鳥羽伏見戦防長殉難者之墓 その2
鳥羽伏見戦防長殉難者之墓 (とばふしみせんぼうちょうじゅなんしゃのはか)その2 2008/12/22訪問
仲恭天皇 九條陵より参道を戻る途中を左手に入ると鳥羽伏見戦防長殉難者の墓地がある。前回の訪問は新緑の季節で木々も緑濃かったが、今回は葉もすっかり落ち、墓地の地面を茶色に染めている。やや高台にある九條陵と鳥羽伏見戦防長殉難者之墓の位置関係がよく分かるようになっている。 まず参道から墓地に入ると、この空間の広さに驚く。九條陵の一段下の斜面にこれだけの面積の平地を作り出している。この墓所には鳥羽伏見戦で戦死した石川厚狭介をはじめ、病死した者を含めた49名の長州藩士の墓碑が祀られている。墓石は仲恭天皇陵と同じく西側に面するように整然と2列に並べられ、その前には献花台、戦没者の功績を記した石碑「祟忠之碑」、そして巨大な一基の石灯籠が立っている。あたかも九條陵の主を護る衛士の隊列のようにも見える。
少し長くなるが、鳥羽伏見の戦い前からの長州軍の動きに注目し、石川厚狭介がどのよ闘ったかを見て行きたいと思う。
禁門の変で京を追われた長州藩は、第二次長州戦争において幕府軍に勝利する。慶応2年(1866)9月3日幕府と止戦の約定を結ぶが、この時点ではまだ毛利敬親・定広父子の官位復旧、及び入京の許可は得られていなかった。これが許されるのは慶応3年(1867)12月9日の王政復古を発した朝議においてであった。この朝議では長州藩の新政権への参画とともに、八月十八日の政変で追放された5人の公卿の赦免、及び岩倉具視ら謹慎中の公卿の処分解除も決定されている。いわゆる明治新政権に携わっていく人々の旧罪が許された日でもあった。つまり、この後の慶応4年(1868)1月3日から起こる鳥羽伏見の戦いで薩藩軍と共に戦う長州軍は、この王政復古の12月9日以前に京都に入ることはできなかったのである。
すでに慶応3年(1867)10月28日には、藩主毛利敬親は毛利内匠・国貞廉平に上坂出兵の旨を授け、諸隊にも告示している。これは10月14日の大政奉還直後のことである。そして11月18日長州藩を訪れた西郷隆盛らとの間に三カ条からなる出兵協約が結ばれ、11月25日毛利内匠を総督とする長州軍800は三田尻港を出港する。11月29日摂津打出浜に上陸し、西宮に陣を張る。さらに後詰の1300も11月30日には三田尻を出航している。慶応3年12月9日は太陽暦に直すと1868年1月3日にあたる。その2日前の1月1日に兵庫港(現在の神戸市)が開港している。この開港を祝う祭りを行っていた時、京を目指す長州軍は兵庫港の隣の西宮に陣を張っていた。王政復古のための最終調整を行っている時期に、軍事的なプレゼンスを示していたこととなる。そして12月10日あるいはその翌日に入京している。このように政権クーデターに併せるために行った出兵であったためか、慶応3年末における長州軍の京都における兵力は、それ程大きなものではなかった。
王政復古が発せられ、長州軍が入京すると旧幕府と新政府の緊張は一気に高まる。特に会津藩が幕府側の急先鋒となり、一触即発の状況に陥る。徳川慶喜は新政府内の公議政体派(土佐・越前・尾張藩)と連携し、困難な局面の打破を狙う。そして武力衝突を避けるため、早くも12月12日に二条城を退去し大阪城に入っている。この時点で旧幕府側は京都の外に主力を置き、京都は新政府側の本拠地となる。この退去が政治的な駆け引きにとっては有効であったようだが、軍事的にはどうであったのだろうか?
