じる日々★古今往来Part2・・京都非観光名所案内 の 退耕庵(東福寺塔頭)「京の冬の旅」特別公開 では、以下のように記している。
この戦闘で戦死、病死者した石川厚狭介(あさのすけ)以下長州藩士四十八名の遺体は、本陣のあった東福寺の山上に葬られました。
退耕庵の書院の北側は、昭和八年(1933)に新造された本殿で「戊辰勤皇殿」とも呼ばれ、この鳥羽伏見の戦いで戦死した長州藩士四十八人の位牌が安置されています。
前半の山上とは、鳥羽伏見戦防長殉難者之墓のことであり、病死した者を含めた48名の長州藩士の墓碑が祀られている。本殿あるいは本堂に位牌が祀られ、戊辰勤皇殿と称されていることから、客殿のことであろう。
この記事へのコメントはありません。