南禅寺
臨済宗南禅寺派総本山 南禅寺(なんぜんじ) 2008/05/12訪問
八坂神社より市バスに乗り、南禅寺へと向かう。三条通を右折し蹴上に行くバスが見当たらなかったので、平安神宮の北側を通り、岡崎天王町で下車して、後は歩くこととした。途中白川通から逸れ、住宅街に入り方向が分からなくなるが、再び白川通に戻る。ほどなくして南禅寺の門前に着く。天王町の停留所から約20分程度かかったこととなる。
門前の参道の両側に並ぶ旅館や料亭が終わると南禅寺の勅使門が前方左側に見えてくる。
臨済宗南禅寺派大本山 山号は瑞龍山、寺号は太平興国南禅禅寺。
日本最初の勅願禅寺であり、京都五山および鎌倉五山の上におかれる別格扱いの寺院。
南禅寺の建立以前に、後嵯峨上皇が文永元年(1264)に造営した離宮の禅林寺殿がこの地にあった。禅林寺殿の名前は、一般には永観堂とよばれている浄土宗西山禅林寺派総本山 禅林寺の南の地に建てられたことからきている。この離宮は、上下2つの御所に分かれ、上の御所に建設された持仏堂を南禅院と称していた。現在の南禅寺の塔頭 南禅院は、この上の御所の跡に建てられたものである。
禅林寺殿を造営した嵯峨天皇の第3皇子 恒仁親王は、兄の後深草天皇の後を継ぎ、正元元年(1259)に即位し亀山天皇となる。既に文永4年(1268)にはモンゴル帝国クビライの国書を携えた高麗の使者が日本に来航しているように、当時の日本は大陸から来る脅威を感じていただろう。そして文永11年(1274)10月に対馬・壱岐を襲撃した元軍は、10月20日に博多の海岸線で日本軍と戦闘状態に入る。第1回目の元寇 文永の役である。
この時は1日だけの戦闘で元軍は撤退していったが、その7年後の弘安4年(1281)に前回の5倍近い14万の軍を以って再び攻撃(弘安の役)してきた。前回の戦術的な教訓を活かし、日本軍は防塁を構築し防御したため、元軍はなかなか上陸を果たせず洋上に留まっていた。そこに暴風雨が襲来し、元軍は戦力の3分の2以上を失い大陸に撤退せざるを得なくなった。
まさにこの国難が去った正応2年(1289)亀山上皇は禅林寺殿で落飾され法皇となった。そして正応4年(1291)に当時 東福寺住持の無関普門禅師(大明国師)を開山に迎え、離宮を禅寺に改めた。しかし既に高齢であった無関普門禅師はその年の暮れに亡くなられた。翌5年に上皇は第二世として規庵祖圓禅師(南院国師)を選任された。規庵祖圓禅師は一つの堂宇もなかった南禅寺の伽藍整備に22年の後半生を捧げたため、創建開山と呼ばれている。
建武元年(1334)に後醍醐天皇は南禅寺を五山の第一としたが、足利尊氏の時代には、五山の決定及びその住持の任免権は足利将軍個人に帰するという慣例が成立していた。そのため至徳3年(1385)足利義満は将軍家菩提寺として建立した相国寺を五山の第一とするために南禅寺を「別格」として五山のさらに上に位置づけ、京都五山と鎌倉五山に分割した。これが現在まで続く五山制度である。五山は禅寺の格付ではなく、あくまでも足利幕府の宗教政策を含めた位置づけである。
京都五山 鎌倉五山
別格 南禅寺
第一位 天龍寺※ 建長寺
第二位 相国寺※ 円覚寺
第三位 建仁寺 寿福寺
第四位 東福寺 浄智寺
第五位 万寿寺 浄妙寺
※京都五山 第一位と第二位は義満没後の応永17年(1398)元に戻され現在に至る
明徳4年(1393)と文安4年(1447)に主要伽藍を焼失したがほどなく再建。しかし応仁の乱で伽藍をことごとく焼失してからは再建も思うにまかせなかった。その後の復興は、江戸時代になって慶長10年(1605)以心崇伝が入寺してからとなる。崇伝は徳川家康の側近として外交や寺社政策に携わり、「黒衣の宰相」と呼ばれた。
境内は、西の勅使門より三門、法堂が東西軸の上に置かれている。南禅寺 本坊は法堂の東の一番奥まった場所に建てられている。
勅使門は寛永18年(1641)に明正天皇より御所の日の御門を築地塀とともに拝領したもの。
三門は石川五右衛門の伝説で有名ではあるが、江戸時代に入った寛永5年(1628)藤堂高虎が大阪夏の陣の慰霊のために寄進したもの。
法堂は豊臣秀頼の寄進であったが、明治28年(1895)に焼失したものを明治42年(1909)に再建したもの。
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