これによって一時的には武力衝突は避けられたように見えた。しかし西郷隆盛の命を受けた薩摩藩士と浪士による破壊工作が執拗に江戸で行われている。これが功を奏し旧幕府内の開戦派が12月25日江戸薩摩藩邸の焼き討ちを行う。京都で行われている政治交渉を理解しえない江戸の旧政権が引き起こした事件である。そして武力衝突の火種は京や大阪でなく、遠く離れた江戸に起こった。この知らせは大阪にも届き、開戦の圧力には慶喜も抗し難く、ついに慶応4年(1968)正月に京への進軍が開始された。
この慶応3年末時点での京都周辺の兵力は、旧幕府軍15000に対して新政府軍5000と謂われている。野口武彦著「鳥羽伏見の戦い 幕府の命運を決した四日間」(中央公論新社 2010年刊)でも、幕府歩兵隊6000に会津・桑名藩をはじめとする諸藩兵4000、そして大阪の後詰め5000を加えて15000としている。
これに対して新政府軍は小銃20隊に3砲隊の3000が主力となっている。上記のように遅れて入京した長州軍は奇兵隊、遊撃隊、整武隊、振武隊など6中隊の1000程度で、砲隊を伴っていなかった。以前に訪問した時に、「長州藩兵2100は、この戦において主に東福寺を本陣とし伏見方面を守っていた。」と記したが、実際に戦場で戦った兵の数はこの人数には達していなかったように思える。石田孝喜著「幕末京都史跡大辞典」(新人物往来社 2009年刊)でも、慶応3年(1867)12月29日の軍議で、長州藩は伏見街道の守備の任を与えられ、晦日に大仏に進駐し、慶応4年(1868)1月1日に本営を東福寺に移したとしている。この時の守備隊長は毛利内匠で、指揮官兼参謀・山田顕義、整武隊長兼参謀・田村甚之丞、遊撃隊長・後藤深蔵、八幡隊長・田中平蔵、膺徴隊長・平野光之丞、奇兵隊長三浦梧楼、同片野十郎の長州藩兵およそ1000名としている。
土佐軍は歩兵隊1000と砲隊200だが、山内容堂の命により開戦直後は積極的に戦闘を行っていない。新政府軍5000といっても、ほとんどは薩摩の踏ん張りによっていたともいえる。
長州軍は東福寺の退耕庵に陣を置き、土佐軍と共に伏見方面に出軍している。薩摩軍は鳥羽街道と伏見の両方面に兵を置いている。上記「鳥羽伏見の戦い」に掲載されている伏見両軍配置図(P102)と鳥羽両軍配置図(P103)を見るとその配備状況が明らかになる。
巨いなる企て 4/4 ~伏見の政治と軍事
秀頼様大坂移住(正月7日に大老・奉行会議で決定) 前田利家を野心のない「只の老将」と甘く見ていたことが後悔されてくる。秀頼を大坂に連れ去られると、諸侯も大坂に行く。秀頼とともに大坂城に居住できる前田利家に比べて伏見に留まらねばならぬ自分の政治的不利は明らかである。だが57歳の今日まで幾多の苦難を乗り越えて来たこの肥大漢は、この程度のことではうろたえもへこたれもしなかった。家康は敵の仕組んだ芝居に自分が乗るという巧妙な手を使った。「10日の移住には準備ができぬという者も多いやに聞く。秀頼様と大老・奉行衆のご移動だけでも大変なのに、二百諸侯一度に動くと混雑を増すばかりだ。容易に手間取る向きは一旦秀頼さまのお伴を済ませた後、暫時伏見に戻って用意を整えてから改めて大坂に移るようになさるがよい・・・」 徳川家康も今日は秀頼を送って大坂に行くが、直ぐまた伏見に戻ることになっている。伏見において政務を代行するよう太閤の遺命によって定められているからである。先の見解はこれと同じ行動を諸侯にも認めるようというものだ。つまり、「豊臣秀頼にではなく、この家康の供をしても良いぞ」というのである。さらに家康はこの意味をよりはっきりさせる噂をも用意した。「道中、内府殿を襲う計画がある」というものだ。これは「わしの警護に駆けつける者はないか」という呼びかけである。これによって新に頼りになる与党を確かめると共に、自らの威勢を天下を誇示して、反徳川勢を牽制しようというのである。 大坂城に集まった部隊は諸侯の上方詰の兵員だけで構成されていたので、きらびやかな指物や馬印の洪水の割には実戦兵力が少ないことである。最大の集団でも毛利一族の2000人、ついで前田、宇喜多、佐竹の軍が1000人といった程度である。この点は伏見勢も同じだった。関東255万石の徳川家も今伏見に集めている軍勢は4000人にも満たないはず…