大徳寺 塔頭 その4
大徳寺 塔頭(だいとくじ たっちゅう)その4 2009年11月29日訪問
22世 26世 40世 56世
華叟宗曇 -- 養叟宗頤 - 春浦宗熈 -- 實傳宗眞 ※
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72世
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| 76世
龍泉庵が第40世春浦宗熈の法嗣である第70世陽峯宗韶が開創した塔頭であった。これに対して龍源院と大仙院は、同じ春浦宗熈の法嗣である第56世實傳宗眞を経て、法孫となる第72世東溪宗牧と第76世古嶽宗亘がひらいた塔頭である。いずれも龍源派と大仙派を形成し、第47世一休宗純の流れを汲む真珠派を含め、後の大徳寺四派となっている。
龍源派の塔頭は大徳寺の南側に位置したため南派、大仙院が大徳寺の方丈の北に開創されたことから北派とよばれるようになる。特に中世末の大徳寺の歴史は南北二派の成立経過の中に、ほとんど全てが含まれることとなる。北派の発展は南派よりも時間的に少し遅れる。しかし近世初の慶長年間(1596~1615)に飛躍的な発展を遂げることとなる。
南派本院の開祖となった第72世東溪宗牧は筑前大宰府の出身で、筑前の妙楽寺で出家している。その後、大徳寺において第40世春浦宗熈に十年のも及んで随従し、嗣法は第56世實傳宗眞によっている。永正2年(1505)大徳寺第72世となった宗牧は、江州高島郡の龍松山大雲寺、蒲生郡の円覚山中興寺、勢州鈴鹿の拈華山正法寺などを開創している。
東溪宗牧の法嗣には、第78世一宗紹麟、第79世悦溪宗忢そして第81世玉英宗冏があるが、悦溪宗忢の法嗣の第86世小溪紹怤が興臨院を開創すると共に、紹怤のもとより第91世徹岫宗九、第93世清菴宗胃そして第94世天啓宗歅を輩出している。徹岫宗九は龍峯院、清菴宗胃は正受院、世天啓宗歅は玉雲軒を創設している。この東溪宗牧から三代の法系により、龍源院を本院とする龍源派が形成され、以降に黄梅院や天瑞寺の開創へと繫がって行く。
南派の禅僧は、東溪宗牧の開山した江州の大雲寺や中興寺、勢州の正法寺以外にも、天啓宗歅などによる諸地方への普及活動を強化している。特に徹岫宗九の法嗣第98世春林宗俶が堺の禅通寺を中興し、その法嗣の第112世玉仲宗琇が第2世住持となるなど、後に経済的な発展を遂げる堺に南派の拠点を築いたことが、この後の南派の躍進にも大きな影響を与えている。
龍源院は第72世東溪宗牧を開山として、文亀2年(1502)能登の畠山義元、周防の大内義興、豊後の大友義親の三氏が創建した塔頭として知られている。しかし川上貢氏は「禅院の建築 禅僧のすまいと祭享 [新訂]」(中央公論美術出版 2005年刊)の中で、永正2年(1505)に大徳寺住持に出世した東溪宗牧は、その後養徳院の再建を手掛け、同院内に一枝軒を設けて退居庵としたとしている。東溪宗牧は、永正9年(1512)に特賜仏慧大円禅師の号を宣下され、永正14年(1517)に入滅している。龍源院文書には、永正10年(1513)の時点では一枝軒の名はあるものの龍源院の名は現れていない。また宗牧の寂後1か月経た永正14年(1517)5月13日の文書より、養徳院の南隅に所在していた一枝庵の所有権が、養徳院から一枝庵に移されていることが分かる。すなわち新たな院敷地を徳禅寺の西側に入手し、買い取った一枝軒の建物を中核に拡張新営したのが龍源院であったと川上氏は推測している。これを裏付けるように、「龍宝山大徳禅寺志」にも、文亀2年(1502)に霊山一枝軒が創建され、永生年間(1504~20)に客殿が創建されたので、永正年間を龍源院の創建年次としている。
切妻造檜皮葺の四脚門である表門と本堂は共に重要文化財に指定されているが、これらは龍源院の創建当初の建物とみなされている。現在残されている庫裏は、後世に再建されたものである。南面した本堂の東側に玄関が設けられているため、南側の諸室は東から礼間、室中、檀那間と並ぶ。北側も東から大書院、仏間・仏壇・眠蔵そして衣鉢間と続く典型的な禅宗方丈形式となっている。これは昭和41年(1966)に行われた解体修理により、後世に改造した個所を創建当初の姿に戻したためである。ただし川上氏は、龍源院校割帳をもとに創建時には現在のように畳が敷きつめていなく、応仁の乱後に畳敷きの座敷が普及した頃に改められたと推定している。
大永年間(1521~ 28)能登の戦国大名畠山義総が、大徳寺86世小溪紹怤を開山として興臨院を建立し、以来畠山家菩提寺となる。以上はWikipediaや竹貫元勝氏の「紫野 大徳寺の歴史と文化」(淡交社 2010年刊)に掲載されている興臨院の創建の歴史である。
これに対して、川上貢氏は「禅院の建築 禅僧のすまいと祭享 [新訂]」(中央公論美術出版 2005年刊)において、興臨院の創立を小溪紹怤の大徳寺退院後の退居寮として営まれたと考えている。小溪は大永6年(1526)2月に退院し、天文2年(1533)の院敷地の拡充のための土地取得している。すでにこの時点には興臨院が存在していなければならないことから、この7年間に興臨院が開創したと推測している。
その後畠山家が没落すると、前田利家により改修が行われ、前田家の菩提寺となり庇護される。
