妙心寺 衡梅院
妙心寺 衡梅院(こうばいいん) 2009年1月12日訪問
退蔵院の山門を出ると、再び朱塗りの三門が目に入る。勅使門、放生池、三門、仏殿そして法堂が一列に並ぶ妙心寺の主要伽藍を東に横切り、東海庵の豪華な唐門を眺めながら、右に曲がり再び衡梅院の山門前に戻る。
衡梅院は文明12年(1480)に細川政元によって創建されている。開山は妙心寺中興六祖のひとり、妙心寺9世雪江宗深である。開基である細川政元については、既に大心院の項で触れている。政元は文正元年(1466)細川勝元の嫡男として生まれている。文明5年(1473)父の勝元が没すると、政元は東軍の大将・勝元の後継者として、わずか8歳で家督を相続している。これは応仁の乱の最中の出来事である。政元は東軍を率い、丹波・摂津・土佐守護に就任する。文明6年(1474)西軍方の山名政豊と和睦する。そして文明10年(1478)元服し、8代将軍足利義政の偏諱を受けて政元と名乗る。この時、最初の管領に任じられるが、短期間で辞職している。 明応2年(1493)に起こった明応の政変、すなわち第10代将軍・足利義材の廃立事件に乗じる。足利義高を第11代将軍に就任させ、自らは管領に就いている。このようにして将軍を事実上の傀儡にして幕政を牛耳り、そして細川京兆家の全盛期を築き上げている。この細川京兆家の繁栄は、室町幕府における将軍の権威を完全に失墜させることにもつながり、戦国時代の始期ともされている。
政元は修験道に没頭し、一生独身を貫いた。そのため実子はおらず、養子に澄之、澄元、高国を迎えている。この養子に迎えた3人が家督争いを起こす。そして政元の最期はその争いに巻き込まれる形で訪れる。永正4年(1507)邸内の湯屋に入ったところを家臣に暗殺される、いわゆる永正の錯乱が発生する。細川政元の戒名は、大心院殿雲関興公大禅定門で墓所は父勝元と同じ龍安寺にある。
開山に妙心寺10世景川宗隆の法嗣で妙心寺29世景堂玄訥を迎えた大心院の創建は、文明11年(1479)あるいは明応元年(1492)とされている。前者は政元が元服をした翌年に当たり、後者は明応の政変の前年となる。恐らく政元が権勢を伸ばしていく過程で、大心院は創建されたのであろう。一方、衡梅院の創建は文明12年(1480)とされている。大心院の創建時期に関する2説の内、早い方の説を採用すれば、その翌年に開山に妙心寺9世雪江宗深を迎えて衡梅院を創建したことになる。
文正元年(1466)に発生した文正の政変から御霊合戦を経た京には各地から兵が集まり、細川方の東軍と山名方の西軍の対峙が始まる。ついに応仁元年(1467)5月26日に両軍は戦闘状態に入り、10年間に及ぶ応仁の乱が始まる。特に同年10月3日の相国寺の戦いは激戦となり、両軍に多くの死傷者を出したが、勝敗を決するには至らなかった。文明3年(1471)が終わる頃になると、東西両軍の戦いは膠着状態に陥いることとなる。長引く戦乱と盗賊の跋扈によって何度も放火された京都の市街地は焼け野原と化し荒廃した。さらに京で戦っていた守護大名も領国まで戦乱が拡大したため、諸大名も京での戦いに専念できなくなくなっている。さらに守護大名達が獲得を目指していたはずの幕府権力そのものも著しく失墜したため、もはや得るものは無くなっていた。これが東西両軍の間に漂い始めた厭戦気分を増大させ、戦乱の長期化にも繋がっていった。文明4年(1472年)になると、勝元と宗全の間で和議の話し合いがもたれ始めたが、最初は決裂に終わる。同年3月、細川勝元は猶子勝之を廃嫡して、実子で宗全の外孫に当たる聡明丸(細川政元)を擁立している。そして勝元は剃髪している。また山名宗全も5月に隠居している。つまり応仁の乱を始めた当事者達は、この時点で歴史舞台からの退場準備に取り掛かっていた。そして文明5年(1473)3月18日に宗全が病死する。享年70。勝元も後を追うように5月11日に死去する。享年44。
文明6年(1474)細川政元と宗全の孫・山名政豊の間に和睦が成立するが、まだ乱は収まらない。文明9年(1477)11月11日に大内政弘ら諸大名が撤収し西軍は事実上解体し京都での戦闘は遂に収束する。その9日後、幕府によって「天下静謐」の祝宴が催され11年に及ぶ大乱の幕が降ろされた。
衡梅院の創建された文明12年(1480)は上記のように、応仁の乱が終結した後の時期に当たる。衡梅院の開山である妙心寺9世雪江宗深は、応永15年(1408)摂津に生まれている。幼い頃に京都建仁寺五葉庵に入り、文瑛に師事して出家する。後に五山より離れて、尾張国瑞泉寺の妙心寺7世日峰宗舜に師事している。瑞泉寺は、海清寺で妙心寺3世無因宗因に師事した妙心寺7世日峰宗舜が、無因の没後の応永22年(1415)尾張国犬山に開創した寺院である。義天玄詔、雲谷玄祥、桃隠玄朔は印可状を受けて日峰のもとを去っていったが、雪江は日峰より印可を受けることはなかった。
退蔵院 その2の項でも触れたように、妙心寺6世拙堂宗朴は大内義弘と関係が深かった。そのため応永6年(1399)に起きた応永の乱で大内義弘が討死すると、拙堂は青蓮院に幽閉、妙心寺は寺領没収、龍雲寺に改名という重い処分を受けている。そのため永享(1429~41)の初めに至って、微笑庵(開山堂)だけしか残っていない状況になる。妙心寺養源院の搭主となった雪江は、龍安寺の開祖であり妙心寺8世義天玄詔に師事した。義天は大変厳しい人で、軽々しくて印可を与えなかった。雪江は養源院から毎日、龍安寺に後輩に交じり参禅した。雪江は寛正3年(1462)2月22日にようやく義天玄詔より印可状を受けている。雪江宗深、時に55歳。その26日後の3月18日に義天玄詔が没しており、雪江は義天玄詔から印可状を受けた唯一の人物となった。
義天が没すると、雪江は龍安寺を継ぐ。義天玄詔、雲谷玄祥、桃隠玄朔が相次いで遷化したため、その門下はすべて雪江宗深の門下に入ることとなる。雪江宗深は、南浦紹明、大徳寺開山宗峰明超、妙心寺開山関山慧玄の流れをくむ関山派の第一人者となった。寛正3年(1462)8月、大徳寺に奉勅入寺する。これは外護者である細川勝元の尽力の結果であろう。そして義天の例にならって3日間で退いている。応仁の乱の間、雪江は義天が開創した丹波国龍興寺に難を逃れている。丹波は細川勝元の領国でもある。雪江は文明年間(1469~87)の初めに龍安寺を再建し、文明9年(1477)後土御門天皇より妙心寺再興の綸旨を得て再建している。米銭納下帳をつくり寺院経営の合理化と経済的基盤の確立をはかり、門下に景川宗隆(龍泉派祖)、悟渓宗頓(東海派祖)、特芳禅傑(霊雲派祖)、東陽英朝(聖澤派祖)を輩出し、4派4本庵による教団統括運営組織の基礎を築く。また,妙心寺の寺史や開山などの伝記を選述している。文明18年(1486)示寂。79歳。
東に向いた衡梅院の山門の右脇には、本山四派創源雪江禅師塔所の石碑が建つ。この山門を潜ると庫裏が目の前に現れる。拝観順路に従うと庫裏の前を左に折れ、方丈玄関から入ることとなる。寛政11年(1799)に刊行された都林泉名勝図会によると下記の通りである。
慶長9年(1604)天秀得全が真野蔵人の援助を得て中興を果たしている。現在の方丈はこのとき建立されたものあることは、同年8月の紀年が記された棟札から分かる。
真野蔵人は秀頼七手組の一人、真野頼包ではないかと考えられている。生年没年不詳。父の真野助宗は秀吉の近江長浜城主時代からの家臣で小牧長久手、小田原征伐、朝鮮出兵など従軍して1万石を領した武将。頼包も父より七手組の職を引き継いで3000石を領している。冬の陣では惣構鰻谷橋を守備、夏の陣では天王寺・岡山の戦いで活躍、毛利勝永や大野治房を援護したとされている。しかし、夏の陣以降の蔵人の行方は明らかになっていない。夏の陣で討死、藤堂家に1200石で仕えて程なく病没、さらに尾張徳川家に仕えて明暦元年(1655)に死去した説もある。妙心寺の公式HP(http://www.myoshinji.or.jp/k/root4/11.html : リンク先が無くなりました )では、「真野蔵人一綱」としているので、これを信ずるならば真野頼包とは別人かもしれない。
この方丈の南庭は方丈建立時に造られたものと考えられている。ただし、現在の景色と創建時は異なっていたのではないだろうか?作庭当初は禅宗寺院の南庭として白砂の上に石組みを築いていたであろう。その後、次第に苔が植えられ、楓やナツツバキ等が植えられるようになったと思われる。
この庭は四河一源の庭と呼ばれる。四河とは雪江宗深の4人の弟子(景川宗隆、悟渓宗頓、特芳禅傑、東陽英朝)であり、一源とは雪江を意味している。苔地に据えられた石組はこれらを表現しているといわれている。ただし、南庭左奥にかなり大きな滝石組があり、方丈正面の巨石を雪江とすると、どうも意味不明の石組が現れてしまう。むしろ左手に滝石組と中央の巨石を中心として、その周囲に石を配し、大きく開けた方丈前の空間に敷石状の巨石を据えることで、全体の空間を引きしているように見える。庭を拝観するのではなく観賞するのならば、あまり、一源と四河がどこかにあるのか探し、無理に見立てる必要は無いように思う。
方丈東に造られた茶室・長法庵は、衡梅院18世広堂和尚の夫人が古い茶席を求めて南山城より約90年前に移築したものとされている。方丈玄関に入る前に見かけた中門の先には路地が作られ、この長法庵に至るようだ。この茶室を加えたことで全体の空間構成が狂ってしまったのは残念である。できれば妙心寺の伝統に従い、人目につかない奥、すなわち方丈西面に移築するべきであったと考える。
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