興臨院の平唐門とその先の玄関の唐破風屋根は、ほぼ東西軸上にある。玄関の北側には本堂があり、ここまでの表門、玄関そして本堂が創建時の建物とされ重要文化財に指定されている。なお本堂東側の庫裏は後世に再建されている。
その後、威徳院は第213世雪渓宗雪に付与されたが、文化年間(1804~17)には欠住となり、黄梅院が代行していたが、安政元年(1854)廃寺となる。
南派独住で護持され、後に兼帯となる。天保年間(1830~44)に火災に遭う。
瑞光院は堀川鞍馬口にあったが堀川通拡幅に伴い、昭和37年(1962)に山科区安朱堂ノ後町移る。現在でも大日本スクリーン製造本社工場の地には瑞光院前の地名が残っている。元禄初期、第3世陽甫和尚が播州赤穂城主浅野内匠頭長矩の夫人瑤泉院と族縁に当るところから、浅野家の香華祈願所となっている。このあたりの経緯は、嘉永7年(1854)に建てられた瑞光院遺躅碑に詳しく記されている。
正受院は天文年間(1532~55)に第93世清菴宗胃を開山として、伊勢の関民部大輔盛衡が正受軒として創建している。のち蜂屋出羽守頼隆が檀越となり、軒号を改めて院号と成し、堂宇を一新している。川上貢氏は「禅院の建築 禅僧のすまいと祭享 [新訂]」(中央公論美術出版 2005年刊)において、正受院の創立を天文23年(1554)とし、慶長年間(1596~1614)、かつて伊勢亀山を領していた関長門守一政が重修し、檀越となる。その後、第125世太素宗謁が補住し、瑞峯院の開祖で第91世徹岫宗九の法孫の第129世天淑宗眼の法嗣、第151世東嶺宗陽が住した後、第152世籃溪宗瑛の法嗣の第179世笑堂宗誾が正受院第5世となり、近世は南派の独住により護持されてきた。堂宇は明治維新に焼失し、今の本堂は昭和に山口玄洞によって再建されたものである。
瑞峯院は、天文4年(1535)第91世徹岫宗九を開祖として大友宗麟が菩提寺として創建されたとされている。宗麟は享禄3年(1530)大友家第20代当主の大友義鑑の嫡男として豊後国府内に生まれている。天文4年(1535)に自らの菩提寺として創建したとすると、わずか5歳の時のこととなる。
川上貢氏は「禅院の建築 禅僧のすまいと祭享 [新訂]」(中央公論美術出版 2005年刊)において、瑞峯院の創立を天文21年(1552)とし、その敷地は正受院と同様に興臨院の敷地を分割されたことにより成立したと記している。現在の瑞峯院は、興臨院の南隣に位置している。興臨院の小溪紹怤門下からは、正受院の清菴宗胃、玉雲軒の天啓宗歅そして瑞峯院の徹岫宗九が現われ、興臨院の敷地を分割することで塔頭が創建されたことより、創建当初の興臨院は大徳寺の伽藍の西方に広大な敷地を有していたことが黄梅院文書より明らかになる。大用庵や真珠庵が大徳寺より、松源院と養徳院が徳禅寺から敷地を分譲されて創建しているのに対して、興臨院という既存の塔頭を母体として分化独立する時期に入って行ったことを示している。また、興臨院が畠山義総の興臨院殿伝翁徳胤、瑞峯院が大友宗麟の瑞峯院殿羽林次将兼左金吾休庵宗麟大居士と、院名が塔頭の有力な外護者の法名に一致するようになって行く傾向の先例となったのが興臨院や瑞峯院であった。大徳寺山内の塔頭は、禅僧の寂後における塔所とその祭亨のために造立されてきたが、やがて塔頭を存続するために必要な経済的な財源の確保として特定の有力な大檀那の菩提所として師檀契約が結ばれるように変遷してゆく。応仁の乱以降に大徳寺や妙心寺が飛躍的な発展を遂げるのは、新興勢力としての大名被官層や裕福な商工業者を信徒として抱え込むことに成功した結果でもあり、院名が師檀契約を結んだ有力外護者の法名になってゆく。
重要文化財に指定されている方丈は、天文5年(1536)から天文24年(1555)まで、あるいは川上氏が創建年とする天文21(1552)から弘治3年(1557)までに建立されたと考えられている。また同じく重要文化財に指定されている表門も室町時代後期(1467~1572)の建立と考えられている。庫裏は文政6年(1823)に再建されている。茶室に、表千家8代目啐啄斎の好みの席を写した餘慶庵、表千家第12代惺斎の好みで、大徳寺山内唯一の逆勝手席になっている安勝軒、そして千利休の待庵を平成になって復元した平成待庵がある。 庭園は方丈を中心として南、北、西の三庭からなる。昭和36年(1961)開祖である徹岫宗九の400年遠忌に、重森三玲によって作庭されている。方丈南庭となる独坐庭は、蓬莱山式庭園で、大刈込と巨石で表した蓬萊山からのびる半島と小島に打ち寄せる荒波を砂紋で描いている。百丈禅師の「独坐大雄峰」という禅語からの命名されている。方丈北庭の閑眠庭は、キリシタン大名・大友宗麟に因んで作られた枯山水の庭。東側にあるキリシタン燈籠を背にして見ると、7個の石組みが十字架に配されている。「閑眠高臥して青山に対す」という禅語からの命名されている。 方丈西庭となる茶庭は、方丈と餘慶庵の間の露地として作庭されている。一木一草を用いず、青石を一面に敷きつめ、中央近くに立手水鉢を設けた斬新な茶庭であったが、近年、松や苔の植栽に飛び石という平凡な茶庭に改変されたのが非常に残念である。
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